136 あなたに力が戻ります



聖書箇所 [詩篇54章]

   この詩はダビデの作品と言われています。彼は王として油注ぎを受けました。これは大きな祝福でした。でもこれを喜ばない人がいました。サウル王です。対決を避けたかった彼は荒野に逃げますが、ユダ山地のジフの人々が「ダビデはここに隠れている」と告げ口をしました。踏んだり蹴ったりとはこのことです。あなたにもそのようなことがありますか。そのようなとき、あなたの中からは力が失われて行くことをあなた自身気が付かれるでしょう。そのような状態であなたがいることをあなたを造られた神さまは喜んではおられません。さあ、もう一度力にみなぎるようにしましょう。ダビデも少しの戦いの後に新しい力にみなぎっています。力を取り戻しました。どのような時にそうなるのでしょうか。


正しい祈りをする時(1-3)

   正しい祈りとは、神さまの前にいることをしっかりと意識し(3ー敵はそのようには意識していない)、すなわち神さまに恥ずかしくない自分であろうとする意識を持った祈りです。そのようなとき、あなたの中に力が戻ります。ダビデが荒野を逃亡中の頃、なんと逃げ込んだ洞穴に追いかけてきたサウルが用足しに入って来たことがありました。。サムエル24章全体をお読み下さい。この時の部下とのやり取りは実に印象深いものです。  ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ。』と言われた、その時です。」そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。こうして後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」ダビデはこう言って部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、ほら穴から出て道を歩いて行った。(1-7)なんとすばらしいダビデなのでしょうか。「さすが、ダビデ!」といったところでしょうか。しかし、聖書は常に真実を語ります。続く25章では大きな失敗をしそうになります。かろうじてアビガイルの機転により思いとどまりますが、大きな罪を犯すところでした。どうかこの章を読んでみてください。なぜ、立派な人にこのような汚点が残るのか。それは私たちの中にある罪のためです。  透は中学時代は学校生活の様々な場面でリーダーシップを発揮し、生徒会役員やサッカー部の部長などをそつなくこなす生徒で、教師の信頼は厚かった。知的な障害があり、授業を抜け出してしまう信久を、よく保健室まで探しに来た。…だが…三学期になって……信久を迎えに来る透の言葉にトゲが感じられるようになった。「勘弁してよ。オレだけムダしてる場合じゃないんだから、こいつ、どうせ高校は無理なんだし……」透は高校入学という目的を果たしたことで”優等生”の仮面を脱いでしまったのだろうか……。(『読売新聞』2000.4.17)私たちは悔い改める必要があるでしょう。心に正しさを持つために。

ささげものをする時(2、6)

   ダビデはことばというささげものをしています。他にもささげものやいけにえはなされたのでしょう。どうかあなたもそうしてください。神さまはあなたにさまざまなすばらしい賜物をくださっています。というよりも預けてくださっています。時間、金銭、タレントなど。どうかそれらを人々のために、人々を愛するために費ってください。それはそのまま神さまへのささげものになります。  『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』(マタイ25:40)ささげものはあなたと神さまとを繋ぐ橋の役割を果たします。そこには命の連帯感があります。私たちが力を失っているなあと感じるのは孤独の時です。「私は・・・一人ぼっち・・・」という実存的孤独感です。私たちは連帯しなければなりません。  北海道の有珠山の噴火騒ぎがまだ続いています(頃の話です)。生まれて初めて地震や噴火を体験したフィンランド人女性シニッカ・ヒーバラさんが母国の新聞に記事を載せています。「信じられない。空気は完全に白くなった……身震いが止まらず、建物の中で必死に祈り続けた。町役場の人や近所の住民の励ましに、命の連帯感を感じた……」(『読売新聞』2000.4.13)神さまや他の多くの人々と連帯感を感じるのはなんとすばらしいことでしょうか。「もう、私は一人ではない!」という思いはあなたの中に力を充分に取り戻させるものではないでしょうか。ささげものはあなたのもとに祝福となって戻って来ます。大胆に勇気をもってやってみてください。

逆転の法則を信じる時(5、7)

