124 心の健康

聖書箇所 [ピリピ人への手紙4章4−13節]

 心にいつも平安がある人は心が健康と言えるでしょう。友人が喜んでいればいっしょに喜び、悲しんでいればいっしょに悲しむ。これも心の健康な人の姿でしょう。こう書きながら思い出すのは、私が子どもの頃、たびたびDDTを頭から振り掛けられた記憶があります。いまでは毒物扱いですが、当時の保険衛生を向上させたことは間違いありません。今、日本の衛生状態は世界で一番良好と言われています。しかしそれと反比例して、心の健康は低下していると思われます。『「キレる少年」心の傷跡』という新聞記事の特集には次のようにありました。

 少年がキレる。「なぜなのか」「どうすればいいの」「大人たちはたじろいでいる」・・・中学校の教室で、少年は同級生に刃渡り10センチのバタフライナイフを向けた。友人の名を呼んだところ、別の男子生徒が「呼んだ?」と近づいてきた。その瞬間、肩と足の2ヶ所を刺し、10日間のけがを負わせた。・・・少年は傷害容疑で書類送検され家裁で処遇が決まるまでの間、東京少年鑑別所に収容された。心理学を専門とする技官らによる面接や調査を受け始めた。鉄の格子が窓の外側を覆っている。「わかりづらい子だ」。担当技官は、しきりに首をひねった。被害者との間に特別な接点はなく、本人も「呼んでないのに来るから」と繰り返すだけ。(『読売新聞』1998年9月10日)

 少なくとも私たちには一つのことが分かるでしょう。子どもたちの、そして人々の心が荒れていることが。今こそ、私たちは神さまに立ち返るべきです。神さまは私たち人間をお造りになったお方です。製造者こそ質量共に最高の情報を持っているはずです。心の健康を取り戻し、維持し、発展させるために学びましょう。まず心の健康が持つ要素、そしてそれを得る方法をお話ししましょう。

喜んでいること[4]

 あなたは喜んでいらっしゃいますか。喜びにもいつまでも続く安定したものと一過性のもの、という2種類があります。あなたはケーキが好きですか。きっとそう思います。大好きなものを食べれば喜びが味わえます。でも、いつまでも食べつづけるわけには行かないでしょう。もし物や金銭に寄り掛かり過ぎると私たちの喜びは線香花火のようであり、磐石なものではありません。現代は物や金銭に頼り過ぎるのではないでしょうか。

 先に紹介した特集記事にはもう一つ、このような例も紹介されていました。

 「悪って強い。悪ってかっこいい」。東京少年鑑別所で、事件の動機を問われた中学3年生は、こう答えた。通りすがりの会社員に自転車を投げ付けたり、頭をサッカーボールのようにけりあげるなどして死亡させた。ゲームセンターの対戦型ゲームを好み、面会に訪れた両親にも心を開こうとはしなかった。面接で将来の夢を問われ、「人工生命を作り人類を滅ぼすこと」。答えた少年は、自宅の部屋にはいすでバリケードを築いていた。

 ゲームセンターには人を殴ったり殺したりするゲームソフトがあるそうです。倫理的に問題があります。現実との区別がつきにくくなるという学者の指摘もあります。碁や将棋などとは本質的に、同じゲームとはいえ、異質なものを感じるのは私だけでしょうか。碁や将棋はゲーム相手との間にある媒体でしかない。道具でしかないはずです。その道具の先には人格がいるはずです。本当の喜びは人格との交わりに発するものです。特に愛にあふれた人格との交わりの中に経験されるものです。「主にあって喜びなさい」。「主」はイエスさまのこと、「にあって」は前置詞で「〜の中で」の意味です。あなたがイエスさまという最高の人格との交わりの中に憩うとき、あなたの中にいつも喜びがあります。この種の喜びは困難の中にあっても喜べる不思議なものです。私たちはこれを愛のやり取りを教会の交わりの中で練習しているのですが、その基本は個人的な練習で得られます。

簡単なやり方をご紹介しましょう。テサロニケ人への手紙第一5章16−18節をお開き下さい。いいですか、準備は。私が「いつも喜んでいなさい」と言います。そうしたら即座に「はい!」と応答してください。では、「いつも喜んでいなさい」・・・・・・。できましたか。次に「絶えず祈りなさい」・・・・・・。「すべてのことに感謝しなさい」・・・・・・。良くない応答は2つあります。一つは考え込むこと。「うーん・・・」。2つめは「でもー・・・・・・」。神さまのおことばには即座の「はい!」があるだけのはずです。もちろん人の言葉の時には考え込むこともあれば、「いいえ」と言うこともあるでしょう。神さまのおことばには、ただ即座の「はい!」があるだけです。いかがでしょうか。イエスさまと近くなった印象を受けるのではないでしょうか。ちょうどお母さんが「お皿、洗っておいてね!」と言うと、子どもが即座に「はい!」と応える時のようです。美しく、ほほえましく、暖かい関係がありますね。これが「主にあって喜ぶ」ことです。

