123.怒り制御術

聖書箇所 [エペソ人への手紙4章21−27節、エレミヤ書5章1−13節]

 私たちには怒ることがあります。
 今回はこの怒りをどのようにしたらコントロールすることができるかを学びます。以下、大きく3つに分けて考えましょう

怒りについて基本的なこと

@罪か否か?

 さあ、どうでしょうか。エペソ人への手紙4章26節を素直に読むと、怒ること自身と怒りに附随することとを分けているように思えます。少なくとも後者は罪であるととれます。
 ところで神さまはお怒りになるでしょうか?詩篇7篇11節をお開き下さい。「日々、怒る」お方であると分かります。しかし前後の文脈からすると罪や悪への怒りであると判断できます。イエスさまの場合はどうでしょうか?マルコの福音書3章5節をお開き下さい。怒っておられます。聖霊さまに関してはどうでしょうか?使徒の働き13章9節をお開き下さい。ある一つのクリスチャンに関するイメージが撃ち破られるのではないでしょうか。クリスチャンっていつも穏やかで、にこにこしていて、というような。ただし言うまでもないことですが、怒っているとき、私は聖霊さまに導かれていると、簡単には言わないでください。
 答えを急ぎましょう。怒り自体は罪ではありません。でも罪になる場合があります。たとえばエゴイズムで怒る場合、そして夕暮れを過ぎた場合です。後者について少し説明しましょう。「日が暮れる」とありますが、著者のパウロはユダヤ人であり、エペソ教会関係者にもユダヤ人たちはいたでしょうから、これはユダヤ時間であると考えられます。すると、現代風には「夜中の12時を過ぎて」、「次の日まで」と訳せるでしょう。少しおまけしても翌朝まで怒っていることは罪と理解できます。再び結論を言いましょう。怒ることは笑うこととか泣くこととかと同様に人格の持つ機能の一部分です。決して罪ではありません。どうか安心してください。
Aどんな問題をひき起こすか?

(1)人間関係を破壊する。どなたもこのことについては「その通り!」と即座にうなづかれるでしょう。私たちは良好な人間関係を築きあげるのに、気を、お金を、物を多く費い、すなわち実に多大な資源を注入しますが、破壊されるのは一瞬です。そのときに怒りが主役になりますね。

(2)霊的な成長が停止します、すくなくとも停滞します。怒ってしまうと、自責の念や挫折感で心の中がいっぱいになりますね、「どうしてあのとき、あんなことを言い放ったのだろうか?!」、「どうして怒りを押さえられなかったのだろうか?!」。人は自分を責めているとき、霊的な成長を止めています。

(3)「サタンに機会を与える」(4:27)サタンは虎視眈々と私たちのすきをねらっています。失敗をねらっています。そこから入ってかき回し、私たちを不幸にするという、彼の目的達成に向けて力強い前進を開始します。

(4)罪を犯します。怒りは人を傷つけるのですから。また相手にも罪を犯させます、うらみとか、憎しみとかを招来させます。

(5)病気を招きます。人間のからだが化学物質の製造工場であることはよく知られています。血液やら、皮膚やらをどんどん製造しています。しかし怒りなど否定的な感情は毒物を製造します。これが病気の原因になります。ある日のリバイバル新聞にこうありました。

 信仰篤く、教会によく通う人ほど血圧を低く保てるとする調査結果を、米デューク大学医療センターがまとめ、『国際医療精神医学ジャーナル』雑誌8月号に発表した。研究チームのハロルド・ケーニグ教授は「因果関係は証明できていないが、宗教心やその活動が健康に好影響を与える可能性がある」と話している。

B一般的な解決法は?

(1)ただ爆発させる。これを主張する人は「正直に生きたいから」と言ったりします。確かにエペソ人への手紙4章25節は「正直であること」を支持しています。でもこのこの弁明は正直、あるいは真実でしょうか。もし「殺したい!」という気持ちになったら、殺すのでしょうか?もし殺さないのなら、首尾一貫性がありません。すくなくとも誠実ではありません。  

(2)少しだけ怒る。これには他者へ多少の配慮があります。

(3)せっかくのストレス解消の機会だから利用する、すなわち怒る。これは思慮がある考えとは言えません。

(4)沈黙する。少なくない人がこのやり方を採用していますが、皮膚病、口の中が荒れる症状、胃潰瘍などになったりします。精神衛生上も良くありません。

(5)心理学者は代替物を用意しなさいと提案しています。要するにもぐらたたきです。確かにスッキリさせてくれる効果はありそうです。でも根本的な解決にはなりません。なぜかと言いますと。人格は人格を傷つけないと、実際のところ、いやされないという面があるからです。物質では代替物としては不十分なのです。これが大きな問題です。よくいらいらした人が近くにいる人たちを責めているでしょう。ほんとうは自分の中にきちんとは処理できない問題がある、だけなのに、いわゆる「人に当たる』のです。これは「責任のない他人に責任を取らせる」ことです。しかもこの場合、弱者が攻撃の対象にされるのだから始末に負えません。
 もしどうしても人を傷つけたいのなら、一つだけ許された道があります。イザヤ書52章13節から53章12節。特に53章5b節をお読み下さい。お分かりでしょうか。あなたが責めていい相手はイエスさまだけです。そしてこのことを理解することがイエスさまを信じる信仰なのです。

