135 一変したレビ



聖書箇所 [ルカの福音書5章27ー39節]


  以前、高橋一夫(仮名)一座が町から町へ巡業していた頃の話です。この喜劇俳優の一団はどこでも歓迎を受け、新聞にも掲載されました。そんな頃一人の男性が病院で診察を受けていました。「おかしいなあーどこにも悪いところはないねえー」と言いつつ、お医者さんはきっとこれは心の問題だと思い、こう言いました。「最近、評判の高橋一夫一座のお芝居でも見に行ったらいかがですか。きっと気分が変わりますよ」。彼は「でもそんなもの、見たって何もいいことないですよ……」と言うので、「えっ、どうして?」と聞き返すと、「私が高橋一夫です」と彼。私たちは他の人にはいろいろと助言はできるのですが、自分のことになるとからっきしだめ、と言ってもいいのではないでしょうか。多くの人が自分自身を持て余しているようです。カペナウムの町とその周辺に噂が広がっていました。「レビが、あの取税人のレビがすっかり変わったってー」、「顔つきまでいままでとは全く違うねえ」、「あの、見入りのいい取税人の地位まで捨てて、イエスさまに従ったんだってー」。「名前まで変えてマタイにしたんだって」。事実、レビの変わり様は大変大きなものでした。いったい彼に何が起きたのでしょうか。イエスさまとの出会い、でした。イエスさまをお招きして一大パーティ−を開き、だれかれ構わず招待しては、ごちそうをしていました。彼の喜びようが見えるようですね。でもこんな彼を横目に、喜べない人々がいました。パリサイ人たちでした。彼らの心の動きと併せて、レビがどのようなイエスさまと出会ったのかを学びましょう。あなたも変われます。参考にしましょう。


罪人たちのために来られた医者(27-32)

  パリサイ人たちはアンタッチャブルとしての罪人(旧約聖書に示されている律法について無知な人々)、取税人(ローマ帝国の犬、詐欺者)、そして遊女たちとはかかわりを持ちませんでした。自らを汚さないためというのがその理由でした。特に中東では食事をともにすることは同盟関係を意味するので、イエスさまがこのような人々と食卓を共にしていることは信じられない、というか、かっこうの非難の的でした。イエスさまはむしろ積極的に彼らを招いておられ、こうおっしゃいました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(31-32)。ここで大切なことは病識の問題です。病気であることの認識があるかどうか。もし癌にかかっていて、病識がなく、従って病院にも行かず、何の治療もしなかったら命が危ういでしょう。イエスさまがおっしゃる病原菌とは罪のことです。恐ろしい伝染力を持ち、アダム以来全ての人が感染しました。最近コンピューターウイルスである I LoveYou が全世界のコンピューター(1500万台)に感染して、1兆円の損害をもたらしたと多くの新聞で報道されていました(2000.5)。しかし罪の恐ろしさにはかないません。人をことごとく不幸にし、果ては地獄に連れ込むのです。パリサイ人たちは「私は正しい、大丈夫」(31-32)と豪語していました。謙虚な者たちだけが祝福されます。どうか謙虚であってください。あなたは罪から救われ、天国が約束され、喜びに満たされます。謙虚であるとはどういうことでしょうか。自分の分を認めることです。できることとできないこととを認めることです。どんな人にもできることとできないこととがあります。できることに感謝し、できないことにブツブツ言わないことです。悪いことを言うために自分の口を使わないことです。
 湖に水が少なくなって、水鳥たちは引っ越しをしようかと相談していました。でもカエルのことが気になっていました。「カエルさんはどうする?」と聞くとちょっと考えて、「名案がある。葦の茎を一本持って来て。両端をくちばしでくわえて、まん中辺に僕が口でくわえてぶら下がるんだ。どうだい、名案だろう!!」。早速実行して見ました。おかしなかっこうには見えましたが、なかなかどうして……。からすが見て、「へえーうまいこと、やってるじゃあーないか。ところでだれがこんなこと、考えたんだい?」と言うので、カエルが「それは僕に決まってるさ!」と得意げに口を開きました。後はあなたの想像にお任せします。ブツブツ言わないことです。それは高慢なのです。すべてに感謝することが大切です。謙虚な者に祝福はあります。