寛容であること[5]

 どうかあなたの周囲の人々に対して寛容であってください。寛容なあなたはすばらしいプレゼントを他者に与えています。何を?成長や成功への新しい記念すべきステップを。もう一度のチャンスを。寛容な人はこう言います。「そう、失敗したの!残念。でももう一度やってみたら」。これこそ福音の精神。リターンマッチ、敗者復活戦。
 「主は近い」とはどのような意味でしょうか。主はやがて私たちの住んでいる世界に戻って来られ(再臨)、すべての人に報いをお与えになります。これを主によるさばき、と言いますが、「主は近い」とは、主のみ人をさばくことが、すなわち最終的な判断がおできになるのであって、いかなる人間もその代わりをすることはできないという意味です。 そうです、人が他者に対して寛容でないということは、主に対する越権行為です。もし私たちが他者に対して寛容であろうとするなら、そのために良い方法があります。まず自分に向かって寛容になることです。「私みたいな人間、だめ!」、「私に、いいところなんか、何にもない!」と言う人は自分に対して寛容ではありません。ただしこのように言う人は多分にこのような反応を求め、期待していると言えます。「そんなことないですよ。あなたにはすばらしい賜物があるじゃないですか!」。私たちは弱い。したがってこのような励ましが必要であると言えます。でも余りこのようなやり方を多用しない方がいいでしょう。なぜかと言いますと、期待外れの応答もあるからです。「そうね、あなたには何の取り柄もないわね!」。こんなことを言われてしまったら、もう大変。人の言葉の上に自分の人生を築くのは危険なことです。私たちは神さまのおことばの上に大切な人生を建て上げて行かなければなりません。いかなる人もあなたの人生に責任をとってはくれないことを知らなければなりません。パウロの人生はこのような意味において常に自分に寛容な人生でした。11ー12節を読むと、彼にはさまざまな苦労があったことが分かります。でも13節が彼の生き方を説明してくれ、私たちに希望を与えてくれます。

 一つの知恵は「神さまは私の成長を期待し、待っていてくださる」と信じることです(12、13)。

祈ること[6]

 祈ってください。祈りがあなたに与えるものを3つ紹介しましょう。

 第1にあなたはあなたの殻を破壊することができます。
 ちょっと漢字遊びをしましょう。木は生きています。それなのに外部から完全に遮断されると、枠で囲まれると・・・死ぬのは当たり前。だから困ります。枠の中に人を入れると囚(人)。完全に不自由。
 ところでだれでも枠を持っています、と言うよりも枠の中に閉じ込められています。したがって生活や行動に明解なパターンが観察されます。私は長い間、父との間に葛藤がありました。それで父と同じくらいの年輩者(男性)を見ると悪感情が沸き上がって来て、自分を押さえきれない時期がありました。彼は私に対して何の悪いこともしていないのに、です。イメージが平行移動したのです。はじめに教会で「『天のお父様・・・』と祈るのですよ」と教えられましたが、心は痛みを覚えるばかりでした。同じことです。その行動はイメージによってコントロールされたものであったのです。アメリカのクリントン大統領もアダルトチュードレンであり、彼が幼児期に受けた傷が、そして枠が、それゆえに作られたパターンが彼を支配しています。私は彼に個人的に同情します。でも祈りが癒します。祈りがこの悪意ある枠をぶち壊してくれます。あなたは自由になります。この手紙を書いたパウロは自由と真剣に戦った人です(ローマ人への手紙7章をご覧下さい)。

