137 主よ、助けて下さい



聖書箇所 [マタイの福音書14章22-33節]

 不安感に悩むことはおありでしょうか。不安感が増すと恐怖心になるでしょうか。いまでこそ信じていただくことができないでしょうが、私は人前に出ると頭の中が真っ白になるような人間でした。恐怖心がそうさせるのでした。ところで恐怖心にも良い面と悪い面とがあります。あなたは車の運転をなさるでしょうか。もしなさるなら知らず知らずのうちにスピードが出てしまっているという経験をなさっているはず。このときに恐怖心が機能しなかったら、非常に危険です。これは恐怖心の持つ良い面です。ある人たちは「私の人生は祝福されないかも知れない」という漠然とした不安感を持っています。中には確信にまで高められた人もいます。これは悪い面です。私たちが信じる神さまは良いお方ですから、決して悪いものをお与えになることはありません。健全な恐怖心は益をもたらします。要は恐怖心を上手にコントロールできればいいのです。今回は恐怖心をいかにコントロールすることができるかを学びましょう。あなたが恐れを感じた時には神さまのメッセージを聞きましょう

 今回の話はイエスさまが人々へ思いやりをお見せになったと言っていいでしょう、その「5000人の給食」の出来事に続くものです。以下の22節の表現に注目してください。特に「 」の文章です。

 イエスは弟子たちを「強いて」舟に乗り込「ませ」て、自分より先に向こう岸へ「行かせ」、その間に群衆を帰して「しまわれた」。つまりイエスさまがはっきりと主導権を見せていらっしゃいます。この点は後にもう一度触れましょう。弟子たちの乗った船が突如嵐に会い、弟子たちはパニックになりました。それに輪をかけさせたのが水上歩行されたイエスさまのお姿でした。「幽霊だ!」とは驚きました。幽霊って日本だけかと思ったら、ユダヤにもいたんですねえー。もちろん同じものではないでしょうが。でも文化的におもしろさは十分にあります。さて、私たちが恐れを感じた時に何がそこには起きるのでしょうか。心の扉が開いて人間の奥深い部分が見えて来ます。暴露される、と言ったらいいでしょうか。三つのものが露見します。

 ・罪。「私には罪がある」と自覚するのです。自覚させられると言ってもいいでしょう。33節では「あなたは神の子です」と表現されています。これは「神です」、「救い主です」と同義です。同様のことはルカの福音書5章1ー11節にあります。その中の8節の表現がそれです。自分の持っている罪が見えます。

 ・人を愛したい思い。私たちは「神のかたち」を持っていますので、本来このような思いはあるのですが、様々な障害により失望させられていますから、普段このような思いは閉じ込められています。ヘルマン・ヘッセの作品に『アウグスツス』があります。こういう話です。ある女性に男の子が生まれます。不思議な老人が現れて、「あなたにはたった一つだけ願いごとを叶えてあげよう」。彼女はこう言います。「だれからも愛される人にしてください」。かわいい少年に育った彼は顔立ちが良く、女性たちからもさかんにちやほやされます。でも同時に高慢になって行きました。やがて老人になり、顔も汚くなり、だれからも相手にされなくなります。母親も死んで失望している中、再びあの老人が現れます。「もう一度だけ希望を叶えてあげよう、言いなさい」。彼はこう言います、「だれをも愛せる人にしてください」。彼はみすぼらしいいでたちではありましたが、心満足でした。あなたにも人を愛したい思いがあるはずです。

・「私はあなたを愛している」という声(27)。あなたは神さまに愛されています。これは確かなことです。

 救い主イエスさまを心にしっかりと受け入れましょう。そうすればあなたの中に・のみに終わらず、・と・が続けて与えられます


神さまの愛をじっと見つめましょう

 「私は神さまに愛されている」という強い思いを常に新たにしましょう。

 宮崎県のある海岸に体長一メートルもあるウミガメがあがって来ます。テレビでも放映され、多くの人の感動を呼びました。砂浜に前足で穴を掘り、目から涙を流し乍ら卵を産み落として行きます。そして砂をかけ、木屑や海草などをその上に乗せカモフラージュします。他の動物たちに食べられないためです。さらに後ずさりしながら、前足で足跡を消して行きます。これは母の愛、そして神さまの愛です。子どもへの献身的な愛、犠牲を惜しまない愛。

