120.もっと自分を解放しよう

聖書箇所 [ルカの福音書7章36−60節]

 「私は私が思っていたよりも、大きく、かつすばらしい。私は私の内部にこんなに長所があったとは知らなかった」
 ホイットマンの詩です。
 あなたはノーマン・ビンセント・ピール牧師をご存知でしょうか。世界的なベストセラー『積極的考え方の力』の著者です。彼についてはこのような話が伝わっています。
 原稿を書き上げたときに失望してゴミ箱に捨ててしまいました。それを見たお手伝いさんが読んでみたところとても感動し、それをきっかけに出版し、大評判を博しました。

 何をお話したいかと言いますと、あなたは必要以上に自分を小さくしていませんか、あるい小さくしよう、小さくしようとしていませんか、ということです。今回の題は、もっと自分を解放しよう、です。もっと大きくなれるはずと私は訴えたいのです。
 あなたは神の子、それならそれにふさわしく大きいはずです。この世にはこのような問いに対していくつもの解決策が提案されています。代表的なものの一つが自己実現です。難しそうなことばですが、一言で言えば、自分の能力を最大限伸ばそう、ということです。これはすばらしい提案です。
 ところでこのような自己実現に凝っていたのが、この箇所に登場するシモンです。このように言いますと、自己実現というアイディアには限界があると言いたいのかなあ、とお思いでしょう。そのとおりです。シモンはいわゆる「良い人」、「まじめな人」です。彼の自己実現は「律法」を一生懸命に努力して満足させることでした。その努力は敬意を払うに十分なものには違いありませんが、しかし明らかにいくつかの難点があります。たとえば、「人」が見えていないとか。その証拠にここに登場する女を裁いています。さていかに自分を解放してもっと大きな者になれるか、学んで参りましょう。

自分から目をそらす

 これは自分を客観的に見ようということです。自分を小さくしている人には自意識過剰の傾向があります。このように言いつづけています。「私は・・・」「私の気持ちは・・・」「私の願いは・・・」。常に「私は・・・」が口癖です。シモンはそういう人でした。そしてその結果として自分を見失うのです。イエスさまの十字架上でのおことばを思い出します。「父よ。彼らをお赦しください彼らは何をしているのか自分で分からないのです」(ルカ23:34)。そうです。自意識過剰の人は自分のことが分からなくなっています。そこでこのようなシモンを愛して、自分を客観的に見させようと一つの手をお使いになったのです。それがたとえです。もちろんここまでの話には36節から39節までの話が前提です。
 さて、イエスさまのお話しなさったものは41節から42節にあります。シモンは他人のことであるために極めて冷静に正解を出し、イエスさまにほめられています。
 似たようなことは預言者ナタンとダビデの間にもありましたね。サムエル記第212章のはじめの部分をお読み下さい。ダビデはなんとこんなことを言っているではありませんか。「すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。『主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を4倍にして償わなければならない』。しかしナタンの答えはこうでした。「あなたがその男です」。
 自分を客観的に見ることのできる人は人間関係も安定しています。一つのそのための提案はユーモアのセンスを磨くことです。私たちの人生にはいろいろな困難や苦痛や苦労があります。それをやわらげる働きがユーモアにはあります。
 高校の文化祭に出かけた人が一つの教室を覗きました。ガラーンとした中に、上を見上げますと天井には一本の洗濯用のひもが張られ、それにはクツ(靴)がたーくさんぶら下がっていました。「これはいったい、何ですか?」「これは人生です」「人生?」「人生って苦痛(クツ)の連続です!」。私は牧師と言う立場上でしょうか、多くの方と通り一遍ではないおつき合いを致しますが、経験則の一つとして言えることは、ユーモアのセンスのある人は困難に強いことです。明るい人は強い、自分を笑えるようになった人は強いということです。

人を人として見る

 人を人として見ないで何であると見るのでしょうか。まさか人がネコに見えるわけではないでしょう。意味を分かっていただけると思います。人を自分の目的を達成するための道具として見てはいけないのです。利益を吸い上げるためだけの対象としてはいけないのです。人を道具と考える人々はたいがい、うつ的です。理由は自分の期待が裏切られることが多いから。冷静に考えれば分かることでしょう。いつも「もらおう、もらおう」としている人は好かれません。世の中には親切な人がいて、多くを与えてくれる場合もありますが、いつまでも、ではありません。いつまでもいくらでも続けて与えてくれるわけはありません。やがて拒否されるときがやって来ます。こうして「くれくれ」言う人は常にがっかりするのです。被害者意識の中にどっぷりと浸かるのです。
 44節をご覧下さい。イスカリオテのユダは似た状況で貧しい人のために費ったらどうかと抗議しましたが(もちろん会計係をしていた彼は一度自分の管理している会計に入金されるから、それでピンはねできることを想定していたのです)、シモンはこんな女のそばにいたら汚れますよ、と言いました。彼には自分に利益になるかどうかでしか人を見ない傾向がありました。

