131.「主の祈り」に見るイエスの心

聖書箇所[マタイの福音書6章9−13節、ルカの福音書11章2−4節]

 祈りは、信仰を持っている、持っていないに無関係に人によって営まれる行為であると言われます。
 今回はこの祈りについて学びましょう。イエス・キリストが私たちに、「祈るときには、こう祈りさい』とお教え下さったもので、「主の祈り」と呼ばれています。

天にいます私たちの父よ

 この訳は日本語としては悪いものです。「天にいらっしゃる私たちのお父さま」がいいでしょう。このような呼び掛けから始めなさいとの仰せです。ルカの福音書を見ますと単に「父よ」とありますので、どちらがオリジナルかが一つの議論です。マタイの福音書はユダヤ人がユダヤ人たちに向けて語ったものを収録しています。もちろんそのユダヤ人とはイエス・キリストであり、収録したのはマタイです。とすると異邦人に向けて書かれたルカの福音書よりはマタイの福音書の方がオリジナルと言えます。
 さて次に「天にいらっしゃる」の意味ですが、これは彼らの間では「超自然的な力を持った」の意味です。「父親」のイメージは何でしょうか。マタイの福音書5章45節をご覧下さい。なんとおおらかな、懐の深い父親でしょうか。このイメージがユダヤ人の社会における父親の理想でした。やさしくて、いざとなったら頼りがいのある父親。このようなイメージを抱きながら、呼び掛ける、こうして始めるのが祈りです。
 ところで「私たち」と書いてありますが、兄弟姉妹たちが家族を構成しているので当然ですが、イエス・キリストの場合は、「私の父」と呼びます。これはなぜでしょうか。マタイの福音書10章32節と11章27節とをご覧下さい。いわば父なる神さまとは独占的な関係にあるとおっしゃっておられます。独占ですからいかなる他者も入れないのです。このような意味で、天のお父さまと親子関係にあるのはイエス・キリストお一人です。ですから私たちは「イエス・キリストのお名前によって」お祈りしなければなりません。救いもあがないもすべてはイエス・キリストを通してのみ私たちの手許に届きます。

み名があがめられますように

 「あがめる」ってどういう意味でしょうか。それは「聖」とされること。ではいつ、どうやって、神さまは「聖」とされるのでしょうか。
 反対語から探ってみましょうか。エゼキエル書36章23節周辺をお読み下さい。いつどのようにして神さまのみ名が「汚された」と主はおっしゃっておられるでしょうか。神の民であるイスラエルが悪いことをした時です。ということは「聖」とされるのは良いことをした時ですね。最高に良いこととは主の名のゆえに殉教することであるとさえ考えられました。しかし一般に良いことをすること、と理解できます。
 しかし、まだ結論を出さないでください。「聖」の本来の意味は「他と違う」です。あなたは他の人たちといつも調子を合わせていないと不安でしょうか。「この世と調子を合わせないようにしなさい」(ローマ12:2)と言われています。「みんなで渡れば恐くない」という言い方もあります。
 「他と違う」とは、たとえば、次のようなことです。朝、食事の前にお祈りをする、出がけにちょっと立ち止まってお祈りをする。それらはわずかな時間でしょう。でもこの世のやり方とは違います。あなたはそのようにしてみませんか。違いの分かる男、女になってみませんか。

み国が来ますように

 国とは明らかに民主主義国家ではないでしょう。「天国」と理解することは間違ってはいません。「来るように」はギリシア語ではエルセトー。これは「〜であるように、〜であれ」です。
 「国であれ」とは余計分かりにくくなりましたね。「国」とは「統治」の意味ですから、「統治であれ」。ユダヤ人にはこのような言い方がありました。「統治が統治であれ」。まるで「馬から落ちて落馬した」みたいです。でも彼らの言い方では広がりとかプロセスとかを含意します。すなわち「神の統治が拡大するように」です。「神の統治が広がる」ところ、平和、愛、問題解決あり、秩序があります。
 ではどのようにして統治は拡大していくのでしょうか。「神の指」(ルカ11:20、出エジプト記8:19)によってです。あなたはこう祈るべきです。「どうか神さま、神さまの指を動かしてください。そして不思議なことをなさってください」、「以前もそのようにしてくださったことを感謝します」。

みこころが天で行われるように地でも行われますように

 イエス・キリストは「もし、みこころならば・・・そうした方がいいかな」とはおっしゃっていません。「行われますように」とはギリシア語でゲネセートー。これは「〜であれ」の意味です。軟弱さはありません。どちらでもいい、という程度のなまやさしさはありません。イエス・キリストは模範を示しておられます。
 ルカの福音書22章42節をお読み下さい。なぜみこころを第一にするように求められているのでしょうか。罪の正体はエゴイズムです。このエゴイズムを退治することができるからです。エゴイズムを貫いた、そのときは気持ちがいいかも知れませんが、結局は誰からも相手にされなくなり、さびしい思いをするものです。
 今私たちは私たちの思いの中で、神さまのみこころと自分のこころとを戦わせなければなりません。逃げてはいけません。しっかりと戦わせなければなりません。自分のこころは言います。「私はこう考える、でも神さまのおこころとは違っているなあー。私はたとえ相手が神さまであっても自分の主張を譲ることはできない」というふうに。信仰生活とはこの戦いを続けることを言います。理想的にはイエス・キリストがおっしゃったことにうなづくことです。

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください

 「日ごと」とは何か、をまず理解する必要があるでしょう。イエス・キリストのおことばには旧約聖書のおことばが珠玉のようにちりばめられています。聴衆も同時にそれとして理解したでしょう。多分箴言30章8節を念頭において話をされているのでしょう。貧しさも富むことも行き過ぎると私たちには良くない、と言っています。与えられた分で満足しなさい、の意味です。これがそのまま「日ごと」の真の意味であると理解していいでしょう。また聴衆は荒野で神さまがくださった食料マナ(出エジプト記16:4-20)を連想しながら聞いたでしょう。2日分を集めても腐ってしまいました。両方の意味を重ね合わせれば、今日を、そして今を大切に生きること、といったらいいでしょうか。

私たちの負い目をお赦しください

 「負い目」とは「罪」であって、ルカの福音書では明確に表現されています。イエス・キリストは他者の罪を赦すようにと何度も、そして強調していらっしゃいます。もし赦さないとどうなるか。マタイの福音書18章23節をお読み下さい。ここで知ることができることは、私たちの人間関係は私たちの信仰を表す鏡であることです。どんなに立派なことを言っても、人との関係が悪い、すなわち赦さない、憎む、受け入れることができないなどなどはその信仰に問題があります。信仰はその中身を実体を人間関係で証明するものです(マタイの福音書25:45)。赦すことは大変難しいことです。「天にいらっしゃる」という表現を唯一度だけ使ったルカは、「聖霊をくださる」天のお父さまと書きました(ルカの福音書11:13)。聖霊さまがあなたの中で働いて下さるとき、あなたは赦すことができます。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください

 なぜ「試みに会わせないでください」と祈らなければならないのでしょうか。私たちは弱いからです。悪習慣に染まりやすいし、足を洗うことも容易ではありません。罪を犯してしまいます。だからみこころを生きなければなりません。神さまの軍門にくだりなさい、これがイエス・キリストのおこころです。イエスさまはあなたを必ず助けて下さいます。


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