122.平和な人間関係を作るには

聖書箇所 [コロサイ人への手紙3章12−17節]

 作家のなだいなだがこういう話をしています。かけ出しの精神科医だった頃、30歳くらいの1人の女性を受け持った。一言も口をきかず、看護婦の世話も嫌う。その顔つきは恐ろしく、周囲の人々を不安がらせた。どんな病気でも直してみせると意気込んでいた彼には「あの人には近寄らない方がいいですよ」という看護婦の忠告も耳にはいらなかった。彼は時間を見つけては話し掛けるようにした。あるときは近付く彼に火ばしを投げ付けることもあった。でも努力のかいもあって、彼女の顔に変化が見えるようになった。穏やかになったのである。
 さてある日、お姉さんが転居したので近くの病院に移したい、ついては途中暴れると困るので痲酔薬を注射してほしいと言って来た。彼は葛藤を覚えた。どうせ私の手の届かないところにいる彼女だ、何も考えずに注射すれば私の任務は終わる、でも・・・。彼は彼女を呼びに行かせた。すると滅多に見せなかった笑顔とともにやって来た。でも注射器を見たとたんに彼女の顔は恐ろしい形相へと変わった。うつらうつらする中で彼女のことばを彼は聞く。「やっぱり、おまえもうそつきだったんだな。おまえもあたいをだますんだな。おまえも、おまえも!」
 なだいなだは言う。
「それが、私の、歌子の口から聞いた最初の、そして最後の一言だった。一時はおしではないかとも思った彼女が、はっきりと叫んだ、まぎれもない日本語だった.私は注射をしながら、もしかしたら彼女は今日、私の診察に素直に応じ、私と話をしたかも知れなかったのだ、という気がした。そのチャンスは永久に失われてしまった。私はその時、自分がたとえようもないものを失ったような気がした。いや、失ったのではない。はじめから私に欠けていたのだ.披女は病気であったし、その病気を私はなおせなかった。だが、それはしかたのないことだ。病気をなおせるとは限らない。だが、彼女は病気でありながらも、私を信頼しかかっていた。それなのに、私は徒女にこたえるものを持っていなかったのだ」。(「患者は先生です」『なだいなだ全集4』筑摩書房)

 人間関係について一つの大きな特徴を教えている話ですね。すなわち平和な良好な人間関係を築くにはなんと手間ひまがかかることか、それに比べて破壊される時は一瞬であること。神さまのおこころは平和な人間関係の中であなたが生活できること。なぜなら平和な人間関係は幸せにとって、とっても大切な要素であるから。今回はこのテーマで学びましょう。答えは14節にあります。愛がその答えです。愛の持つ4つの内容を学びます。

人を受け入れる

 人を受け入れることはその人の意見や生き方などに賛成することではありません。お花を見て「美しい!」と感じた人がいたとして、「あなたは美しいと感じたんですね」と、その感じた事実の存在を承認することです。12節には「深い同情心」を身につけるように求められていますが、これは「哀れみに満ちた同情心」と直訳することができます。パウロはピリピ人への手紙1章8節では「イエス・キリストの愛の心」と表現しています。
 どんな心でしょうか。キリストは天におられて、心を傷めておられました。人が罪の汚濁の中で苦しみもがいている様をご覧になったからです。このままでは悪い運命が待っているだけだとお考えになったのです。そうしてついにご自分が犠牲になられることを決意なさいました。すなわち人となって同じ運命を同じ目線で見よう、経験してみようとなさったのです。これは、裁くこととは対極にある態度です。

