142 これが御霊の実


聖書箇所 [ガラテヤ人への手紙5章22、23節]

 一人の女性が神さまの導きを確信しました。こういうものでした。「あなたは人々に仕えなさい」。そこで17才の時に看護婦の道に進みました。ナイチンゲールです。彼女はクリミヤ戦争(トルコにロシアが侵入して始まった。1853年)で大変すばらしい、献身的な働きをし、メディアの注目するところとなりました。でも彼女はこう言って賞賛を受けることから逃れようとしました。「私のしたことで賞賛を受けるべきことがあるとするなら、それらはすべてイエスさまがお受けになるべきです」。つまり彼女は自分の中のイエスさまのなせるわざであったと言っています。今回は御霊の実について学びたいのです。御霊の実があなたの中で結ばれる時、あなたの中にはイエスさまが働いておられます。あなたの中にイエスさまのご人格が存在感を強ーく示しておられます。さて御霊の実について学んで行く前に一つの重要なことを確認しましょう。コリント人への手紙第一13章の1ー3節をお読みください。何が書いてあるでしょうか。賜物とは能力で、私にはこれができる、あれができる、と言ったことです。もし何か立派なことがあなたにできたとしても、愛がないなら何の意味もない、と言っています。愛とは御霊の実です。さあ、学んで参りましょう。

 愛とは何でしょうか。あなたは十分ご存じです。では究極の愛は。友のためにいのちを捨てること。

 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)


 ところで私たちは無意識のうちに大切なものをランク付けしています。たとえばAランクーこれは自分のいのち、そして家族のいのちも含まれるでしょう。Bランクー不動産や金銭、そして社会的地位などでしょうか。Cランクーこれは通常の持ち物といったところでしょうか。私たちが人に差し出せるのはCランクの中のどれかでしょう。Bランクに所属するものを提供するというのはなかなか難しいでしょう。ましてAランクにおいておや。こういうわけで美談が生まれます。
 ジェンナー【Edward Jenner1749〜1823】をあなたはご存じですね。イギリスの外科医で牛痘に感染した者が天然痘に対して免疫になることに気づいて、1796年に牛痘種痘法を発明しましたが、自分の息子を実験台にしたと言います。人類のために大切な大切な自分の子どもを犠牲にしたというわけです。日本でも妻を実験台にした華岡清州が有名ですね。ちなみにジェンナーの場合はその後に分かったことですが、その子は実子ではなくて孤児であったということです。そうは簡単には自分や自分の子どものいのちは捨てられないということです。でも本物の愛とはこういうものだと知っておくことは大切な事です。私たちは決して理想を忘れてはいけません。ロマンを捨ててはいけないのです。

喜び

 あなたは今喜んでいますか。御霊の実としての喜びは環境や状況には左右されないものです。だれかに傷つけられたからといって消えてしまうようなもろいものではありません。アイスクリームを食べて「あー、おいしかった!」というような種類のものではありません。あなたの中からじわーっと沸き上がって来るものです。むしろ外部の環境に影響を与えてしまうような勢いのあるものです。なんとすばらしいものでしょうか。あなたにはこのような喜びが与えられます。そうしてこのことのためにイエスさまは尊いいのちをあなたのために投げ出されました。

平安

  いま、あなたは平安ですか。それとも不安。最新の依存症の話をしましょうか。依存症でもっとも有名なのはアルコール依存症でしょうね。通称アル中。でもここでは最新型の依存症の話です。

 電話の小さな画面を頻繁に眺め、時折素早く文字を打ち込んではメールを送る。なかなか現れない友達にも、「今どこ?」と送っては、返事を待つ。携帯電話を親に買ってもらって一年たつ。月一万円前後の電話代はアルバイトでまかない、毎日二十通はメールを送る。半日、だれからのメールもないと、無視されている気がして自分から送ってしまう。授業中こっそりチェックすることもしばしば。前日送ったメールは、高校の同級生に「あのドラマ、見た?」、別の友達には「○○君が気になるんだけど」、中学時代の友達に「あしたカラオケは?」。すぐ返事があったり、なかったり。「全部に返事がなくてもいいけど、一つも返って来ないと落ち込む。自分の存在がなくなってしまう感じ」  寂しいからメールを打つのか、それとも、メールを打つから寂しくなるのか。「寂しいのは、携帯電話を持っているからです」。京都学園大学の岡崎宏樹講師(理論杜会学)はそう指摘する。電話番号やメイルアドレスを知っている友達は、いつでも自分と遵絡が取れるはず。友達の情報がすべて集まっている携帯電話に連絡がないと、「だれからも必要とされない」という不安や焦燥に駆られる。この不安が四六時中喚起され「ケータイ依存」も進行するというわけだ。岡崎さんは、クラス全員に毎晩「おやすみメール」を送る女子高生を知っている。大変だけど、メールをくれる友達を無視できない」と言っていた。「常に友人だという確認を取っていないと不安になるようなんです」 NTTドコモが昨年、首都圏の男女千人に聞いたところ、。「いつでもやりとりできて安心」が五割、「持っていないと不安」も五割だった。……高校二年生女子のメグミさん(16=仮名)は……親指でポタンを押す……「触っているだけで藩ち着く」 若者のコミュニケーションに詳しいバンダイキャラクター研究所の相原博之主任研究員は「携帯電話は、若者にとって『ライナスの毛布』」と言う。漫画のスヌーピーに出てくる男の子ライナスはいつも毛布を持っていないと落ち着かない。「何となく口寂しい時、手が寂しい時に触っていると安心する。いやしグツズでもあるのでしょう」。
(2001.7.3『読売新聞』)

