115.信仰と希望と愛

聖書箇所 [コリント人への手紙第一13章13節]

 私の友人に山下耕司牧師がおります。彼の教会の名前は「ザ・キリスト教会」。つい「その意味は何ですか」と聞いてしまいました。「これこそキリスト教会!」と言いながら、確信に満ちた笑顔が私には印象的でした。本物を私は知っている、持っているという確信はとても大切なものでしょう。いざ、というときに瞬発力が出るものです。問題の解決に迫られたときとか、方向を決めなければならないときとか。
 今回はキリスト教の本物に触れましょう。それは『信仰と希望と愛』。
 あなたはラルフ・パンチ博士をご存知でしょうか。世界で初めての黒人としてノーベル平和賞を受けた方です。12才の時に病床でお母さんが彼の手を握ってこう言い残し病死しました。「ねえ、ラルフ、どんなに辛いときでも絶対に『信仰と希望と愛』を忘れてはダメよ、いい!?」。数週間後には床屋さんをしていたお父さんも亡くなり、彼は孤独の世界に取り残されました。ロスアンゼルスにいる祖母に引き取られ、中学、高校へとなんとか進みました。高校3年も終わる頃、奨学生の名前が発表される日がやって来ました。彼は自分の名前が呼ばれることに確信を持っていました。なぜかというと、クラスで一番の成績であったから。ところがついに彼は呼ばれませんでした。ついに、と言ったらいいでしょうか。彼は、いまで言う「キレル」状態になりました。彼の思いは張り裂けんばかりでした。いままで彼が経験させられて来た辛い人種差別の数々が走馬灯のようによみがえって来ました。しかしこのとき、彼の中にもう一つよみがえって来たものがありました。それはかつてのお母さんの言い残したことばでした。「ねえ、ラルフ、どんなに辛いときでも絶対に『信仰と希望と愛』を忘れてはダメよ、いい!?」。彼は怒りを鎮め、祈りました。彼はやがて国連で立派な働きをし、ノーベル平和賞を受けました。キリスト教の本物とはこの『信仰と希望と愛』にほかなりません。

信仰

 信仰とは何でしょうか。これは神さまへの信頼です。ここで信頼の重要性についてお話しましょう。あなたはレストランで食事をなさると思います。きっとテーブルの上に置いてある調味料を全く何の疑いもなく、お使いになるでしょう。これが信頼です。社会は人間同士の信頼で成立しています。そして神さまは人格あるお方としてその中心におられます。つまり人格を持った者たちの世界では信頼は絶対の必需品です。
 さて神さまへの信頼は何を生むでしょうか。詩篇37篇3節をご覧下さい。私たちが善を行うのは、たとえ周囲の人々が評価してくれなくても、神さまが知っていてくださるからであり、悪人が悪を行って利益を得ていたとしてもそれを真似ないで相変わらず善を行い続けるのも神さまによる評価を最優先に信頼するからです。
 新約聖書ではピスティス(名詞)、ピスチューオー(動詞)が使われ、240回以上出てきます。その意味は「キリストによってなされた救いに信頼すること」です。信頼できる理由は、キリストによって提供された救いの内容は私たちの人生において必要とされるあらゆる種類のものを含んでいることにあります。
 さらにこのことばは前置詞としてエイス(の中に)とエピ(の上に)が付きます。ボートを考えてみましょう。乗り込むことは両方の意味を含んでいると言えるでしょう。つまり信仰には信じる主体が存在すること、そしてボートに乗った、すなわち信じたということ。あなた(主体)もどうか信じてください。信じた人が祝福を受けます。その祝福は信じられない程大きいものです。

 以下はチャペルタイムスに紹介された事実の記録です。

 今から40年前朝鮮動乱(1950)の直前、韓国全羅南道のライ園、愛養園の牧師孫良源一家に悲劇が襲いました。動乱勃発を前に韓国全土に浸透していた共産ゲリラが一斉にテロ活動を開始。1948年12月12日のこと。同師の長男東印、次男東信の2人が、その熱心な信仰のゆえに同じ学生ゲリラの手で殺害された。まず東印が、山のように死体の積まれている警察署の裏手に引き立てられ銃口の前に立たされた。そのとき東印は兄のもとに駆け寄り、「兄は長男です。兄の代わりに私を撃ってください」と願った。だが、東印は弟をたしなめ、「父よ、私の魂をお受け下さい。彼らの罪を」とまで叫んで倒れていった。弟も「主イエスが十字架につけられたように、僕も十字架の姿で撃たれたい」と叫び、両手を広げながら、ついに銃殺された。
 葬儀の日、孫牧師は十の感謝を発表した。「1、私のような罪人の血統でありながら、殉教の息子を下さいまして、神さまに感謝いたします。2、数多い信徒の中でも、私を特に愛してくださいまして、このような試練をくださった恵みを感謝いたします。3、息子一人の殉教でも貴いことなのに、2人もとは何と貴いことでしょう。…(省略)…7、わが愛する2人の息子を殺した青年を悔い改めさせ、わが息子にせんとする心を下さった神さまに感謝いたします。・・・葬儀を終えて孫牧師は赦免を願い出、奇跡的にかなえられ、犯人の学生は養子に迎え入れられた。孫牧師は「君のあやまちはもうすでに赦されているんだよ」と謝罪に身を震わせる彼をしっかりと抱き締めた。孫夫人もまた「よく来てくれたね」とただ、涙のうちに彼の手をしっかりと握っていた。