 中学校で遅刻対策を話し合うために役員会が開かれ、各役員が毎朝、門に立って遅刻者をけん制することを決定しました。佐藤君に順番が回ってきた月のことです。毎朝、わずかの時間ですが、決まって遅刻する同級生がいました。自分の立場もあり、彼はそのことにはいらいらさせられどおしでした。
 でもあるとき、ひょんなことから事情を知ることとなりました。その同級生のお父さんは3年前に刑務所に入っていて、お母さんは蒸発してしまって、弟と妹の面倒を見ていたのです。好意で近所の人が貸してくれた部屋に住み、毎朝5時に起きて市場でアルバイトをし、帰宅して弟と妹を起こし、朝ご飯を食べさせ、小学校まで送る。それから中学校へ来るとどうしても遅刻をしてしまう。
 佐藤君はこういう事情も知らずに勝手な判断をしていたことに恥ずかしさを隠せなかったと言います。確かに人にはさまざまな事情があります。あるはずです。そのような事情の中で一つ一つの行為やら行動があります。私たちには心や生活にもっと余裕が必要なのではないでしょうか。人を見るときに。人とつきあうときに。余りにもピリピリした生活をしてはいないでしょうか。眉間にしわを寄せた生活をしてはいないでしょうか。もっとおおらかに過ごしたいものです。

 ここでユダヤ人の間に伝わるジョークを1つ。「へルムの町からほかの町にいった旅行者が、自分の町のラビの自慢をした。『ぅちの町のラビはとても神を敬う心が強くて“過ぎ越し”の祭りの前には2週間も断食をする。ふつうのラビは、だいたい数日しか断食しないだろう。しかし、2週間というのはたいへんなことだ。やはり、うちの町のラビがいちばん、神を敬う心が強い」。すると、その町の男が反論した。『だけどおれはへルムへ3日前に行ったばっかりだ。そしたら町の食堂で、その、おまえのところのラビが食事をしているのを見たぞ』。『あたりまえのことだ』。ヘルムからの旅人は憤然とした。『うちのラピは、どの町のラピよりも謙遜なんだ。2週間断食をしていることを誇ったり、人に見せびらかすことはないだろう。それを隠すために、みなに見えるところで食事をしていたのだ』」(『ユダヤジョーク集』実業の日本社)
 心や生活にもっと余裕があるなら、そして人を受け入れることができるなら、平和な人間関係を構築することは難しくないでしょう。

聴く

 聞くことは聴力が正常であればだれにもできることです。でも聴くことは難しい。もし寛容や忍ぶこと(12、13)が身に着いているなら聴くことはできるでしょう。ところで聴くことが難しいのはなぜでしょうか。理由は簡単。私たちは人に会うときに、まず求めたい、欲しい、下さい、あなたにはこのように変わって欲しい、こんな風に応答してくださいという気持ちが先行するからです。

 高校3年生の娘さんが夜の11時に帰宅したときのことです。お父さんが、待ってましたとばかりに、自分の前に座らせました。「いままでどこをほっつき歩いていた?」「いま、何時だと思ってる?」「自分の立場が分かってるのか、えっ!」「勉強もしないでぶらぶらしてるんなら、学校やめたっていいんだよ」「えっ、どうなんだ、なぜ黙ってる!?」「なんとか言ったらどうなんだ」矢継ぎ早に繰り出されることばに、彼女はただただ泣くだけでした。こうしてプッツンしてしまいました。

 お説教と脅かし、ここには彼女にとって聴くべき価値あることがありません。私たちには謙遜(12)が求められているのではないでしょうか。謙遜とは自分がいつも正しいとは思わないことです。もちろん正しい場合も少なくないことでしょう。でも常に正しいとは限らないのが人間です。人間の限界です。不可抗力もあります。誤解もあります。ゆえに自分の判断が本当に正しいのか、慎重でなければならないでしょう。私の手許に、いつのものか日付けの分からない新聞の切り抜きにこう書いてありました。

