126.礼拝の心とは

聖書箇所[レビ記1章1−9節]

 医療少年院臨床心理士である藤掛明さんが次のように述べておられます。

 青少年の多くの非行や罪は、一種の甘えや気のゆるみ、不良仲間との付き合いや誘惑から引き起こされると、一般の人は考えます。確かに表面的にはそう見えますが、実は多くの非行・犯罪は、不遇でシンドイ状況にある青少年が、背伸びしてがんばりすぎる桔果、“やせがまん”の息切れ状態になって引き起こすことが多いのです。・・・大抵の湯合、自分の「弱さ」や「寂しさ」「劣等感」を認めまいとして”やせがまん”を繰り返し、息切れ状態に陥っている。その結果、現状を打破し、強行突破しようとして、自暴自棄に動き回ることで問題を起こしてしまう・・・彼らは決して「甘えん坊」ではない。むしろ、自分が無意識的にうすうす感じている弱さや劣等感、無力感を認めることができないで、人に弱音を吐けず、自分自身の力でがんばってしまうタイプの子供が多い・・・つまり彼らは「背伸び」して生きているのだ。彼らにとって必要なのは、「孤独である自分」「劣等感に捕らわれている自分」をありのままに受け入れることである。「ボクはもうダメです。助けて下さい」と言えるようになることが更正への第一歩、つまり、いい意味での「開き直り」が必要なのだ・・・
 ところで“やせがまん”の心理は、何も非行や犯罪に走る青少年だけの専売特許ではない。みんな意識的・無意識的に、そういう心理の中で生活している。そもそも日本の社会自体が“やせがまん”を助長し、強要するような性格を持ってる。「努力、努力」で成功を指し、「成せば成る」を掛け声に、より高い社会適応を目指して、本当の自分を押さえ付けて生きる・・・でもこういう生き方が、どこかで破綻をきたす恐れがある。・・・私たちは“やせがまん”をしてはいないだろうか。どこかで破綻をきたして、悲鳴を上げているようなことはないだろうか?(クリスチャン新聞1998年10月4日号)

 「なるほどその通りだ!」と、この文章を読みつつ、私は神さまが“やせがまん”している私たちをどのように見ておられるのだろうかと考えました。礼拝とは神さまと出会う場です。神さまの前で素直になれる場です。もはや“やせがまん”しなくてもいい場所であり、空間です。
 今回は旧約聖書になされていた礼拝、すなわち犠牲を捧げる行為から礼拝の心を学びましょう。「全焼のいけにえ」と呼ばれるものを取りあげて考えましょう。
 ところでヘブルには具象表現が得意という特徴があります。たとえば詩篇18篇8、15節やイザヤ書50章2節などを見ると分かりますが、「神が怒る」を「神はその鼻を膨らませる」とか「神は荒く鼻息を吹き掛ける」というふうに表現します。目に見える表現です。神さまは彼らのこのような特徴を重用され、今日聖書において用いられていることは決して偶然ではありません。以下に学ぶささげる時の一つ一つの行為はその種のものであることを念頭において学んでください。

奉納[2、3]

 犠牲として動物を捧げるにはいくつかの規則があることが分かります。
(1)家畜(野生でないこと)
(2)傷の無いもの(不要だから捨てようと思っていた、というようなものではないこと
(3)捧げる本人が自ら連れて来なければならないこと
です。一言で言って捧げる者すなわち奉納者は従順でなければならないのです。

 私たちの生まれながらの性質はわがままです。映画でもテレビでも座頭市、木枯紋次郎、寅さんなどが人気があります。一つの理由は彼らが実に自由奔放であるからでしょう。好きなことをして、嫌なことは避けて、という生き方にはだれでも憧れがあるに違いありません。でも自由と奔放・放縦とは違います。真の自由には規則があります。規則を規則として受け入れるセンスが必要です。このセンスが私たちを真の意味において解放してくれます。あなたは従順でなければなりません。その模範はキリストです。苦しみの最中、こう叫ばれました。

 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:36ー39)

 私たちには苦難の時があります。でもそのような中で神さまのお心を行う決意をするとき、素直になるとき、解放感を味わうことができます。いまや外食産業のトップを走る日本マクドナルドの創立者である藤田田のお母さんは熱心なクリスチャンで、田をデンと読ませ、夫の反対を押し切ってこう名付けました。口の中に十字架を置くことに2つの意味がありました。仕事をするにも、話をするにも十字架の心、すなわち従順の心を忘れないように。

按手[4]