 とてもよく働く看護婦さんがとうとう病気になってしまいました。それだけではありません。彼女は絶望感にさいなまれる毎日を迎えました。カウンセラーがこう助言しました。「あなたは長時間働くことができなくなったからといって、自分の人生にはもはや意味がないと嘆いていますが、もしそのように考えるならばいままであなたの患者さんであった方々は無意味な存在であったのではないですか。それは彼らに対して大変失礼なことではありませんか」。
 ここでマタイの福音書16章25節を読んでいただきたいのです。ただ自分が生きようとするだけでは結局はその自分は死んでしまうと言っています。自分ばかりを見ているのではなく、もっと外に目を向け、人を見るときにその人の中に神の形を見るようにしましょう。尊敬できるようになるはずです。この人のためにもイエスさまは命を捨ててくださったことを覚えましょう。イエスさまの命が支払われたことはあなたが高価であることの証明ではありますが、本来あなたは高価である(イザヤ43:4)からこそ、イエスさまの尊い、そして値段の付けようのないほどの高価さを持つ血が流された(支払われた)事実も覚えなければなりません。
 またあなたは出会う人の中にイエスさまを見なければなりません。創世記18章を1節からご注目ください。神学者の間ではこのアブラハムがもてなした旅人たちの内の一人は受肉(神学用語で、人となること)前のイエス・キリストであったと言われています。アブラハムは知らずしてイエス・キリストをもてなしたのです(マタイの福音書25:31-46)。もしあなたが出会う人を尊敬の思いで接するならばあなたも同じように接してもらえるでしょう。それはあなたが大きくされたことでもあるのです。そして大きい器には祝福がたくさん入ります。

人との真実の関わりを持つ

 イエス・キリストによるシモンへの批判の中心部分は何でしょうか。もちろんイエス・キリストは彼を愛しておられます。哀れみと親切なイエス・キリストがどのように人と関わって行くかを私たちはここで学ぶことができます。ところでその解答をする前に、この話と極めて似た話を福音書の中に思い出してはおられませんか。ヨハネの福音書8章2節から11節にある姦淫の女の話です。人々は女を責めます。シモンも女を責めます。最後にイエス・キリストによる罪の赦しと解放の宣言があります。ところでいくつもの共通部分がある中で、今注目したいのは、攻める側に欠除したものがあることです。それは何でしょうか。仲間意識の欠除です。互いに罪人であるはずなのに。
 互いに欠けのある者同士であるのに身障者が健常者にこう訴えました。「どうか私たちを見下さないでください。あなたは眼鏡をかけていますね。目が悪いからでしょう。足の悪い人が松葉づえを使うのとどこが違うのでしょう。同じではありませんか」。
 つい私たちは人を見て裁きます。片足を失った人が片腕を失った人に向かってこう言うようなものです。「あなたが腕を失ったのは、あなたが何か罪を犯しているからですよ。何か罪を隠していませんか。さあ、悔い改めなさい。神の罰から免れるために」。
 私たちは互いに欠点のある、罪のある存在です。愛と哀れみの心で互いを結び付けなければなりません。そして輪になって喜びと悲しみを共有しなければならないのです。
 シモンが批判されなければならないのは自分のことにしか注意が向いていなく、自分の自己実現にのみ忙しくて、他者が目に入らないことです。真の血の通った関わりが同じ人間同士で存在しない生き方です。なんと寂しいことでしょう。

 さあ、結論に入りましょう。互いに欠けのある者同士であるなら、私たちの第一の関心事は自己実現ではありません。私たちの外にある、というよりも置かれた意味を生きることでなければなりません。あなたは今パソコンに向かっていらっしゃいます。パソコンの存在や働きの意味は何でしょうか。あなたはそれをご存じのはずです。そしてそれは内部にはありません。内部からは発見できないものです。外にあるものだからです。
 そしてもう一つ。意味は製造者が用意するということ。あなたは神さまによって造られました。あなたの存在や働きの意味は神さまによってすでに用意されていることをご存じですか。そしてあなたがそれを知り、それに従って生きるとき、あなたは最高に大きくされます。解放されています。同時に副産物として自己実現があります。自己実現は結果として与えられるものです。手がその能力を発揮して力強く握りました。足がその能力を発揮して上体をある場所まで移動させました。ではいったいそこに何の希望があるのでしょうか。両者を統合するものが必要です。それこそが「存在することと働くこと」の意味です。
 どうか神さまに問うてください。私は何のために生き、何のために働くのですか。答えが与えられるとき、あなたは最高に解放されています。
 神さまの祝福があなたに豊かにありますように。


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