 私は他の人よりも遅れている、受ける祝福が少ない、と考えている人は少なくありません。私などもそのように考える者たちの一人でした。学校の成績は悪く、ついには高校を中退し、仮免では不合格にされ、神学校でも評価されず、卒業後浪人していました。しかし私にとってはこのようなことはいわば慣れっことでも言いましょうか。でも正直言って決して嬉しいことではありませんでした。私たちはどうしたらいいのでしょうか。聖書にすばらしいことばがあります。  先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。(マタイ19: 30)  そうです。逆転の法則です。神さまの世界にはこれがあります。いつまでも遅 れたままでほおっておかれるわけではありません。いつまでも少ないままではあ りません。ダビデも長男全盛の時代に末っ子としてさまざまに不利な条件のもと にいました。でも神さまはダビデを忘れてはおられませんでした。ダビデが王と して選ばれる有名な箇所をお楽しみ下さい。  サムエルはエリアブ(ダビデの兄、長男)を見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ。」と思った。しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」エッサイはアビナダブを呼んで、サムエルの前にすすませた。サムエルは、「この者もまた、主は選んでおられない。」と言った。エッサイはシャマを進ませたが、サムエルは、「この者もまた、主は選んではおられない。」と言った。こうしてエッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。「主はこの者たちを選んではおられない。」サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは答えた。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。(。サムエル16:7-13)  あきらめないことです。神さまがあなたのために働くときが必ずやって来ます。

試練を前向きに受け止める時(5、7)

  試練はなぜ来るのでしょうか。その答えはこうです。神さまはあなたに期待しておられるから。私は自分の教会の中に神学校を持っています。学生たちには課題を渡します。将来に期待しているからです。与えた課題をこなして来たら、以前のものよりもちょっとだけ難しい課題を渡します。ちょっとだけ、というのがみそです。なんでもそうですが、無理をしてはいけません。少しの試練によってすばらしいものが得られるものです。一つは高慢でない自信。この二つは紙一重ですね。健全な自信は私たちが幸せであるための条件です。自分の生き方に自信がないのは悲しいことです。もう一つは卑屈でない謙虚さ。卑屈、いやなことばですね。卑しく、屈している。それは神の子にふさわしくない性格であり、態度です。どんな場合にも感謝してください。どんなに苦しい時にも。神さまにはお考えがあります。すばらしい優秀な頭脳であなたが最高に祝福されるべくお考えです。もしかするとあなたが今苦しんでいるのは、かつて自分が蒔いた種であったかも。  フィリッポ・ネリは愉快な聖者です。あるとき、一人の母親がうそばっかりつく娘を連れてきて、なんとか直してほしいと訴えました。彼は鳥小屋に彼女を連れていって、一羽の鳥の羽を全部むしって彼女に渡しました。「それを投げてごらん」と彼が言うと、彼女はそうしました。その後で「全部それを集めてごらん」と言いました。彼女はその通りにしようとしましたが、できなくて涙顔になって行きました。彼は最後に彼女にこう言い、諭しました。「うそをつくとこのようにとりかえしのつかないことになる」。  このように書いて来たのはウソについて考えてほしいからではなく、もしかすると今受けている試練は身から出たさびであるかも。ならば神さまにそのことを教えてくださったことに余計感謝しなければなりません。罪人である私たちは被害をしっかりと覚えていますが、加害については忘れっぽいのです。加害について悔い改めるチャンスは神さまからの贈り物です。悔い改める者に上からの力がいつもあります。

熱い心を持つ時(1、6-7))

  あなたは燃えていますか。熱い心を神さまに向けていますか。1998年の日本における宗教人口が文化庁から発表されました。1億1506万3458人。一人が二つの宗教団体に所属している計算です。私の友人の一人は7つの宗教団体に所属しています。毎日車を運転しているので保険と考えているのだそうです。「どれか効くだろー」と言いながら、定期入れの中の所属証明書をひとつひとつ見せてくれました。でも私は思いました。結局どれをも信じてはいないのではないか、と。あなたは天地の造り主なる神さまを信じておられますか。どの程度の熱意でもって?大切な御子イエスさまを苦しめ、死なせるほどの情熱をもってあなたを愛してくださいました。あなたはこのことを知って内に燃えるものを感じますか。信仰の情熱こそあなたの中に最高の力を取り戻してくれます。最後に「釜の火」という詩を紹介して終わりましょう。  たとえ ぼくにあすはなくとも たとえ短い道のりを歩もうとも いのちは一つしかないのだ だから何かをしないではいられない 一生けんめい心を忙しく働かせて 心のあかしをすること それは釜のはげしく燃えさかる火にも似ている 釜の火は陶器を焼きあげるために精一杯燃えている  この詩は21年前(2000年現在)に筋ジストロフィーで23歳で亡くなった石川正一さんが耳の不自由な陶芸家館野さんの家を訪問したときに1700度で燃える釜の火に魅せられ、半日見入っていたときの作品です。

神さまの豊かな祝福があなたの上にありますように。

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