喜びを持って来られた花婿(33-35)

  イエスさまはパリサイ人たちの33節の質問に34節で答えていらっしゃいます。その問答はこうです。「なぜ、あなたの弟子たちは断食をしないのか?」「パーティーの会場でそんなことをする人がいますか!?」
 あら探しをしようと思ったら、いくらでもできます。人間には完璧さなどそもそも求めることなどできないからです。でもあらを追求する人がいるのはなぜなのでしょうか。心が傷付いているからです。いらいらしているからです。どこか、ぶつける先を探しているのです。見つからないときは、なんとしても見つけだします。これがあら探しです。なんと寂しいことでしょう。自分の問題なのに、自分で解決しないで、人を利用しているのです。しかも傷つけているのです。なんという罪深さなのでしょう。ユダヤ人は年に一回の断食が求められていました。レビ記23章27ー29節を参照してください。でもパリサイ人は一週間に二度求めました(ルカ18:12)。これが人々には重荷でした。あなたには押し付けられた経験がありますか。気持ちの良いものでしょうか。もちろんそんなことはないでしょうね。いやーな気分になりますね。イエスさまといっしょにいてとても気分を良くしているのに、パリサイ人たちはそれに水をかけようとしているのです。
 ルカの福音書4章16ー22節を読んでイエスさまがあなたに用意してくださったものを思い起こしましょう。
 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の
開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。
 結婚披露宴の会場で、「今日は断食をしないの?」と叫んでいるのです。なんといういやらしさ。イエスさまはあなたの生活に多くの喜びを持って来てくださるお方です。どうかこのことを忘れないでください。あなたに十字架で罪の赦しを、救いを、天国を、家族を、友人を、職場を、そしてその他さまざまなものを。どうかそれらを楽しんでください。すなおになる、ただそれだけです。ありがとう、ありがとう、と言って。あなたは変えられて行っている最中の自分をも楽しむことができるでしょう。


新しい変化を起こすお方(36-39)


  

今の時代は豊かですから、皮袋と言ってもピンと来ないでしょう。ペットボトルとか瓶に相当するものです。新しいぶどう酒を古い皮袋に入れると発酵して発生したガスの圧力に負けて弾力性のない皮袋は破けます。その事情を言っているのがこの箇所です。ぶどう酒とは実です。新しいぶどう酒とはいままでにない新しい実です。もしそれを得ようとするならば、新しい皮袋、すなわち考えがアイディアが必要であると教えています。あなたはいかがですか。柔軟性のある方(ほう)ですか。物事にはさまざまな面があります。それを認めることができますか。イエスさまのご人格と行いを4つの方角から見ているのが、4つの福音書です。物事の解決にもいくつかの方法があり、決して一つだけとは限りません。たとえばあなたはどんぐりを割るとしたら、どのようにしますか。金づちで叩き割る。そうですか。いい方法ですね。確実です。でも他にも方法はあります。土の中に埋めるのです。やがて樫の木などに育ちますが、とにかく割れます。もう一つの例を考えてみましょう。一つの家族から子どもが独立して新しい家族が生まれます。共通しているのはともに古いものから新しいものが生まれてくることです。もしあなたに柔軟性があれば、今のあなた(変わる前のあなたですから、古いあなたと表現してもいいでしょうね)から新しいあなたが生まれます。出エジプト記3章にはモーセのある行動が記録されています。神さまとの歴史的な出会いの記録です。
モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」主は彼が横切って見に来
るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。(1-4)
「あちらへ行って」はヘブル語ではアスラ−・ナーです。これは「私は道をそれる」という強い意志を表しています。こうしてモーセは感動の出会いをまた、するのです。私たちにはいままでのペース、やり方、習慣や伝統への見直しが時に必要です。一つ、提案があります。イエスさまと会話をしてみてください。イエスさまはどこにいらっしゃる?かって。あなたの中にいらっしゃるのです。目の前ではなくて。あなたの中に。「あなたのお考えはどのようなものでしょうか。どうかお教えください」というふうに。きっとあなたの心にお答えをくださいます。あなたにそのとき変化が起きています。イエスさまとレビの会話を見てください(27-28)。

神さまの豊かな祝福があなたの上にありますように。


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