116.出会い、生きている実感

聖書箇所 [創世記3章8節]

 出会い、ということばがあります。これに関連して「出会いが将来を決める」とか「いまを見れば、いままでにどのような出会いをして来たかが分かる」と言う言い方もあります。もちろん出会いとは人格との出会いであって、物質とではありません。
 今回学びたいのは聖書が紹介する最高レベルの人格イエス・キリストとの出会いです。3人紹介しますが、3つのタイプと考えていただいて結構です。

ゲラサ人の男[ルカの福音書8章26−39節]

 まず上記の部分を読んでいただきましょう。悪霊と汚れた霊とに憑かれた男が墓場に住んでいました。鎖も彼を縛っておくことができません。彼の中にあるのは恐ろしいほどの力です。実際に悪い霊に憑かれると子どもでも大の大人数人を吹っ飛ばすことをします。私もかつて悪霊追い出しをしていて、回し蹴りを食らったことがありました。
 さて彼は自分をコントロールすることができません。心もからだも自由にはなりません。こういう彼がイエス・キリストと出会ってすっかり変えられました。35節をご覧下さい。周囲の人々も驚きましたが、本人が一番驚いたでしょう。

 この記事を読んだ一人のビジネスマンがこう言いました。「これは私だ!」。彼は自分を会社人間と言い、この男に自分の姿を見ました。一日の、いや人生の大部分の時間を会社と共にそして会社のために費やしていました。墓場は住むところではありません。会社も同様です。山一証券が倒産しました。四大証券会社の一角がいとも簡単に姿を消しました。大きな衝撃が日本の社会の中を駆け抜けました。会社は永遠だった(と多くの人々が思っていた、もちろん錯覚。そういう私も団塊の世代で会社に於いて毎日、徹夜!徹夜!といった時代があり、働いている私自身は一種の恍惚状態に入っていたと言う面もあるかなあと思います)時代が終わりを告げました。
 会社は仕事、それは、すなわち神さまから期待された社会貢献を果たすことと一部の自己実現に寄与という大切な2つの内容を含むゆえに人生の中で重要な位置を占めます、が、人生のすべてを期待する場所ではありません。余りにも多くの会社勤めの人が殉職、いや過労死しています。今、多くの人々がこのことの異常さに気付き始めています。
 でもまだそうでない時、困ったイデオロギーに捕らえられているということに私たちは気付きません。何でしょうか。努力至上主義です。ガンバリズムです。先の述べましたように私は団塊の世代です。思い出します。中学や高校の時の教科書。特に社会科です。棒グラフがたくさん並んでいて、欧米は背が高く、日本は低く、それらをたくさん、これでもかこれでもと見せられて、「さあ、頑張れ!ガンバレ!」と発破をかけられました。私は少なくとも心の隅っこで疑問に思ってはいましたが、その理由が当時は分かりませんでした。
 いまでもそのようなやり方が見られます。プロ野球でも、高校野球でも、倒れるまで練習をします。投げられなくなるまで投げます。過った精神主義です。正確には、させられる、のです。ある人が言いました「まるで宗教だ!」。苦しむことに意義があるかのようです。試合前には疲れ過ぎない方がいいでしょう。確かに努力は価値あるものに違いありません。でももっと大切なものがあるのではないでしょうか。それは目標地点が適切であること。つまりどこどこへ到達するから努力をする必要がある、と知っていなければなりません。努力は万能ではありません。

 さて墓場から解放された彼は、救ってくださったイエス・キリストに従おうと申し出ました(38)。当然の気持ちでしょう。感謝もあれば、恩返しの気持ちもあったでしょう。全く自然な感情です。イエス・キリストのお答は。39節の冒頭です。注目してください。彼には家族のもとへ帰ることが求められています。
 もう一つのメッセージがこの話にはあります。家族における男性のリーダーシップです。学校で学級崩壊現象が起きています。生徒たちは先生たちの指導に従いません。一つの大きな原因は権威を学んでいないことにあります。それははじめに家族で学ぶべきものです。ところが家族の中ではその権威を教える主役たる男性が、すなわちお父さんが不在なのです。女性は気持ちが揺れます。これを止める働きが男性に求められています。ところが止めてくれるはずの男性が家庭の中にいないのです。またいたとしても一緒に揺れているのです。アダムとエバの夫婦に起きた悲劇をあなたはご存じでしょう。サタンが誘惑しました。エバの心は揺れました。このとき、アダムは彼女の心の揺れを止めなければなりませんでした。でも最悪でした。一緒に揺れて、しかも大きく揺れて、結局全人類に罪が入り、今日すべての人が罪人になりました。イエス・キリストとの出会い、それは家族の中にも真のリーダーシップを取り戻してくれます。

ザアカイ[ルカの福音書19章1−10節]