 不安は非常にやっかいなものです。学者によれば不安と恐怖は異なります。どう違うかと言うと、恐怖は恐怖を与える主体が明確です。たとえば熊が襲ってくれば「こわーい!」。熊が恐怖を与えています。従って恐怖の原因をなくせばそれで解決。しかし不安は何が原因なのかが不明です。たとえば携帯で言えばだれだれさんからメールがくれば不安はなくなる、といったことはありません。非常に漠然としています。つまり実存的な世界のことです。したがって宗教の世界の話です。宗教とは神さまとの関係です。御霊の実が実っている状態は、御霊は神さまですから、神さまとの関係が良好であると言う事ができます。

寛容

 これはマクロシミアの訳語です。どのような意味かと言いますと、しかえしをしない、すぐにカッとならない、です。あなたはいかがですか。寛容ですか。私たちの弱さはこのような意味で寛容になれない、ということでしょう。信仰がここに必要とされます。どんな信仰かと言いますと、復讐は神のものであるという信仰。もし必要なら、神さまがあなたに悪い事をした人を裁き、復讐をなさいます。あなたが手をくだす必要はありません。
 トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』(岩波文庫〕から寛容に関する、このような文章を紹介しましょう。

 〈キリスト〉何か難儀が起こったときにはすべて差別なしに、みな神の御手から授けられたものとして感謝して受け、またそれを大きな利益と見なすのです。神のもとにおいては、たとえどんなわずかなものでも、もしそれが神のために忍耐されるものであったら、功徳なしに過ぎ去ることはないからである。〈信者〉どのような苦難の修練も、あなたの御名によっ私にとり愛すべく望ましいものになりますよう。なせというにあなたの為に(苦難)を忍ぴ、わずらいを受けるというのは、私の魂にとって大変役に立つことだからです。

親切

 ギリシア語ではクレーストテース。日本語で受けるイメージとはかなり違っています。どのような意味かと言いますと、他の人の悲しみや苦しみを自分のものとして受け留めること。難しく言うと、共感能力です。なかなか共感することは難しいのですが、練習はマスターするに一番良い方法です。このようにしてやって見てください。一分間、目をつぶって、だれか一人辛い思いをしている人を思い浮かべてください。もし自分だったらどのような思いになるだろうか、と感じてみてください。

善意

 ギリシア語ではアガソスネー。相手を叱ることのできる高潔さです。ある人たちは叱る賜物(実を結べばそれは賜物になります)を持っています。「そんなことをしたら、だめじゃあーないかッ!!」とかなり強い表現なのですが、叱られた相手はむしろ喜んでいるふうです。叱る賜物を持っていない人が同じ事をするとどうなるか。それは想像できますね。もちろん喧嘩。愛は叱ることとやさしくすることの組み合わせです。神とイスラエルの関係をあなたは旧約聖書から知る事ができます。たびたびイスラエルは叱られていますね。偶像礼拝やその他の不平不満を表現して。でも結局は神さまはイスラエルを赦(許)します。新約聖書でも同様です。ペテロなどイエスさまにはたびたび叱られています。でも赦(許)されます。愛にはこれら二つが必要なのですが、叱れる能力は魅力的です。
愛を完成させます。

誠実

 ギリシア語ではピスティス。信仰とも訳せます。信頼とも訳せます。これは信頼されうる能力を指します。「あの人は信頼できる。あの人の言うことなら間違いがない、あの人がすることなら安心だ!」と通常表現する場合のものです。このような信頼を人々から受けるにはどうしたらいいのかと言いますと、まず自分が相手を信頼することです。「与える者は受ける」というのは神の国の法則です。まず相手を信頼することです。あなたもだんだん信頼を勝ち得て行くでしょう

柔和

 プラウテース。くにゃくにゃした印象を受ける語でしょうか。神へ向かう面と人へ向かう面とがあります。神へは従順を言います。「これが神さまのお考えだ!」と理解したときに、「はいッ!そうします」とすなおに応答できるのがプラウテース。一方、人に向かっては吠えないのがプラウテース。吠えるのも、「はいッ!そうします」と言えないのも弱いから。プラウテースはしなやかな強靱さです。柔軟性のある、しかし芯のある強さです。

自制

 これが最後ですが、自制、すなわちセルフコントロールはとても重要です。パウロはローマ人への手紙7章で悩んでいます。「正しい事と分かっていても行えない、悪い事と分かっていても行(おこな)ってしまう。なんとみじめな私だ!」と。自制心の欠如。私たちはこれにしばしば悩みます。

 さて、結論です。結局御霊の実とは何か、です。それは愛!どうしてそのように言えるのかをお話しましょう。実と訳された語はカルポスで、単数形です。すなわち御霊の実は9つもない、たった一つ。次にギリシア語では先頭がもっとも重要、その次が最後尾。つまりこう解釈できます。御霊の実は、愛。その愛がどの程度所有されているのかはどの程度自制があるのかで判断できる。

 今、私たちはもっともっと祈るべきです。礼拝の中で聖霊さまにおおいに触れていただいて豊かな実を結ぶようにすべきです。
 理想を追いかけることを決して忘れないようにしましょう。そうしてご一緒に神さまの祝福にあずかるようにしましょう。

神さまの豊かな祝福があなたの上にありますように。



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