 手を置くことは奉納者の持つ罪が犠牲の動物に移動したことを意味しています。この場合に、手を荒々しく置くことが求められます。体重をかけるようにして。それは罪との激しい戦いを意味しています。あなたは罪との戦いを厳しく体験されましたでしょう。あるいは今しておられるでしょうか。
 一人の青年が悪口やうわさ話ばかりをして多くの人々を傷つけていました。それほど自分の態度に疑問を感じてはいなかったのですが、神さまが彼の心に働きかけられました。少しは反省の気持ちが生まれていました。でもまだまだ軽い思いであって十分に分かっていないと考えた牧師が彼を呼びました。そのときには「道々鶏の羽根をひとつずつ置いて来るように」と言いました。彼がやって来ると、「その羽根をすべて回収するように」と言いました。彼は「そんなことはできません!」と思わず叫びました。先生は「これが罪なのだ。軽く見える、しかしいつまでもあちらこちらと漂い、決して消え去ることはない、そして決して回収することもできない」と言いました。
 罪に真剣に悩むときに私たちは罪の解決策を持たないことにも悩むのです。あなたはきっと礼拝の中で罪に気がつき、悩まれることでしょう。礼拝とはそのようなものです。でもそのようなあなたには希望があります。あなたの中に聖霊の神さまが働いておられるからです。聖霊の神さまは聖める神さまです。あなたは礼拝の中で聖めを経験なさるのです。聖められたあなたはいままで以上に神さまを身近に覚えるでしょう。私は神さまに愛されていると。私のそばに神さまが今、おられると。

屠殺[5]

 殺すことの意味は、刑罰です。もちろんこれは身代わり。人々は、本当は私が殺されなければいけないのに、と思いつつ見ました。ここに神さまの優しさがあります。
 かつてオーストラリアの視察団が日本経済の高度成長の秘密を探ろうとやって来ました。たくさんの会社を視察し、満足して一度は帰りましたが、団長さんはもう一度来たいと思い、その希望が叶えられました。彼は事務局に話して鎌倉に行ってみたいので、1万円札を崩して欲しいと頼みました。渡された封筒には千円札9枚、百円玉9個、十円玉10個が入っていました。これを見た彼は「これこそ高度成長の秘訣だ!」と叫んだそうです。
 優しさとは人の憂いと書きます。優しさとは人の憂いに気付くこと、知ることと古の人は知っていたのです。神さまはあなたの人生の、そして罪があるがゆえの憂いに気付いておられます。イエス・キリストは残酷な十字架刑に処せられました。彼はこう叫んでおられます。

 3時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。(マタイ27:46)

 私たちは本当に苦しいときに「どうして?」と叫ぶのではないでしょうか。「どうして私なの?あの人ではなくて」、「どうしてこんなに長く苦しまなければならないの?」などなど。イエス・キリストの心は神さまの優しさの心です。あなたは礼拝においてこのような神さまの優しい心に触れることができるのです。

血の注ぎ[5]

 結論を先に言いましょう。これは、「私の人生からすべての呪い、さばき、罰は去った」と信じることです。血の注ぎ行為以降の行為は祭司のする行為です。それ以前は奉納者自身がしましたが(祭司は本来神さまと私たち人間の間を仲介する役ですが、これ以降、祭司は神さまの側に立っています。私たち人間は汚れた血しか提供できず、それは全く何の意味もないからです)。ちなみにあがないはこれで完璧です。私たちにはあと一つの事が残されているだけです。血が流れているのをじいーっと見つめること。神さまのお仕事は血を流すこと。この2人3脚が祝福された人生の秘訣です。あなたは礼拝の中で血が流れているのをじいーっと見つめていなければなりません。イスラエルの人々はそうしました。血が流れているのをじいーっと見つめる者には「私の人生からすべての呪い、さばき、罰は去った」信仰が育つのです。もはやサタンも手出しができません。

焼却[9]

 どんな場合も全部焼かれるのが「全焼のいけにえ」です。もったいないと言ってはいけないのです。しかしそれにしてもすごい光景ではありませんか。立ち篭める肉を焼くにおい、血のにおい、そして煙り。血なまぐさく、凄惨さを思わせる雰囲気。これらは罪の持っている性格です。ところが、ところがです。このようなにおいが神さまには大変喜ばしいものなのです。もはや臭くはありません、神さまにとって。大変心地よいのです。それはもはや怒りの火ではないからです。あなたの罪が完全に焼却処分されて行く臭いです。あなたの悔い改めが受け入れられています。あなたは礼拝の中で真の悔い改めに導かれます。神さまはあなたをしっかりと受け入れてくださっています。あなたにはそれははっきりと分かります。そのときあなたは礼拝の心が分かったのです。あなたの中に真の平和と感謝と落ち着きとが生まれています。そこにはもはや“やせがまん”をしないあなたが、解放されたあなたが、リラックスしたあなたがいます。

 礼拝の中であなたが解放されますように。またそれを神さまのお心としてあなたが礼拝の中で体験できますように。


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