134 パウロにおける十字架



聖書箇所 [ガラテヤ人への手紙6章14ー16節]


  今回は十字架について、特にパウロにおける十字架について学びましょう。歴史の書物を紐解きますと、古代において採用されていた処刑の方法について知ることができます。
 ・むち打ち。屈強な処刑人が鋭い金属片や魚・動物の骨などが結び付けられた太い皮製の鞭を、台の上にうつぶせにされ裸にされた背中めがけて力一杯にふるいます。ユダヤの歴史家ヨセフスは40回もこのように打たれると、避けた背中から内蔵が飛び出し死んでしまうと言っています。これと同じやり方ではないかも知れませんが、パウロも数多く鞭で打たれています(「コリント11:24)。
 ・石打ち。凹地に死刑囚を突き落とします。周囲を取り囲んだ群衆の歓声の中を証人が第一投。骨は砕け、肉は避け、地の海になり、塚ができます。クリスチャンとして最初の殉教者になったステパノはこの石打ちの刑を受けました。
 ・死体との抱き合わせ。死後数週間経過した腐乱死体を掘り出して来て、死刑囚の体に縛り付けます。死体の毒や蛆虫が彼の体を腐らせて行きます。1週間、そして10日と苦しみながら死んで行きます。
 ・十字架。強烈な日ざしを浴びながら木陰に急ぐ虫をピンで止める。虫は手足をばたばたさせながらやがて動きを止めます。これがヒントになったと言われています。十字に組まれた2本の木材の上にいやがる死刑囚の体をむりやり押し付けて両手首に、そして両足を揃えさせ、その上から犬釘を打ちつけます。痛みはその十字架を地上に立てたときになおいっそう激しいものとなります。余りの激痛に顔はゆがみ、気絶します。気を取り戻しては再び激痛に苦しみます。その残酷さのうえにローマ政府はローマ人への適用を禁じました。イエスさまはこの十字架で処刑されました。イエスさまは朝の9時に十字架の上に釘付けられました。激痛が走る中、こう言われました。「父よ。彼らをお赦しください彼らは何をしているのか分からないのです」12時になった時に辺りは真っ暗になりました。エルサレムは暗黒の中にありました。ある学者は日食だったと言いますが、あることの象徴でした。イエスさまはそれをこう表現しておられます。「わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)父なる神さまによる裁きのときでした。この叫びは十字架が立てられて6時間後の午後3時頃のものです。それは完全に交わりが断たれたことを意味しています。人格にとって最も辛いことは交わりを関係を断たれることです。シカトされることです。イエスさまはあなたと私の身代わりに裁かれました。あまりの苦しさにイエスさまの心臓は破裂してしまいました。ローマの兵士が脇腹を槍で刺したときに血と水が流れ出たのはそのあかしです。死の直前、「完了した」と叫ばれました。私たち人間のあがないの手続きが完了したのです。救いは完成しました。あなたもどうかこの救いを受け取ってください。十字架から受け取れる恵みを次に整理してみましょう。


罪の赦し[4]

  あなたには罪の赦しがプレゼントされます。これによりあなたの中にはこの世では得られない強力な平和が与えられます。ところでパウロほど罪を強調している聖書記者はいません。私たち人間には例外なくすべての人に罪があると彼は言います(ローマ5:19など)。「確かにうそをついた、悪意を持った。罪を犯した、だから私は罪人」なのではありません。私たちにはアダム以来受け継いでいる罪があります。原罪と言います。あまり好きでない人が災難にあったとします。私たちの心の中には何が起きるでしょうか。「悪意ある喜び」です。しかし人間である以上、次に倫理的な検討が始まります。「こんな思いでいては良くない。同情しなければ、いっしょに悲しまなければ」というふうに。反対に「悪意ある悲しみ」もあります。友人に良いことがあった時に起きる心の動きです。そうです。ねたみです。私たちは罪と言う現実を認めなければいけません。この罪が私たちの心から真の平安を奪っています。赦しは十字架からのみ来ます。どうか十字架を見上げてください。あなたには赦されたことから来る喜びが体験されるでしょう。

罪に勝つ力(5)

  私たちの徳の目標レベルはどのようなものでしょうか。霊のレベルです。ガラテヤ人への手紙5章16節に表現されています。御霊による歩みです。具体的には22節と23節に列挙されています。御霊の実と言います。すばらしい徳ではありませんか。しかし、です。パウロはこれを身に付けようと悩みに悩んだけれども達成できなかったと正直に告白しています。彼は戦ったのです。一生懸命にその様子が記されているのが、かの有名なローマ人への手紙7章15ー25節を中心とした部分です。ガラテヤ人への手紙に戻れば、5章19節ー21節に列挙されるようなものの虜になっているのです。この罪との戦いに苦しみ、勝てずに悩んでいたパウロには十字架は最高の朗報でした。彼は新しくされました。霊のレベルへと御霊によって引き上げてくれるのが十字架の威力です。それでパウロはこう言うのです。

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。……割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。(ガラテヤ6:14-16)

あなたも罪に勝つことができます。あなたには罪がお分かりでしょうか。もしお分かりなら、そのようにしてくださったのが聖霊さまであることを理解してください。その聖霊さまの働きに敏感になることです。日常の生活の中であなたは聖霊さまのお働きに接するでしょう。そのときです。すなおにそれを受け入れてください。あなたは聖霊さまの助けを受けて聖い、明るい、気持ちの良い時間を過すでしょう。あなたは御霊の実とともに過すでしょう。

深い同情心(6)


  あなたには深い同情心が与えられます。なぜならあなたは神さまの手になるすばらしい作品であるから(エペソ2:10など)。同情の心こそ全てを良く変えて行きます。あなたを変え、周囲を世界を変えて行きます。
 1977年3月のことです。ワシントン市庁舎など3箇所を人質を盾に立てこもったブラックムスリムの一団がありました。リーダーはカーリスと言います。彼はこう言いました。「アメリカには正義はない。鉄ついを下す」。人質に危険が及ぶので容易に手を出せないため、同じ回教徒であるイラン大使に助力を依頼しました。彼はカーリスに近づき、膝つめで、人生について、世界について、愛について、信仰について語り合いました。そうしてついにイラン大使に抱かれて投降しました。翌日新聞には「彼に必要だったのはパッション(情熱=革命)ではなく、コンパッション(同情)だった!」という記事が踊りました。彼は数年前に分派闘争の中で子どもたちや孫たちを殺されましたが、誰一人同情してくれる者がいなかった(と彼は言うのです)。同情されたと分かった時、人は変わるのです。どうか覚えてください。あなたは神さまに選ばれました。何の為に。深い同情心を多くの人に向けるために。そうした人たちがあなたから恵みを受けるために。次のことばに注意を向けてください。

 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15:16)


選びを言うとき、選ばれなかった人はどうなるのですか、という質問があります。パウロは奥義(ミステーリオン ローマ11:25、16:26、。コリント2:7など)ということばを使いますが、選びは奥義です。パウロの教える奥義とは「人間の知性や理性では理解できないもの」です。「あの人は選ばれなかった」と見下し高慢になってはいけません。へりくだり、感謝し、神さまの期待に答えましょう。あなたなら深い同情心をもって人々を愛することができると神さまはご存知です。

神さまの豊かな祝福があなたの上にありますように。


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