 ペテロはこのような愛のイエスさまに甘えています。水の上を歩くイエスさまに、「私にも歩けるようにさせてください」と言います。イエスさまだからこそ、なさるべきこと。ペテロにはできる必要などありません。でもイエスさまは彼のリクエストに応えられます。なんというやさしさ!29節を見ますと、ペテロは確かに水の上を歩いているのです。ところが30節。沈み始めました。なぜ?環境を見たから。あなたにはそのようなことはありませんか。周囲の目を気にしたり、ねたみや劣等感にとらわれたり。ふらふらになるのではありませんか。挙げ句に「私は神さまに愛されていない!」と心の中で叫んでしまいます。どうか良い面を見て下さい。あなたの心に神さまの愛が強く焼きつけられるはずです。ゴッホの絵に「ひまわり」があります。彼は「貧しいけれども美しい心を持つ人」を描き続けました。しかし人間の心は弱いもので、だんだん否定的になって来ました。お父さんがそんな彼に助言をしました。「明るい空の下に行ったら」。彼はオランダの人ですが、フランスに下り、アルルにやって来ました。そこで強烈な印象を受けました。ひまわりを見たのです。いっせいに同じ方向を見ているひまわり。太陽の方を見ているひまわり。「そうだ、明るい方を見よう!」と。彼のお父さんは牧師でした。もしあなたがあなた自身の中も含めて、良いものばかりを見ているならば、あなたは神さまの愛を確信するでしょう。その愛は恐れを知ることはありません。

強く信じましょう

 31節のやり取りを見ましょう。イエスさまの注意深い発言に注目してください。不信仰などと言いますが、うかつに使ってはいけません。信仰にも種々あります。イエスさまを信じる信仰もあれば、個々の目標を信じる信仰もあります。そして、ここが肝心なところですが、多くの場合、信仰はパーセントで表すのがいいのです。70%信じている、80%信じているというふうに。30%、20%は疑っているというわけです。これが正直なところです。「私はいつもまったく疑うことなく信じて来た!」という人には「ホント?」と言いたいのです。人間ってそんなに強いわけではありません。信じたり、信じられなかったり、これが事実です。私たちは自分自身をも含めて裁くべきではありません。裁きあうべきではありません。信仰とは何でしょうか。それは嵐の中でイエスさまを呼び求めるものです。この求める強さを信仰と言います。イエスさまから来る助けには早すぎることも遅すぎることもありません。31節をご覧下さい。ちょうど良いときに助けはあります。22節に戻りましょう。イエスさまが主導権を握っておられます。これはテストだったのです。弟子たちを訓練しておられたのです。ですから強くイエスさまを信じましょう。問題の解決を信じましょう。目標を信じましょう。それには自分の弱さを認めること。このとき神さまの御手が動きます。聖霊さまの風が吹きます。あなたに不思議なことが起きます。すべては信仰一つにかかっています。

 9月の気持ちの良い朝、くもが一本の糸にぶら下がっていました。するすると下に降りて来て、小枝に触ろうとしていました。丁度良いものを見つけ、そして立派な巣を作り上げました。彼は満足しました。それは朝露に濡れてダイヤモンドのように輝いていました。彼はすこぶる機嫌が良かった。というのはえさであるはえがたくさんかかっていたから。でもある朝、大変機嫌が悪かったのです。はえが一匹もかかっていなかったからです。「きっと巣に悪い箇所があるんだ、修理しなくっちゃー」と点検を始めました。しかし悪いところはどこにも見つけることができませんでした。ふと見ると一本の糸だけがどこにつながっているか分からないのがありました。「これだ!これが原因だ!」と思ったくもははさみでちょきんと切ってしまいました。読者はその結果どうなったかお分かりでしょう。はじめぶらさがって降りてきた糸であったのです。たちまちにしてダイヤモンドのような巣はゴミになってしまいました。何をお話したいかお分かりでしょうか。すべてのすばらしいことは信じること一つにかかっています。ですから強く信じなければなりません。こうしてあなたは恐怖心をコントロールすることができます。

神さまの豊かな祝福があなたの上にありますように。

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