127.男と女の間

聖書箇所 [主に創世記1−2章]

 男と女の間、なんてなにやら昔あった映画の題名みたいですね。
 さて間には何があるでしょうか。一つポピュラーなものとしては、どちらが強いかというテーマがあります。このようなお話をご存じでしょうか。

 天国で天使が夫たちを集めてこう聞きました。地上では夫が強かったですか、それとも妻ですか?夫だと思う方はこちらに列を作ってお並びください。妻だと思う方はこちらです。いざ並び始めますと「妻が強いと思う」列が長くなりました。でも一人だけ非常に割腹のいい、まさに紳士というふうな人がやおら「夫が強いと思う」列(と言っても彼一人だけ)に並びました。天使は聞きました。「なぜあなたはこちらに並んだのですか」。彼答えて「はい、妻が『あなたはこちらに並びなさい』と言うものですから」

聖書から男と女の間にあるものを学びましょう。

違い[2章7節、2章22、23節]

 男女の違いは造られ方にまず起因します。2章7節は男(ここでは人と表現されていますが、男です)の起源を説明しています。土から作られました。ある人たちは誤解をしているのであえて説明致しますが、はじめに泥人形が横たわっていて、神さまが息を吹き掛けて人が動き始めたのではありません。すでに動いていました。この状態では動物と言えます。人間と動物とでは魂を持っている点で共通性があると言えます。でも霊は人間にだけ備えられております。その備え始めがこのとき、すなわち神さまが息を吹き掛けられたときです。次に女です。2章22、23節をご覧下さい。男の骨から作られました。比較しますと、男と言う完成品を素材にして作り上げたのだから女の方が優秀だという言い方も可能かも知れません。次のような言い伝えもあります。

 神さまは女を男のどの部分から作ろうか思案なさった。「頭から作るのはどうだろうか。でも偉ぶるようになってもいけないからやめよう。目から作るのはどうだろうか。好奇心ばかり働かせてあれがほしいこれがほしいと言い出したら困る。やめよう。耳から作るのはどうだろうか。聞き耳を立ててうわさ話にうつつを抜かしても良くない。やめよう。口から作るのはどうだろうか。おしゃべりばかりされるのも良くない。やめよう。心臓から作るのはどうだろうか。嫉妬心ばかり目立つようになるかも知れない。やめよう。手から作るのはどうだろうか。あれこれ触り、欲しいものだらけになっても困る。足から作るのはどうだろうか。ぶらぶらされそうだ。そうだ、からだの目に見えない部分から作ろう。慎み深くあるように。

 女性はすぐに気付かれたでしょう。男性が作った文章ですね。2章23節にある「骨」はエツェム(ヘブル語)ですが、「本質、神髄、核心」などの意味があります。つまりアダムはこう言っているのです。「女は私の本質、私の作品。女を見れば私が分かる」。どちらが偉いかの議論は空しいものです。
 さらに寿命も違います。世界最長寿国である日本について1997年の統計によると男77.19歳に対して女は83.82歳。なんと6.63歳もの差。とにかく男女にはさまざまな違いがあります。でも違いがあることは良いことです。なぜって。互いを強くするから。神さまでないかぎり私たちには弱さがあります。短所があります。もちろん同性同士、親子の間でと他にも助け合いの関係は存在します。でも2章18ではまず助け合う関係は男女間が最初に設定されていることを知らなければなりません。
 私は牧師として、弱い女性を守ることを常に念頭に置いています。女は弱いからです(第1テモテ2:14)。特に独身女性については親御さんから預かっているという意識があります。「私の大切な娘は教会に置いておけば安心だ!」というふうに言っていただけるように環境を整えたいと願っています。そして女性は「自分の今いる所は安全だ、自由に振る舞える所だ」と確信する時に、明るくなり、幸せを感じます。家庭の温度は妻がきめると言いますが、教会の温度も女性が決めます。温かい感じの所に帰って来る夫たちや男たちは大変幸せです。そのために私は仕えたいという意識があります。そしてこれは男である者すべての務めであると信じます。男は強い(第2テモテ2:1)のだから。
 性の違いを感じるときどうか感謝してください。「どうして彼は私の気持ちを分かってくれないの?!」「どうして彼女は俺の言うことが分かってくれないんだ?!」。これは孤独を感じる瞬間です。でも違いを神さまはあなたに学ばせようとし、強さを与えようとしていらっしゃいます。

神のかたち[1章26、27節]

