138 心の衰え果てる時



聖書箇所 聖書箇所 [詩篇61篇1-4節]

 ゴッホの『ひまわり』の絵をあなたはご存じでしょう。このようないわれがあります。彼は「貧しいけれども美しい心の人」というテーマで描き続けていましたが、うつになってしまいました。見兼ねたお父さんが「南の方に言ってみたら」と助言しました。オランダの人ですが、フランスのアルル地方へとやって来ました。そこで一斉に太陽を向いているひまわりに会い、感銘を受け、彼のうつは癒されます。お父さんは牧師でした。さてこの話には一つの重要なことが隠されています。それは、日の光はうつを解消するということ。これには科学的な根拠があります。

 毎日新聞にこの種の話が紹介されていました。
 「光は、人間の心と深い関係があると言われている。例えば、北欧では、冬になると太陽の光が少なくなり、このような暗い中で毎日を送るとうつ病になる人が増えてくる。これは季節うつ病と言われる。季節うつ病になればどうすればいいのだろうか。太陽がさんさんと輝く南の地方へ旅行すれば治ってしまう。また、強い光を一定時間浴ぴせても治る。これは、光線療法と呼ぱれている。なぜ、光は心を安定させるのか。それは、光が脳内でセロトニンという物質を増やすからである。セロトニンは、心を安定させる優れた効果がある。」
 光は人間の心と深い関係があるというのです。
 ところでセロトニンを活性化させる薬物が登場しています。このことが一つの事件を生みます。
 内科医オシェロフは、欝病と診断されてメリーランド州のチュストナット・ロッジ診療所に入院した。七ヶ月の入院中に、彼は四回の集中的な心理療法(精神分析)を受けた。診療所は、彼が薬物療法を受けたいと主張したにもかかわらず、それを拒否して精神分析の治療を続けた。……オシェロフは別の病院に移ることを主張し、コネティカット州のシルバー・ヒル診療所に入院した。そこで彼はフェノチアジンという抗不安薬や鬱病の薬を用いて、三ヶ月で退院するまでに回復した。ところが帰宅してみると妻は家を去り、自分の診療所は閉鎖されていた。彼は一九八二年にチェストナット・ロッジ診療所を医療過誤で訴え、七ヶ月後に二五万ドルの支払いの判決を受けた。……この結果、もし鬱病のような患者が来院した際に、精神分析や心理療法のみで治療しようとすることは、医療過誤になるという可能性を、全米の医学界に知らしめたのである。このため、この分野を専門としようとする医師が激減しはじめた。……一九五〇年代には精神科医の一〇%が精神分析医だったが、一九八八年には二・七%にまで落ちている。また一九五〇年代には工ール大学のあるコネティカット州ニューヘブンの精神科医の三二%が精神分析で治療していたが、現在ではほとんどが薬物で治療している。……このような推移にはもちろん、精神分析の治療効果に対する疑いと、新しい薬物とくに〈プロザック〉の台頭が関係している。スイスに診療所をもち、フロイト直系を自任していた精神分析医ルートビッヒ・ビンスワンガ一のもとに、一九七八年、親類の女性が精神疾患で入院した。彼の分析治療によっては彼女の症状に改善がみられなかった。その時にドイツの精神科医で薬物療法を使っていたフリッツ・フリューゲルが〈プロザック〉を用いて患者をみごとに治癒させたのである。ビンスワンガーはフリューゲルに「君のプロザックは私が五〇年かかって築いてきた精神分析の城を壊してしまった」と告白した。クロイツリンゲンにあるビンスワンガー診療所は一九八〇年に閉ざされた。(『心の病気はなぜ起こるか』朝日新聞社)

 さて何が問題か、です。セロトニンを活性化するプロザックと言えども万能ではないということ。直る場合もあるけれどもそうではない場合も少なくないのです。今回は最強のうつ対策をご紹介しましょう。聖書では、神(キリスト)は、光にたとえられています。光で神さまを信頼して歩むとき、精神的にも霊的にも健康になります。詩篇61篇1ー4節は、はっきりと神さまの方に顔を向けるようにと勧めています。神さまは詩人の口を借りて真の光である「私を見上げなさい」(2)と提案しておられます。さあ、神さまからあなたに向けてどんなメッセージが与えられるのでしょうか。今回はこの箇所から学びましょう。


あくまで自分自身であれ!

 1節から4節までに「私」はいったいいくつあるでしょうか。そうです。見上げる主体としての「私」の存在が重要です。というのは、「私」の存在が希薄になることが少なくないからです。それが問題です。別の人にならなければいけないと思っている人が少なくありません。根本的には、それは外圧です。学校から帰ってきた太郎君へお母さんが、開口一番、「ねえ、太郎!隣の次郎君って、学校から帰ってきたらテレビも見ないで、ゲームもしないで5時間も勉強するんですって!ねえ、あなたもそうしなさい!」。会社から帰って来た夫に妻が「お隣のご主人が課長になったんですって!」。こうして私たちは落ち込むのです。別人になんかなれるわけがない!のに。どうかあなたはあなた自身であってください。本来あなたはあなた以外の人間ではあり得ないのです。

