139 調和しながら生きる



聖書箇所 [マタイの福音書22章34-40節]

  幸福って何でしょうか?それは調和。もし最近調子が悪いなあーって思うなら、不調和の部分を探して見て下さい。たとえば胃が痛いとか。一つの器官でしかありませんが、胃の不調和は無視できませんねえー。神さまが人類を地上にお造りになった頃、最初の人はアダムですが、「一人でいるのは良くない」(創世記2:18)とおっしゃって、エバを結婚相手に用意してくださいました。結婚とは一つの調和の世界(本来はそうであるはず)です。調和は英語でハーモニーと言いますが、本来はギリシア語で動詞で使われているところを紹介しましょう。

 私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。(「コリント11:2)「花嫁に定め」がハルモゾーで、すなわち結婚とは一つの調和の世界に入ることです。さらに親子や友人同士が調和しているのは神さまのみこころです。今回は三つの調和の世界を学びましょう。それは、あなたの神である主を愛することと、あなたの隣人をあなた自身のように愛すること、すなわち……


神との調和

 神さまとの間に調和があることによって、この世では得られない平安が私たちの心と生活に与えられます。この世で得られる平安は一時的です。表層的です。アイスクリームを食べて、あるいはケーキを食べて、気持ちはうるおうことは確かですが、一時的でしかありません。いくつもいくつも食べ続けるわけには行きません。神さまとの調和があればばっちり、平安です。周囲の雑音や煩わしさからも自由です。なんとありがたいことでしょうか。しかし生まれながらの私たちは真の神を認識する事ができません。そこで偽の神をつい追い掛けてしまい、さまざまな宗教が生まれます。肯定的に捕らえれば、私たちの心の中には神さまを求める思いが確実にあるということです。霊の親なのですから。私の兄は中国でさらわれて行方不明になりました。自分が日本人であると認識してから親を探し続けました。一方私の両親も探し続けました。そうしてついに40年後再会を果たしました。感動的でした。実際には残留孤児の話がテレビニュースで報道されますが、親が名乗り出ないケースは少なくありません。私たちは名乗り出ない親を責めることはできません。さまざまな事情があるからです。でも名乗り出ることは出会いの決定的要素である事はまぎれもない事実です。私たちは生まれながらに神を認識できないので、親である神ご自身が名乗り出てくださいました、御子イエスさまを通して。あなたにはキリストの神さまがあなたの大切な霊の親であることがもうお分かりでしょうか。分かるときに調和が生まれ、あなたの中でそれが育って行きます。あなたにはただ一つのことだけが求められています。悔い改めです。罪の悔い改め。これをすれば罪は赦され、あなたの神との調和は磐石なものになります。ハレルヤ!

人との調和

 良い人間関係は幸福のための重要な条件の一つです。夫婦、親子、友人同士など良好な関係を持ちたいものです。そうですねえ、持ちたい。しかし事はそう簡単ではないのも現実です。どうしてなのでしょう。エリック・バーンは「人間は幼児期に人生の基本的な物語が決められていまう」と言い、「人生の脚本」という理論を提唱しています。「脚本」の背後には「人生の基本的姿勢」があり、4種類あります。私たちはこの中のいずれかを採用しています。  ・私はOK。あなたもOK。・私はOK。あなたはOKではない。・あなたもOK。私はOKではない。・私はOKではない。あなたもOKではない。「私(あなた)はOKである」とは「私(あなた)は生きるに値する」「私(あなた)は愛されるに値する」という意味です。「私(あなた)はOKでない」とは「私(あなた)は生きるに値しない」「私(あなた)は愛されるに値しない」という意味です。さてこれら四種類の中で最良の選択は何でしょうか。きっとあなたは・でしょうね。では聖書はどう判断しているのでしょうか。今回の聖書箇所を思い出してください。「あなたの隣人をあなた自身のように愛する」こと、すなわち「人を愛する」ことと「自分を愛すること」でしたね。・が解答です。

それなら私たちはこの道を歩むべきです。ところが「義人はいない。一人もいない」(ローマ3:10)のです。義人とは聖書用語で律法(神の法律)を落ち度なく実行する(できる)人のことです。私たちは誰一人として・私はOK、あなたもOKと言える人はいないと主張しているのです。これでは絶望……ですね。では現実はどのような姿勢でいるのでしょうか。出会う人々を、OKな人とOKでない人とに分けます。OKな人はあなたに対しては基本的には何の問題もありません。しかしOKでない人はあなたに対して大きな問題をはらんでいます。何の問題でしょうか。期待に応えてくれないという問題です。そこでその人に「私の期待に応える者に変われー!」と叫んでしまいます。「変われー!」「変われー!」「変われー!」の大合唱。ここで考えてほしいのは愛とは何か、です。愛とは縛ることではありません。解放することです。罪の縛りからあなたを解放するためにイエスさまは天から来てくださいました。あなたは人を愛するならその人と調和することができるでしょう。それはその人を解放することです。提案があります。聖霊さまに期待してください。祈って祈って聖霊さまのお力によってあなたの自我を、すなわちわがままを十字架に付けることができます。こうしてあなたの中に人への愛が育ちます。