怒りをコントロールするための日常的心構え

@新しい人になる。

 イエスさまに真理があります(エペソ4:21)。古い人にさよならをし(22)、新しい人(23)になることをお勧めします。それも日々に。イエスさまを見上げて下さい。あなたの中に新しい性質(24)が常に新鮮さを保ちます。この新しい性質が感情を上手にコントロールします。
A現在の環境を神さまから与えられたものと受け入れる。

 怒る場合のほとんどは人間関係から発生するでしょう。相性が関係しています。私たちにはつきあいやすい相手とそうでない相手とがあります。これが現実です。もちろん信仰が相性を超越させてくれるというのは本当です。しかし、しかしです。だれもが十分なあるいは完璧な信仰を持っているわけではありません。つまりだれもが発展途上にあります。ここに怒りのきっかけが生まれる土壌があります。
 はじめに学ばなければならない信仰があなたに教えることは、神さまが用意して下さった環境と人間関係、というものです。あなたを愛して下さっている神さまはすべてをご存じでいらっしゃいます。どうか逃げないで下さい。少し離れても、決して逃げないで下さい。霊には筋肉があります。筋肉の性質は使わなければ弱るというものです。あの屈強な宇宙飛行士は地球に帰還後リハビリをしないと日常の生活は出来ません。宇宙空間では無重力のために筋肉を使いません。筋肉は常に鍛練しておく必要があります。そうしてこそ強くもなり、希望が持てます。どうかあなたの霊的な筋肉を鍛練して下さい。そのためには今の環境や人間関係を神さまからいただいたものとして感謝して受け入れて下さい。
 この後でネヘミヤの場合を取り上げますが。彼はエルサレムの城壁を再建するべく、リーダーとして立ち上がりますが、難しい問題に直面して非常に怒ります。でも彼には神さまから与えられた環境という自覚があり、これが彼を助けました。
B夢や目標に思いを向ける。

 夢や目標を持っていない場合に私たちは怒りやすくなります。小さなことにいらいらします。ちょうど自転車を習い始めの時のように、ついペダルを見てしまうようなものです。前を見なければ非常に危険ですし、障害物を避けることもできません。また将来設計ができていないから今の行動がどのような結果を招くのかが計算できません。どうか夢や目標を持ってください。暖かく育ててください。いつもそれを思いめぐらしてください。礼拝の中であなたには与えられるでしょう。聖書を読み、祈る中で与えられるでしょう。
C聖霊の実を得てください。

 聖霊さまを悲しませないことです(30)。それは聖霊さまの働きの結果としての実を結ぶこと。御霊の実は、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です(ガラテヤ5:22、23)です。ギリシア語では最初の語が一番、最後の語が2番という重要度の秩序があります。また実とは単数形です。したがってこういうことが言えます。「あの人には愛はたくさんあるけど、自制心がない」とか、はあり得ない。心を静めて聖霊さまの動きを確かめて下さい。

怒ってしまったら

さて、最後につい怒ってしまったら、どうしたらいいのか、それを学びましょう。

@よく考える。(5:7)

 ネヘミヤは故国の荒れたさまに非常に心を傷めて、当時高官として自らが仕えていたペルシア王アルタシャスタ王(紀元前465ー424)に直訴しました(ネヘミヤ1:11)。彼は王の好意を得て総督に任命され、必要な援助と共に帰郷し、城壁再建に着手しました。ユダヤ人たちは犠牲を払い、手弁当で働きました。ところが人々の弱味に付け込む者たちがいました。しかも同胞でした。その様子はネヘミヤ記5章1節以下をご覧下さい。彼は非常に怒りました。でも「よく考えた」結果でしたので、良い結果を得ることができました。11ー13節をご覧下さい。本屋さんに行けば、同様の助言を載せた書物に出会えるでしょう。20を数えなさい、とか。神さまは私たちに一つのすばらしい才能をくださいました。知性です。思索の能力です。
A怒っていることの理由を相手に説明してください。

 もしかしたらあなたの誤解であったかも知れません。また、自分にも良い作用を及ぼすでしょう。理由をきちんと説明できないのなら、単に自分の中のストレス解消であったと言うことができるからです。相手に怒りをぶつけることは適切ではないと自分自身悟る助けとなるでしょう。ネヘミヤは7ー9節で説明しています。
B相手を赦し、時にはあなた自身が神さまの前で悔い改めなければなりません。

 あなたを怒らせた人を赦さなければなりません。赦す者の方が赦される者よりも偉いのです。13節でみられるように神さまの前でやましさがないことが求められます。ですからあなたは自分の罪を悔い改めなければならないかも知れません。もしかすると「悪いことばを発したかもしれないから」(エペソ4:29)。またもしあなたが怒るとして、その怒られた人が怒ったあなたに対して憎しみなどの思いを持ったかも知れないから。それも良くないことです。すべての罪を精算することが神さまをお喜ばせする最高の道です。

 さて、最後に一言だけ言い添えます。怒りと言うテーマは、あなたを神さまに近付ける最高の道の一つです。怒りをコントロールするあなたはいつも神さまに近いでしょう。神さまは聖いお方であり、聖いお方に近付けるのは聖い者に限られるからです。


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