 旧約聖書にアモスという預言者がいます(以下はアモス書7章14、15節を中心に話を展開)。彼はいちじく桑の木の栽培人です。その他に彼について分かることは荒っぽい性格とことば使い、機転がきかず融通がきかない、学歴もないなどなど。ところがなんと彼に神さまから預言がありました。彼も驚いたけれども、もっと驚いたのは預言を語られた人々。彼らの反応は冷たいものでした。要するに、「おまえになんか語る資格なんかない!」と言う反応。彼の反応は、と言えば、これが立派!一言、「文句あっか!」と表現してもいいでしょう。「神さまが私に『預言を語る者であれ』とおっしゃっている、『おまえは語らない者であれ』となぜ言えるのか、どんな権限があなたがたにはあるのか。私は私なのだ!」もしあなたが神さまの前で生きるとするなら、アモスと同じように居直らなければいけません、「私は私、私以外の何者でもない!」と。あなたはこの世界でたった一人のユニークな存在。あなたの代替者は存在しません。オリジナルです。決してコピーではありません。それほど重要なのは、第一にこの世界で最高のお方である神さまご自身の作品であるから。第二に、イエスさまの血、すなわち莫大な金額が代価として支払われたから。どうかこのように貴重なあなたであるのですから、大切にしてください。あなたにはあなたの性格があり、話し方があり、歩き方があります。あなたにはあなたのやり方があります。あなた自身であってください。

生きる意味を問え!

 多くの問題があなたを取り囲んでいるのでしょう。心が痛み、あるいは肉体の病気でも苦しみ、人間関係に頭を抱えているのかも知れません。突然苦しみが襲う場合もあれば、じわーっと来るものもあります。そのような時、あなたが心衰え果てる時、どのようにあなたは過ごしなさいますか。気持ちの上ではこう叫びたくなるのでしょう。「なぜ?私が?いったいいつまでこんな苦しみが続くの?」。詩篇の作者もそのようなことを口走っています。まず、あなたの経験なさる時間や物事について無意味なものはいっさいないと知ってください。ところで試練は、その痛さからするとちょうど釘の頭を叩かれるようなものです。問題は、釘には叩かれる理由が分かりにくいことです。しかし、ここが大切なところですが、金づちを手にしているのは同一の職人であることです。もうお分かりでしょう。すでに設計図面が存在しています。すばらしいデザインがすでになされています。その職人とは神さまです。そうです、いま、あなたに必要なのは、神さまの目で物事を見ること。それは非常に高い所から見ることです。東京タワーなど高い所にあなたには上がった経験がおありでしょう。よーく見えます、地上の様子が。でも地上にいる人には物陰に隠れて見えない事が多いのです。こうして詩人は「どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に私を導いてください」

(2)と叫びます。

 過日、カトリック枢機卿である白柳誠一さんのあかしが読売新聞(1998年9月1日号)に紹介されていました。以下は原文通りですが、種々あるキリスト教会の中でも独身の賜物を持つ者が多く、カトリックの聖職者たちは原則として(実質的に妻帯している人たちもおります)独身でなければならないことを念頭にお読み下さい。  固い決意のもとに選んだ道ながら、そこは弱い人間のこと。いろいろと欲望もあるし、誘惑もある。美しい女性を見れば、美しいと感じるのは当たり前。正直に言って、決心がぐらついたこともありました。……実は昨年の暮れに20年来患っていた狭心症のため、心臓のバイパス手術をしましてね。三ヶ月ほど入院したんです。静かに自分を見つめ、真剣に死の問題を考える、またとない機会になりました。死は未知のものなので、その前でたじろぐことがない、というわけにはいきません。……私にも日常的な悩みや苦しみはあります。人間は欲望や執着を抱えて生きる、不完全な弱い存在です。だからこそその点をしっかりと自覚し、神の恩寵や救いを求める姿勢が必要なのです。それに≪愛≫。昨年亡くなったマザー・テレサは、よくこう言っていらした。≪愛の反対は憎しみではなく、無関心である≫だれしも、人を愛し、愛されることが深い望みのはずです。ところが、現実には自己中心的になりがちで、いつの間にか人に対して無関心になっていり、愛の実践は、まず身近な人に関心を向けることから始めるべきでしょう。≪キリストの愛は私をかりたてる≫(井上註:「コリント5:14)私の好きなパウロの言葉ですが、今後も宗教者として、人々の心に平和と愛を訴えていくつもりです。

愛の流れの中にいなさい!

