148 ヨブの苦難


聖書箇所 [ヨブ記]

 今回はヨブの苦難について学びましょう。時あたかも米国同時多発テロ(2001.9.11)があり、世界貿易センターではいわゆる罪のない多くの人々が犠牲になりました。だれもがなぜ?と問うに違いありません。ヨブは1章1節を見るとこういう人です。
 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。
 このように立派な人がどうしてこんなにも辛い苦しみに会わなければならないのでしょうか。こんなとは、子どもたちを殺され、財産を失い、自分は重病に苦しめられたことです。聖書の中にヨブ記は存在します。神さまが私たちにぜひ苦難の意味を知ってほしいという思いを表現していることと知らなければなりません。

友人が必要だ

 苦しんでいるヨブに対してエリフはとても良い友人でした。32章6節に彼の名前は登場します。彼はずうーっと話を聞いています。これが良いのです。苦しんでいる人に、今必要なのは内側にある葛藤や処理できない思いを聞いてくれる人の存在です。そばにいてただウンウンと聞いてくれるだけでいいのです。でもこれがなかなか私たちにはできないのではないでしょうか。つい、しゃべってしまう、おまけに長々と。あるいは「その話は前に聞いた、もう十回も聞いた、同じ話だ!」とつい反応するのでは。他の人々の反応はどうであったでしょう。エリファズ(4:7)はこういう意味の事を言っています。「あんた、ヨブさんね、何か罪を隠しているんじゃあーないの?」。ビルダデ(8:1)とツオファル(11:1)も結局は責任追求をするだけでした。要するにお説教なのです。泣きっ面に蜂、とはこのことです。苦しみは余計深くなります。そのあかしにヨブの答えを見てみましょう。

 ヨブは答えて言った。そのようなことを、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ。(16:1、2)

 私たちはお互いに自らの弱さを知る者でありたいものです。弱さを知る者は苦しむ者の気持ちが分かるでしょう。
次の文章は一精神科医師のものです。(柏木哲夫『心の病とキリスト教』いのちのことば社)
 スイスの精神科医P・トウルニエのことば、「何にで成功する恵まれた人々ははなはだしく人間理解に欠ける……」という指摘は、もっと私たちの中に普遍性をもって迎えられてよいように思われる。(久米アツミ訳『生の冒険』ヨルダン社、一八一貢)……。一九六〇年代、二人の知的障害者を引き取って、パリ郊外……で共同生活を始めたカトリック信者のバニエは、自らの弱さや欠けが彼らによっていやされることを体験する。バニエは”健常者”と言われる人々こそ「共に生活することのじつにむずかしい人たち」であることに気づく。その心の中には「誰かを抑圧せずにいられない欲求、誰かを攻撃し、身代わりの子羊とせずにはいられない欲望」が絶えずうずまいていて、「仲良く暮らすより、すぐに派閥を作って争い始め……自分たちの仲間を増やし、武器を手に入れ、ついには戦争を引き起こ」しさえする衝動が隠されているからである(『小さき者からの光』一八、九三頁)。バニエは……一例として、彼はイタリアの共同体にいるアマンドという障害を抱えた子どもの話をする。アマンドは、誰かの腕に抱かれると目を輝かし、身体全体を震わせて「大好きだよ!」と語りかける。あるとき、ここに数名のカトリック司祭がやって来る。分刻みで時間に追われているに違いない人々である。その中の一人に、バニエがアマンドを紹介したところ、彼は容易にアマンドのもとを立ち去ろうとしない。すっかりアマンドの魅力に魅了されてしまったのである。この障害児は、この神父に本当の心の交わりを回復させ、人間性を取り戻させていた。アマンドは「心の内に秘められたエネルギーを引き出し……人にいのちを与えることができる」のである。(以上、同書、八〇ー八九)頁。
最近ペットブームです。ペットは心のいやしに役に立つと言われています。なにしろお説教を垂れることはありません。互いに内にある弱さを知って良い友人でありたいものです。私たちは誰一人一人では生きてはいけないのですから。