自分との調和

 あなたは自分が好きですか。どうか正直に答えてください。人には知られないので正直に答えてください。多くの人が自分自身と折り合いをつけることができないで悩んでいます。「こんな自分、嫌だ!」と叫んでいます。自分との間に調和を見つけるのは難しいのです。どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。大きな原因の一つに値引きがあります。一人の人の存在、重要性、能力などを軽く考えること。よくあるケースです。「ほんとうは男の子が生まれたらといいと思っていたのよ!」と女性が親から言われる場合があります。これがそうです。善意の値引きもあります。悩みを打ち明けたところ、「へえー、そんなことで悩んでいたのーッ!たいしたことじゃあー、ないじゃなーいッ!」と言われる場合。このような会話が身近にあるのでは?あなたが値引きされている場合もあるかもしれないし、あなたが値引きをしているかも知れません。私たちの世界は実は値引きが蔓延している世界です。そういう状況で、すなわち値引きされてばっかりいる自分を好きになれって言う方が無理です。ではどのようにしたら自分と調和を計ることができるのでしょうか。それは十字架への理解の仕方を再考することです。十字架、それはあなたの罪をイエスさまが引き受けて、身代わりに死んで下さった出来事。その通り。100%正しい見解です。しかしもう一つの面を忘れてはいけないのです。それは神さまからあなたへの、イエスさまからあなたへの共感の思い。罪や罪が産み出したもろもろのものに縛られ苦しんでいるあなたへの共感。次の箇所をご覧下さい。

 ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」(ルカ23:32-41)この中の特にこのせりふ。

 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)

 自分を殺そうとしている人たちへのイエスさまの思い、すなわち同情とあわれみ。これが共感です。心ある人なら共感されれば新しい勇気を獲得します。自分への態度を変えます。つまり自分を値引きする事を止めます。

 保健室には……今、多くの生徒が出入りしています。保健室にしか行かない”保健室登校”の生徒たち。勉強についていけない生徒、教師との関係に問題を感じている生徒、クラスの仲間とのトラブルから逃げて来る生徒、家庭の問題に悩んでいる生徒など、からだの問題よりも、こころの問題を抱えて保健室に出入りしているのです。そんな子どもたちのこころはゆがみ、なかには、保健室に来ても、こころを閉ざし、なかなか口を開かない生徒も多いのです。知人の先生は、そういう生徒へのアプローチとして、口を固く閉ざしてベッドに横になっている生徒の脇に、一緒になって寝転がるというのです。そして、生徒の目を、顔を優しく見つめつづけます。そうすると、だいたいの生徒は、目に涙を浮かべ、こころを開き、口を開き、こころの痛みや悩みを語りはじめるというのです。その先生は言います。保健室にやってくる生徒たちは、人間的な〈ふれあい〉を求めてくる。自分の悩みを共感的に理解してくれる人を求めてやってくるのだと。この共感とは何かがよく分かる、おもしろい話を紹介しましょう。よく晴れた日のこと、いつものように子供たちが遊んでいる。よく見ると、その中に一人の泣き虫がいた。幼い男の子なのだが、なんでもないのに転んで泣きだした。「ワーン」「ワーン」。その泣き声の大きいこと。あたり近所に響き渡る。と見ると、かつての悪たれ小僧どもの一人が泣き虫のそばへ駆け寄った。どうするのだろう。こんなときは二つのやり方が考えられる。一つは、すばやく抱き起こしてやること。もう一つは、「さあ起きなさい、一人で」と励ましてやることである。このどっちであろうと思って見ていると、まことに意外にも自ら泣き虫のそばへ巧みに転んだ。そして泣き虫の顔を見てニッコリ笑う。すると泣き虫もニッコリ笑った。目にいっぱい涙をためて。そのかわいらしいこと。そこで泣き虫に向って言った。「さあ、起きようか!」と。すると泣き虫は「うん!」とうなずいて、そのまま起き上がった。転んで泣きやまぬ子のそばへ自分も転んで相手の世界へ入りながら、ともどもに決心して「さあ、起きようか!」と誘う。それは命令でもなければ、単なる激励でもない。それは相手との苦しみの共感であり、相手の悩みとの共同の場に生きることなのであった。(近藤裕『愛のストローク療法』三笠書房)

あなたは神さまによる、そしてイエスさまによる共感を受け入れますか。あなたはとても大切に取扱われているのですよ。あなたはとっても深ーく愛されていますよ。もう値引きは止めてください。自分の存在の価値高さを率直に受け入れて下さい。自分の人生の価値を再認識して下さい。そうすれば、その余裕が人との調和にあなたを導き、それはとりもなおさず、神との調和であるのです。 『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』(マタイ25:40)

神さまの豊かな祝福があなたの上にありますように。

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