 上記の部分を読んでいただきましょう。彼も有名人です。ザアカイは取税人。取税人とはローマ帝国から税金を人々から取り立てるべく請け負っていた人々です。ただしそれだけではありません。「あなたの納めるべき額は一万円ですよ」と言い、実は2000円でした。差額は彼のポケットへ。これでは嫌われます。けれども彼には人を雇う(会社を経営する、といったらいいでしょうか)才能もあり、金持ちになっていました。対称的に心の中は闇。彼は物質至上主義者であり、金銭至上主義者でした。
 彼はあるとき、イエス・キリストについてのうわさを耳にしました。なんとなく感じるところがありました。直感。でも彼には友人もなく、本当の事を教えてくれる人もいません。近づこうとしましたが、こづかれたり、足で蹴られたりさんざん。思いついたのが木に登ることでした(4)。背の低い彼にはちょうど都合の良いことでした。もはや誰も彼を邪魔することが出来ません。
 ところが、なんと、イエス・キリストが彼に近づいて来られるではありませんか。もうびっくり。目と目が・ ・ ・ パチッ。彼はほんとうに驚きました。おまけにイエス・キリストは彼の名前を呼ばれます。またまたびっくり(5)。このとき、ザアカイは生涯忘れることのできない出会いを経験しました。そして大きく変えられました。どの程度? 8節をご覧下さい。こんなことをしたら全くの赤字ではないでしょうか。新たに負債を抱えることになるのではないでしょうか。でも強制された事では全くありません。心の内側から沸き上がる、彼自身にも止められない思いでした。
 彼は瞬時に癒された典型的な例です。癒されるには実際、時間がかかるものです。でもこの場合は極めて短い時間でした。彼はいやされました。彼の暗闇に光がパッと輝き始めました。出会いがいやしをもたらしました。彼の良さは好奇心が旺盛、積極的であることです。このような人には直感が働きやすいものです。すなわち聖霊さまが働きやすいものです。あなたはいかがですか。

ニコデモ[ヨハネの福音書3章1−21節]

 上記の部分を読んでいただきましょう。パリサイ人とは当時のユダヤ人社会に於て人口のせいぜい3%程度と言われていますが、オピニオンリーダーシップであって、大きな影響力を持っていました。彼はユダヤ人社会の指導者であるとも記されています。彼の苦しさは人々の質問に答える立場であったことでした。もうこのときにはすでに自分の持っていた従来の、あるいは教えられてきた答に確信を失っていました。そこで「夜」イエス・キリストのもとへやって来たのです。人目を忍んで。彼は「人の目が恐い」タイプと言えるでしょうか。しかし彼には「新しく生まれなければ・・・」(3、10)というイエス・キリストのおっしゃることの意味が理解できません。4節では全く頓珍漢な受け答えをしています。でも彼の長所は形而上学を求める心を持っていたことです。すなわち真理とは、愛とは、永遠とは、人生とは・・・などへの問いです。きっとあなたにもあるでしょう。
 ところで彼はイエス・キリストのお答をすぐには理解できません。イエス・キリストは広く深い心で彼を待ちます。ここにイエス・キリストの人格の大きさがあります。中ぶらりんを受容する大きさが。私たちは人を裁くべきではありません。少なくとも3章の時点では彼が変えられたとは思えません。でも7章50、51節ではイエス・キリストを彼は弁護し、19章39節では埋葬に駆けつけています。彼の中で変化は確実に進んでいることは間違いがありません。男性にはこのようなペースはよくあることです。彼の長所は真面目さと真剣さと言えるでしょうか。

重要なこと[創世記3章8節]

 さて3人の共通点は何でしょうか。それは夕方以降に起きたことでした。参考箇所を紹介しましょう。ゲラサ人(夕方ーマルコ4:35)、ザアカイ(泊めるールカ19:5)、ニコデモ(夜ーヨハネ3:2)。
 夕方とはどういう意味あいがあるのでしょうか。現代イスラエルでテレビやラジオのスイッチを入れるとこのようにアナウンサーが言います。「午後5時です。こんばんは。新しい一日が始まりました」。そうです。夕方こそ新しい一日のスタートする時です。そしてヘブル語では「夕方」(箴言7:9、イザヤ21:4)の原意は「吹く」です。
 そこで創世記3章8節を見てください。すなわち一日の仕事を終えた頃、夕方には心地よい風が吹きます。パレスチナではそうです。そして風は神の霊を表します。あなたは一日の仕事をしっかり終えた後、神さまの、そしてイエス・キリストからの心地よい霊の風に吹かれ、リフレッシュされ、家族と団らんし、健やかな眠りにつき、すばらしいエネルギーに溢れた朝を迎えます。パレスチナにおいて朝の日ざしは強烈なものです。これから出会うであろう困難を容易に予想させるものであり、余計ありがたみを実感するでしょう。
 あなたも、今、あなたがすんでいらっしゃる所で、イエス・キリストと素敵な出会いを経験し、生きている実感を喜び確かめることができます。ちなみにイエス・キリストはよく弟子たちにこう呼び掛けられました。「向こう岸に行こう」(マルコ1:32、4:35、5:21、6:45、47、8:13、14:17)。それは夕方に発せられることばでもありました(マルコ1:32、6:47、14:17他)。夕方を大事にするあなたにすばらしいイエス・キリストとの出会いがありますように。


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