 これは男女共通して持っているものです。かたちとは何かと言いますと、エペソ人への手紙4章24節とコロサイ人への手紙3章10節を参照してください。簡単に言えば愛、正義、聖さを追求する性質のことです。あなたにこのようなものを感じる生活が日常展開していると思います。新聞やテレビで見聞きする悪いニュースにあなたは怒りや残念さを感じておられるでしょう。それがその証拠です。どんなに利口なチンパンジーでもこのような意識を持つようなことはないのです。神のかたちこそ人間としての誇りです。
 でも共通しているものであっても男女差はあります。女性は比較的情緒的で表現としては「いのちが一番大事!」です。日本は女性原理の国ですからこの種の標語が氾濫しています。でもほんとうに「いのちが一番大事!」なのでしょうか。人間の命は大事であることに異論はないでしょうが、牛(ビフテキ)とか豚(トンカツ)とかはどうでしょうか。小学校などで大切に飼われているウサギよりは大きい生き物です。蚊のいのちはどうでしょうか。タイの僧侶は蚊を殺しません。あなたはいかがでしょうか。境目が定かではない考え方ですね。もう一つの疑問。命はそれ自体大切なのか、です。否です。何々のために生かすから大切と言える存在です。人を殺すために生きている命(人)もいます。神のかたちを持った人は愛、正義、聖さを追求するがゆえにその命は尊いのです。聖霊の神さまがそれをあなたの中で真理として教えてくださいます。

 小説「氷点」をあなたはご存じでしょう。私も20代の頃読んで大変感動いたしました。主人公の陽子は名前の通りに明るく生きたいと願っています。でもあるとき父親が殺人者であることを知って、愕然とします。「私の中には殺人者の血が流れている」。とうとう自殺を計ります。作者である三浦綾子さんのメッセージはこのようなものです。「殺人者の血を洗い流し、代わりに罪の無いイエス・キリストの血を入れなさい」。輸血です。あがないとはこのようなことです。もちろん罪の世に生きて私たちの置かれた環境には厳しいものがあるでしょう。理想を追求できない厳しさが。でもそれでも理想を忘れないのが神のかたちを持つ者の誇りです。

 ある人が地獄を案内されました。数人がテーブルを囲んでいます。だれもが空腹で目の前にあるすばらしいごちそうによだれが出そう。手にはナイフとフォーク。でもそれぞれを両手に縛り付けられ、おまけに肘を曲げることができません。続いて天国が案内されました。なんと全く同じ光景ではありませんか。でも一つだけ違っていました。テーブルを挟んで向かい合い互いに相手側の人の口にごちそうを運んでいたのです。困難な状況が確かにあります。理想を貫くことは確かに難しい。でも理想を捨てないことが神のかたちを持つ者の誇りです。このような神のかたちは男女が共通して持っています。

神ご自身[2章18節]

 2章18節は愛がテーマであることはすぐに分かります。ところで愛とは「互いに見つめ合うことではなくて、同じ方向を見ること」(サンテグデュペリ)です。恋人たちは互いに見つめ合い、一つのオレンジジュースをチューチュー吸います。楽しい瞬間です。でもいつまでもそうしていられるわけではありません。愛はやがて成熟し、2人で同じ目標を目指し、共通の悩みごとを抱えます。一緒に涙を流し、一緒に笑います。愛とは「互いに見つめ合うことではなくて、同じ方向を見ること」です。
 しかし今回は全く逆の事を言いましょう。その根拠は「ふさわしい」(新改訳聖書)と訳されていることばです。これは「向かい合う」とも訳せます。「向かい合う」と2つのすばらしいことがあります。一つは正直であることを意味しているからです。私たちは互いに正直であるべきです。真実を語るべきです。愛は物事をまあまあ、なあなあでやり過ごすものではありません。正しいのは正しい、正しくないのは正しくないし、聖いのは聖いし、聖くないのは聖くないのです。
 もう一つ。それは相手の背後が見えること。人が発言する、行動する、すべてに背景があります。背後の事情があります。それを互いに見ること。思いやること。ある人はきびしく相手を責めます。理由があります。その理由が分かれば責められた人もその人を愛せるかもしれません。さらに背後にはもっと奥の背後があります。それは神ご自身。
 ヘブル語で男はイーシュ'YS、女はイシャー'SH。男にあって女にないのはY、女にあって男にないものはHYHYHYHとはヤーウェの神さまです。不安を抱えて待っている妻である女のもとへ夫である男が帰宅した、それは神の帰宅です。
 史上初の人間であり、男女であるアダムとエバは何をしたから問題なのでしょうか。神は不要だと主張したことです。こうして争いと不安と困難が彼ら以来、私たちの世界と人生とを覆うようになりました。私たちは彼らと同じ轍を踏むことのないようにしなければなりません。


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