12.神のトレーニング

 みずからお造りになった世界の出来栄えをご覧になって神さまは大変満足され、「すべては良かった。」(創世記1:31)と表現されました。人が生活するに申し分ない非常に優れた環境であったからです。
 キリストの神さまの第一のご性質は何かと言えば、それは愛であり、親切です。それはちょうど親が子を思うようなもので、幸せな生涯を送ってもらうために何ができるだろうかと常に考えておられます。
 しかしこれは決して私たちの人生に苦しみや試練の類が全くないという意味では決してありません。むしろ愛の深さゆえ、鞭(へブル12:6)さえあるというのが本当のところです。
 今あなたは失望していますか。泣いていますか。困難を抱えていますか。たとえそうでも心配は要りません。なぜって?今回はそれを一緒に勉強してみましょう。まずヘブル人への手紙第12章1節から12節までをお読みください。

苦しみには強い信仰を与える働きがあります

 強い信仰とは何でしょうか。それは諦めないことです。一度や二度の失敗で「あーあ、もう駄目だ!」と投げてしまわない信仰です。2節をご覧ください。私たちの主イエスさまは恥ずかしい思いもしたし、非常に辛い思いをしましたけれど忍耐して、 とうとう「神の右に着座」という栄誉を得られました。(ピリピ2:6〜11ここには最低の所から最高の所へという上昇が見られます。)これが強い信仰とは何かの見本てす。「前に置かれた喜び」つまり、神さまが与えようと用意してくださった祝福を決してのがさないぞという信仰です。
 又は本当に価値あるものはただやって来るのを待つというより、戦い取るべきものです。本屋さんに行けば『資格を取ろう 』という類の本を多く見付けることができますが、簡単に取れるものほど世間一般では評価・価値が低いと言えます。司法試験などは自分の背の高さほどの法律書を暗記またはマスターしていなければ合格できないと言われますが、さすがに合格者は深く尊敬されます。強い意志や意欲が必要です。それと同じで神さまから真に良いもの・大きいもの・豊かなものを得ようとすれば、強い信仰が必要です。
 人間にとって信仰 の世界は全く平等です。それは心の中の世界の出来事ですから。もしあなたが今辛い時期を過ごしておられるなら、神さまはあなたを愛しておられることを知ってくださ い。苦しみはあなたの信仰を強めるのです。強い信仰の持ち主ほど祝福を多く受けるし、難しい問題を解決するのです。           

苦しみには神さまからの祝福を阻む障害物を取り除く働きがあります

 障害物とは何でしょうか。1節をご覧ください。「重荷と罪」です。「重荷とは生きる上で辛さを感じさせるものすべてを指しています。実は教会は私たちの負って いる「重荷」を下ろさせてもらえるところです。教会のドアを開けるときは気が重くても、帰るときはルンルン気分、これが教会の有難さです。ところがこれを理解しない人たちもおります。持ってきた「重荷」を降ろさないでそのまま持ち返るのです。どうぞ降ろしてください。どういうことでしょう。神さまを礼拝したということはこの問題の解決を神さまに委ねたという意味であることを知らなければなりません。後は素直に信じたあなたに、神さまの応答が来るのを待てばいいのです。
 では次に「罪」について学びましょう。「罪」は大きな壁です。「罪」は罰を引き寄せます。罰は「罪」を犯した人をいつまでも追いかけます。ですから「罪」を持ったままでそのままにしているとやがて失敗するのです。
 たとえでお話ししましょう。人が馬に乗って進むとします。馬は「無意識」で「意識」は乗り手です。乗り手は目的地(つまり願いや祈り)を知っていますからそちらの方へ一生懸命に行こうとしますし、そう表明します。けれども「罪」を知っている「無意識」、これは良心と言ってもいいでしょう。これはうまく行くはずはない、と変な納得をしています。こうして恵みを受け損ないます。競争に勝とうと思うなら、陸上でも水泳でもできるだけ身軽にする必要があります。背広やドレスを着て走る人はいないでしょう。4節をお読みください。私 たちは「罪」と戦う必要があります。
 「罪」とは何でしょうか。ガラテヤ人への手紙5章19節から21節をお読みください。もしあなたがイエスさまを心の中に受け入れなさるなら、あなたは「罪」が何であるかをはっきりと知ることになるでしょう。そうして悔い改めるとき、神さまから新しい祝福が臨むでしょう。ヘブル人への手紙の11章に出てくる人物(12章1節では証人と表現)はこのような手続きによって祝福を得て行ったのです。

苦しみはあなたを「受ける者から与える者」に変身させる働きがあります

 イエスさまはその生涯において、また十字架の上で大変苦しまれました。しかしその功績は父なる神さまから認められました。その功績とは何でしょうか。人々に永遠のいのちを与えるというものです。神さまのいのちのようないのち、天国に行けるいのち、天国で通用するいのちです。私たちもイエスさまに倣って与える生き方をするなら非常に豊かに祝福されます。
 普通の人間関係の一場面を想像してみましょう。あの人はただもらうことばかり考えている、というふうに見なされたら、だんだん人々はその人には近づかなくなるでしょう。では反対の場合はどうでしょうか。あの人のそばに行くとうれしくなる。何かいいことがありそう。もうお分かりでしょう。私たちにはエゴがあります。この嫌らしい性質を苦しみが取り除いてくれます。
 イエスさまは言われました。「受けるより与えるほうが幸いである。」(使徒20:35)受けることだけを考えているよりも与える方が結局は多く受けるのです。
 今あなたがしつかりと握っている手を勇気を持って開いたら、その中にあるものは宙に舞い上がり、あなたから一度離れますが、神さまはそれを捕らえて30倍60倍100倍にして再びあなたのところに帰ってくるようになさいます。「弱った手と衰えた膝とをまっすぐにしなければなりません。」(12節)。
 今、あなたは訓練・トレーニングを受けています。それに感謝する者には勝利があります。神さまの善意を知ることのできる者は幸せです。もう一度5節から7節を読んでみましょう。


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