希望

 ギリシア語(新約聖書のことば)ではエルピス、信仰と置き換えることが可能です。本来は「将来、いいことがありそう」という程度の意味でした。それが旧約聖書の考え方と相まって「歴史を支配している実力ある神さまは(私を)祝福するという約束を守ってくださることについての確信」へと変化しました。それはどんなに悲惨な辛い状況に置かれても希望があるという信仰でした。
 『アルプスの少女ハイジ』はとっても心暖まる話で日本でも大変人気がありますね。著者であるヨハンナ・スピーリはこの作品を53才で書き上げましたが、書き物をするようになったのが44才。中年以降の方々にはホッとさせる何かがあるのではないでしょうか。
 さて恵まれた家庭に育った彼女は25才の時に恵まれた結婚をし、一人の息子を与えられる幸せの中にありました。しかし人生には試練が襲うものです。その一人息子が29才の時に病死してしまいます。彼女の落胆は非常に大きいなものがありましたが、なんと7ヶ月後には夫も亡くなってしまいます。彼女の思いはいかばかりであったでしょう。なんともことばがありません。
 しかしここで彼女は信仰をリバイバルさせます。これが本当のリバイバルです。実は彼女のお母さんは有名な讃美歌の作曲家であり、信仰の篤い人でした。そのお母さんから信仰を教えられていたから・・・。しかしここで彼女はがぜん燃えるのです。試練が彼女をして信仰に目覚めさせました。「私には私の話を喜んでくれる子どもたちがいる。これが私に与えられた賜物なのだ!」こうして彼女はこのことに希望を見い出し、次々に作品を残して行くのです。彼女は57才の時に、『人を助けることのできない小さな人なんてどこにもいない』という題名の本を書きました。

 愛と言えばキリスト教、キリスト教と言えば愛。レビ記19章15節、申命記6章5節、マタイの福音書22章37ー40節をお読み下さい。愛こそ聖書の一番の主張です。
 旧約聖書では愛はアハバーです。これは心の中の楽しみを言います。あなたは自分の心を楽しませていますか。家庭生活、学校生活、職場生活、教会生活においてどうかたくさんの楽しみを見つけてください。それは完全に神さまのみこころです。
 またヘセドーということばもあります。これは神さまと人とへの誠実や真実を指します。あなたは神さまに対して誠実でしたか、真実でしたか。きっとそうであったでしょう。ならばあなたはそのとき神さまを愛したのです。あなたは人に対して誠実でしたか、真実でしたか。きっとそうであったでしょう。ならばあなたはそのときその人を愛したのです。
 新約聖書では余りにも有名なアガペー(名詞)、アガパオー(動詞)です。これは命を捨てる愛。あなたの一番大切なものは何ですか。それを捨てることができますか。ところでアガペーは本来「気に入る」の意味です。つまり「好き」という感情レベルの内容です。
 ところがこのアガペーが命をすてる愛という意味が付与されることに私は神さまのご配慮と愛を感じます。私は若いカップルに「好きな人と結婚しなさい」とよく助言します。なぜなら「好き」から「愛」へ移行するのは、「好きでない」あるいは「嫌い」から移行するよりは難しくないからです。「愛」は意志の世界です。相手を好きでも嫌いでも「愛する」のが「愛」です。でも嫌いな相手を愛するのは実に難しいことです。相手の為に自分の命を捨てるのが「アガペー」という愛だと言いましたが、イエスさまの命はあなたの為に捨てられました。

 昭和29年、1954年に青函連絡船洞爺丸は台風15号の影響で遭難しました。タイタニック号が1500人余、洞爺丸は1155人の犠牲者を出し、史上2番目の海難事故となりました。この中に3人の宣教師がいました。45度に傾く船体、あらゆるものが海の中に落ちていく中、必死に救命胴衣を得ようとする乗客たち。リーパー宣教師は子連れの母親に、ストーン宣教師は若い学生にそれぞれ救命胴衣を譲り海の藻くずとなって消えて行きました。

 ではキリスト教の本物には私たちはどのようにして触れることができるのでしょうか。いままでにご紹介した話に共通する点に気付かれたでしょうか。試練です。私たちは試練の中で本物に触れます。あなたは今苦しみの中にありますか。辛い思いをしておられますか。どうか聖霊さまにあなたの心をゆだねてください。そのときあなたは本物のキリスト教に触れているのです。触れること、それはあなたの中に本物が入ったということ、ならばあなたはそれを育てて行くのです。神さまとの協同作業です。あなたはそれを心から歓迎なさいますか。神さまの祝福があなたにありますように。


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