 酒のあまり飲めないAが、ある日酒豪のBに誘われて飲みにいった。酒がはいるにつれてBは次第に強引に酒をすすめるようになり、Aが拒むと、俺の盃が受けられないのか、とさらに強圧的になる。Aは仕方なしに飲めない酒を無理に飲んで大変苦しい思いをした。他日、今度はAがこの前のお礼をしたいと言ってBを招待した。そこはしるこ屋であっだ。Aはそれぞれ5杯ずつのしるこを注文し、甘いものに弱いBが呆然としているのを見やりなから、ほかならぬ俺のおごりだ、遠慮なく平らげてくれ、とやり返した。Bは初めて過日の自分の強引さに気がつき、Aに詫びた。

 ・・・人間というのは、とかく自分の経験、趣味、嗜好に基づいて物事を判断し、相手をもその枠に押し込めて付き合おうとする性質を持っているようだ。ことが酒程度なら一片の笑い話にもなるが、生活のもっと深い領域にかかわる場合は、深刻にならざるを得ない。

 謙遜(12)さは私たちに人の話を、そして心を気持ちを聴くことができるものとさせ、平和な人間関係を作ってくれるでしょう。

適切な距離を保つ

 1998年にはクリントン不倫疑惑とともに「不適切な関係」ということばが流行しましたが、これは「不適切な距離」と言えるでしょう。マルコの福音書6章1−6節の出来ごとを思い出してください。イエス・キリストへの態度があまりにも不遜であり、馴れ馴れしすぎて、ということは不適切な距離と言うわけですが、もっと救い主に対してふさわしい謙虚な尊敬心のある態度がとれなかったものでしょうか。イエス・キリストはここ故郷ではほとんど恵みを人々に提供できませんでした。距離が不適切であるとき、人間関係に問題を起こす、このことのゆえでした。愛は「帯」(14)とあります。帯には長さがあります。長過ぎてもいけないし、短くてもいけません。適切な長さが必要です。愛とはまさに距離であり、しかも適切な距離のことです。
 ところで動物には、自分のテリトリーを誇示する意識があることはよく知られていますが、アメリカの動物心理学者のヘディガーは、このような動物の行動を研究して「距離の法則」を発見しました。
  たとえば、ここに野生の馬がいるとしましょう。人間などが近づいていき、ある一定の距離になると逃げようとします。これは「逃走距離」。さらに人が近づき、もし逃げられないとなると、馬は逆に襲い掛かってくる。これは「攻撃距離」と言います。アメリカの文化人類学者のエドワード・T・ホールは、この説を人間関係に応用し、プロクセミックスと名付け、人間同士の距離を次の4つに区分しました。すなわち密接距離(0−45cm)、固体距離(45−120cm)、社会距離(120−360cm)、公衆距離(360−750cm)。人間関係が悪いのは主に、そしてほとんどの場合、密接距離(0−45cm)と固体距離(45−120cm)に関係します。

 日本語は情緒を表現するのを得意とする言語ですが、これらの距離をむやみやたらに越えたときに「甘え過ぎた」とか、「気持ちを踏みにじった」とか表現します。簡単に言いましょう。相手との距離が近すぎた時に、ほとんどの場合、人間関係に問題が生じます。もしそうしてしまったなら、一度距離を開く必要があります。そして再度少しずつ近付いて行き、適切な距離を判断するのが良いでしょう。これは経験を積んで学ぶしか方法はありません。でも適切な距離を人それぞれに発見できているならば、平和な人間関係を維持できるでしょう。

赦す

 赦すこと、これはもっともキリスト教的な部分です。13節をもう一度お読み下さい。赦すこと、それは忘れること。でも実際の所、非常に難しいです。礼拝はあなたの心と生活に潤いを、安らぎを、余裕を与えます。それは15−17節で表現されるような境地です。平和な心とキリストのことばと感謝の思いが溢れた境地です。このような状態であれば、赦すことも可能でしょう。聖霊さまに期待して下さい。上記のような心は聖霊さまが最も働きやすい、働きがいのある場と言えます。 「主があなたがたを赦して下さったように、あなたがたもそうしなさい」(13)。 このおことばをよーく噛み締めたいものです。平和な人間関係は赦すことから。


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