 第2に、神さまと出会うことができます。信仰の父と言えばアブラハム。彼はどのようにして神さまを知るに至ったのでしょうか。彼が父親とともにたくさんの偶像がいる中で育ったことは明白です。ところがあるとき、これらは本物ではない、と分かったのです。本物に出会った、本物が分かった瞬間でした。
 このプロセスはどのようなものでしょうか。残念ながら聖書には記されてはいないので不明です。でもヒントはあります。詩篇16章7節には同じ旧約聖書人のダビデの体験を知ることができます。「私の心が私に教える」の「心」と訳されていることばは「腎臓」です。あなたが夜一人でいるときに腎臓が何かしゃべりますか。教えてくれますか。日本文化では「心」と訳していいのです。神さまとの接点はこの心です。心が健康であるとき、あるいは健康を回復しつつあるとき、それは神さまに触れるときでもあります。神さまとあなたが出会うとき、心の修理がなったときです。少なくとも修理の手が加えられたときです。ちなみに心は神さまがあなたを人としてお造りになったときにまっ先に造られた部分です(詩篇139章13節)。

 第3に、人を赦すことができるようにされます。なんと赦すことというのは難しいことなのでしょう。まさに人間業ではありません。でも「私を強くしてくださる方によって何でもできる」(13)のです。

 総じて、祈りは全能の神である聖霊の働きをあなたに招きます。これがすばらしい祝福となるのです。あなたには、つまり人間には不可能なことをしてくださいます。

 青年だったスタンレー・ジョーンズのもとに、インドから一通の乎紙が届きました。その手紙は、インドヘ宜教に行くかどうかの選択を迫るものでした。そこで彼は、ひざまずいて主のみこころを求めました。すると、やがて彼の内におられる聖霊の声が「インド」と答えられたのです。彼は立ち上がると「それでは、「インドだ」と叫び、インドヘ宣教師として赴くことを決めたのです。ところがインドで熱心に伝道したものの、成果を挙げることができず、彼は神経衰弱になってアメリカに戻って来ました。彼はなぜ私は宣教に失敗したのか」と必死に祈りました。そのとき彼が深く主と出会い、一つのことを悟りました。それは、「今まで自分が語っていたのはキリスト教だった、しかしインドの人々はインドを歩かれる、生きたキリストご自身を求めているのだ!」といことでした。彼は変わりました。そしてインドに再び戻り、イエス様ご白身を伝えるようになりました。彼の働きは現在、アシュラムというデボーション運動として世界中に広まっています。彼はこのインドでの伝道の働きについて、こう述べています。「神の導きの地であったインドで数々の失望があった。しかし、この聖霊の声が、常に私を堅く保ったのである」常に不安定なインドという地にあって、彼を堅く立たせたのは、奥底に与えられた、御霊による確信だったのです。(『リビングライフ』2004.10)

 祈るために時間を用意して下さい。この決心がまず必要です。祈りによってあなたは生活と心の中に聖霊を招き、したがって生活の中で不思議なすばらしい経験をするようになり、そのままあなたの心の健康へと寄与します。

実行すること[9]

 8節は良いことを見たら、それから学びなさい、9節は謙虚に他者から学びなさい、の意味です。学んでいるとは「あー、いい考えだなあー」と心の中でただ考えていることではなくて、行動という結果を出している時です。
 神さまは私を愛して下さっている、私に素敵な計画を用意して下さっていると信じてください。私たちは結局信じていることしか実行しません。信じていることは実行できます。レストランのテーブルの上にあるお醤油を手にするのも、お醤油をこの料理にかければ、きっとおいしくなると信じているからです。まして毒が入っているとは考えません。神さまの提案にはただ信じることで応答すべきです。そうしたらあなたはそれを実行できます。実行はあなたの心に健康をしっかりと回復してくれます。
 「実行しなさい、そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます」[6]

信じるためには心を開くことです。そのための秘訣をお知らせしましょう。良い練習方法があります。次の記事をお読みください。

 仕えよ、そして治めよ

 ローレン・カニンガム牧師は常にこう話しました。「あなたの両手で握りこぶしを作り、並べて前に差し出してみてくださし、。これはあなたが他の人を操縦しようとしている姿です。今度は、そのまま横に回って相手の人と向かい合ってください。これはお互いを支配しようと戦っている姿です。今度はあなたの両腕を前に伸ばしたままで、両方の握りこぶしを開いてくださしい。これは人に仕えようとするしもべの姿です。互いに愛し合い、高め合い、慰める姿です。今度はあなたの両腕を上に上げて、こぶしを握って天に向けてください。これは神に向かって逆らう姿です。目分の意志と力で生きようとする姿です。今度はあなたの両手を高く上げたままで天に向けて開いてください、これは神に降伏しているのです。これは神に礼拝をささげ、神を高めるのです。イエスは「子羊」として自分をくだき、犠牲的な献身をされました。「家を治めた御子」(ヘブ3:6)として権能を行ない、暗闇に縛られた者を自由にされました。‥‥‥(『リビングライフ』)


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