 私たちが失望した時に、衰え果てた時に必要なものとは一体なんでしょうか。科学的な分析でしょうか。議論を戦わすことでしょうか。はたまたお説教をしてもらうことでしょうか。答えを極めて象徴的に教えてくれた事件がかつてありました。 ブラックモスリム(黒人回教徒)の一派がワシントン市庁舎をはじめ三箇所を急襲して大勢の人質とともに立て篭もりました。警官隊と対峙する中、イラン大使がグループリーダーの説得に当たりました。最後は大使に抱きかかえられるようにして、投降しました。彼はこう主張していました、「アメリカには正義がない。革命が必要だ!」。やがて事情が分かりました。彼の子どもたちや孫たちが対立するグループに殺害されたのですが、だれ一人同情してくれなかったというのです。翌日の新聞にはこう見出しが踊りました。「彼に必要だったのは、Passion(正義や革命への情熱)ではなくCompassion(同情)だった」。そうです。これが人間の真実です。「そー。辛かったねえー」の一言が私たちを救うのです。私の大好きなことばはサンテグデュペリの愛の定義。「愛とは互いに見つめ合うことではなくて、同じ方向を見ること」。あなたは礼拝を神の家族と共になさいますか。もしなさるとしてどのような種類の時間を過ごされますか。どうかリラックスして、イエスさまの愛を感じて下さい。また隣に座っている人からの愛を感じてください。4節のことばはあなたへの神さまによる保護を教えています。特に「陰」に注目したいのです。多くの場合、聖書において、そして中東を舞台に生きる人々にとって否定的な意味ではありません。強い日ざしの中では木や岩の陰こそ命の安全を保証します。おまけに涼しい風が吹いてくるのです。親鳥の元にはあたたかさもあります。これらすべては愛です。愛の流れに心身共に休めてください。このような愛の流れは祈りから生まれます。

 イスラエルがアマレク人と戦ったことがありました。「モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った」。丘の上にいるモーセ、平地にいるヨシュアは別の場所にいるのに見えない線でつながれています。モーセの霊性がそのままヨシュアの務めに影響を与えます。だれがモーセで、だれがヨシュアというふうに特定する必要はないでしょう。牧師がモーセで、ヨシュアが信徒かも知れませんが、その反対の場合もあるでしょう。私たちは互いにモーセであり、ヨシュアです。これが教会です。共通の生命を共有し、お互いの祈りが愛の流れを起こします。その流れの中にいてください。礼拝や各種の集会の中で慰めといやしとを受取ってください。さて、モーセは疲れました。「モーセの手は重くなった。」(出エジプト17:8以下)。「楽しき祈りよ」と聖歌にはありますが、戦いの祈りは疲れます。罪が蔓延する世界で、その逆を、すなわち愛の流れを起こそうというのですから。モーセは座りました。アロンとフルがモーセの手を支えました。私たちも祈るときにさまざまに工夫をするべきでしょう。個人の祈りや集会での祈り、賛美の祈りやお言葉の祈り、断食の祈り、異言や知性の祈り、徹夜の祈りや連鎖の祈り等々。大いにアイデアを働かせて祈りましょう。祈りこそ愛の流れを起こしあなたをうつから解放してくれます。

ドラマはまだ終わっていない!

 ダビデがこの詩の作者です。彼の人生は波乱万丈。起き上がりこぼし。他にもたくさんの人物が登場するのが聖書ですが、彼らに共通するのは、決して欠点を隠さないこと。しかしこれが私たちに希望を与えます。だれもが普通の人間です。そしてもう一つの共通点は衰え果てたときに新しくかつ魅力的なドラマが始まったということ。アブラハムしかり、モーセしかり、信仰の偉人はみなそうです。一度はうつを経験しているのです。大切な事はドラマはまだ終わってはいない!です。もっともっと楽観的になることをお勧めします。

 ユダヤ人は……計算高いと一般的に言われているようですが、大変楽観的で、なりゆきまかせといった面もあります。あるとき、エルサレムに住む友人が引っ越しをすることになり、何人かの友人が集まり、手伝うことになりました。エルサレムの町は海抜八○○メートルの山の上にある、大変起伏に富んだ町です。ここでも最近は高層住宅が増えました。……さて私たちは三階にある友人の部屋から荷物を運び出して、借りてきた車に積み込み始めました。数人がかりで一間半ほどの組み立て式のタンスを解体して運ぴ出しましたが、……いざタンスを積もうとすると、見当たりません。……盗まれたのです。どうやってあの大きな物を、わずかな時間に持ち去ったのかと、みんなであきれて感心さえしてしまいました。もちろん盗まれた本人はがっかりしていましたが、一言「アドナイ・イルエ」と言って気を持ち直し、何事もなかったかのように引っ越しを終えました。そして新しい家にはタンスが入るべき場所が空けられていました。その「アドナイ・イルエ」とはアブラハムがひとり子イサクを全焼のいけにえとして献げるためにモリヤの山に登つたときに、主なる神が一頭の雄羊を備えられた場所を名づけてそう言われているのです。本来、「アドナイ・イルエ」とは、「主は見ておられる」という意味で、神はそのすべてのことをこ覧になっておられ、備えてくださるということなのです。(『恵みの雨』安田真)

 どうか、失敗したとき、成功しなかったとき、気持ちがおちこんだとき、そのときの状況をあなたの人生の結論としないでください。それはあまりにも短絡的です。むしろこれから、これからです!これからがおもしろいのです。期待しましょう。あなたを愛する神さまはあなたの心強い味方です。あなたの大切な人生を舞台に始まる新しい素敵なドラマに主の祝福を祈ります。

神さまの豊かな祝福があなたの上にありますように。

メッセージ集のページへ戻る