神は見ている

 ヨブは義人と言われています。ローマ人への手紙3章23節には、義人はいない、と書かれてあります。意味が違います。後者の意味でヨブが義人とは言われてはいません。つまり立派な人ではありましたが、それでも罪がないとは言うことはできません。では何の罪があったのでしょうか。高慢の罪です。今回米国は、そして米国民は大変傷付きました。私たち日本に住む者ならば無差別攻撃がどんなに悲惨な結果をもたらすものであるかを知っています。米国による東京大空襲と二度の原爆、少し遡っては朝鮮人による対馬住民ホロコースト。いずれも一般住民が多く殺害されました。心の中に消しがたい傷を残しました。私たちは米国民に同情できます。それでもなお言わなければならないのは、これは神による米国への罰であると。聖書の歴史観を私たちは知らなければなりません。神が愛し、選ばれたイスラエルをその罪の故に罰します。そのときに用いられた国は、エジプト、アッシリア、バビロン、そしてローマでした。では彼らは正しいのでしょうか。いいえ、正しくはありません。彼らはイスラエルを罰するために用いられた道具でしかありません。テロリストたちも悪です。では苦難の中にあるとき私たちは何をすべきでしょうか。悔い改めなければなりません。悲しみつつも、被害者やその家族たちに慰めを祈りつつも、悔い改めなければなりません。そのときに必要なのは神の悲しみを悲しむことです。

 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。(「コリント7:9-11)

 この世の苦しみは肉体の死ゆえの苦しみです。でも神の苦しみは霊の死を悲しむものです。霊の死の対極にある永遠のいのちはイエス・キリストのあがないによってのみ私たちに与えられます。血という計算のできない犠牲により永遠のいのちは用意されました。永遠のいのちなくしては私たちの人生は空しいのです。これを私たちは認識しなければなりません。イエスさまを伝えましょう。

道徳的訓練が必要である

 1章と2章で驚くべき記事を見ます。神とサタンとが話し合っているではありませんか。神曰く、「ヨブは実に立派な信仰者だ!」。サタン曰く、「それは見方が甘い。彼はただ物をくれるから神に向かってニコニコしているだけだ!」。こうして両者合意の上でヨブへの試験がスタートしました。そうです。私たちも信仰が試されるときがあります。あなたはそのようなときにどう反応しますか。私たちは良いものをくれる人にはニコニコ、そうでない人にはブスーッでしょうか。私たちの信仰は人を見ない信仰でなければなりません。神の前に生きるとはそういうことです。人の顔色を見たり、ものをもらえるかどうかで態度を変えるべきではないのです。イエスさまはこうおっしゃいました。
 まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たち(通常無視されやすい人たちのこと)のひとりにしたのは、わたし(イエス、神)にしたのです。』(マタイ25:40)
 それにしても何とレベルの高い要求でしょうか。だれがこれに応えることができるでしょうか。あなたの中の聖霊さまに期待してください。不思議な力があなたを動かします。この不思議な力は天国へあなたを導き入れるだけでなく、地上の生活に輝きを保証します。
 小助川次雄牧師がこのようなことを書いておられます。
 先日、私の知人が、ある老人ホームを訪問したとき、「おじいちゃん、おばあちやん、こんなに長生きできてよかつたね」と語りかけたところ、「何がよいもんか…」と返答されたというのです、私はこの話を間いたとき、これは大変なことだと思いました。そして、なんとかしてひとりでも多くのお年寄りに、しあわせな長生きをしてもらいたいと思わされたのです。それで、世界で一番多く読まれている聖書の、すばらしい教えをお知らせしたいと思いました。(いのちのことば2001年9月号)
 永遠のいのちは今を生きる人の地上の人生を幸せにする力でもあります。

積極思考を忘れてはいけない

とうとうヨブはこの試練に苦難に勝ちます。大きな祝福を勝ち取りました。もし今あなたが苦しみの中にあるならどうかあきらめないでください。神を信じる者には必ず神の祝福がやって来ます。いつまでも苦しいままではありません。逆転があることを信じてください。

 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。(42:10)

 前者が祝福を受けるための秘訣です。ヨブはとても立派な人です。しかし、ヨブ記を読んで分かることは、彼は自分と自分の家族を大事にしている人であることです。良いことではありますが、何かがもの足りないのです。noblesseobligeということばをご存じでしょうか。高貴な者の義務と訳したらいいでしょうか。持てる者にはそれだけの責任があることを教えることばです。イスラエルでは畑からすべてを刈り取ってはいけません。わざわざ少し残して置かなければなりません。貧しい人たちのためにです。持てるようになったのは神のプレゼントですから、神の恵みですから、それを他の人と分かち合うのが愛であり、律法です。聖書の教えです。ヨブはこのことに気付きました。友人のことが彼の心の中に浮かぶようになっていました。思い遣りの心が生まれて来ていました。それを神は見ておられました。こうして苦難のときは過ぎ去りました。あなたに神さまの祝福を祈っています。

神さまの豊かな祝福があなたの上にありますように。



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