151 勇者ギデオン


聖書箇所 [士師記6章39節]

 今回は信仰の勇者ギデオンに学びましょう。ホテルなどに聖書が置いてあるのは国際的な聖書配付団体である国際ギデオン協会の働きによるもので彼にちなんで命名されました。ギデオン、聖書を読む限りでは決して特別の人ではありません。普通の人です。ところがイスラエルの一大危機を救う、時宜にかなった大きな働きをしました。ここが大切なところです。普通の人が大きな働きをする、ここに神さまの大きさが証明されています。彼の信仰から学びましょう。

主の霊の導きに従う

  神さまの導きに従う、と簡単に表現してもいいでしょう。神さまが私たちの日常の歩みを一つ一つ具体的に導いてくださるとしたらなんとありがたいことでしょう。なぜかって、困難な時、判断に迷うときが少なくないではありませんか。当時イスラエル人は困難に直面していました。6章2ー5節をご覧ください。その事情がお分かりになるでしょう。収穫の時期になると横取りされてしまいます。ストレスは溜まる一方。こういうときにギデオンに天使が現れて、「さあ、あなたの出番ですよ」と言いました(ちなみに天使の発言は神さまの発言と同等です)。6章11、12節です。突如として彼には力がみなぎりました。そうでしょうねえ、神さまが味方してくださることが分かったのですから。私たちも同じように神さまの導きを知り、前進することができます。どうすればいいでしょうか。それは、場数であり、練習です。まず仮説を立ててみます。つまり、これは神さまが望む道かも知れない、と仮の判断をしてみること。そしてその方向へ一歩踏み出してみること。結果を見て、これは正しかった、あれは正しくなかった、と判断できます。こういう説明をしますと、ギデオンのように天使が現れてくれればもっと簡単じゃあないかって異議がでそうですね。そう簡単ではありません、人間の性質って、と言うか、罪人の性質って。その証拠に6章12ー18節の両者のやり取りを観察してみてください。決してすなおに、「はい!分かりました。そのようにします」とは応答できていないではありませんか。さて、話を戻しましょう。神さまの導きを知るためにもう一つ大切なことがあります。それは常識。使徒の働き4章13節を見ましょう。

 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。

 偉大なことをした二人の弟子たちは周囲からこう判断されています。普通の人であることと、ふたりがイエスとともにいたことです。前者は人間としての常識を持つことを教え、後者はクリスチャンとしての常識を持つことを教えています。私たちの日常生活においては95%以上は前者の常識で解決できます。たとえばあなたが車の運転席に座ったとします。あなたはこういう祈りをなさるでしょうか。「神さま、今から運転します。道路の右側を走るべきでしょうか、左側を走るべきでしょうか、上から火を下して示してください」。そうはなさらないでしょう。左側を走ればいいのです。それが常識です。ではクリスチャンとしての常識とは何でしょうか。ビジネス書を読みますと、「一週間に一日は休みなさい、一日に朝夕15分は考えたり、瞑想したりして自分を顧みなさい」と書いてあります。これは前者の常識です。クリスチャンとしての常識は日曜日には教会へ出かけ礼拝し、自宅でお祈りをするものです。神さまはそういうあなたにしっかりと導きをくださいます。

 試練を肯定的に受けとめる

 試練を肯定的に受けとめる人は成長する人です。試練は神さまがあなたを愛してそのためにくださるものであるからです。反対に否定的に受けとめる人は残念ながら成長の機会をどぶに捨ててしまいます。否定的に受けとめるとは、ひねくれて理解するとか、復讐の気持ちを持ち続けるとか、あきらめるとか、すぐにカッとなり関係をあっさり切ることなどです。さてギデオンは試練を経験します。8章1ー3節をご覧ください。

 そのとき、エフライム人はギデオンに言った。「あなたは、私たちに何ということをしたのですか。ミデヤン人と戦いに行ったとき、私たちに呼びかけなかったとは。」こうして彼らはギデオンを激しく責めた。ギデオンは彼らに言った。「今、あなたがたのしたことに比べたら、私がいったい何をしたというのですか。アビエゼルのぶどうの収穫よりも、エフライムの取り残した実のほうが、よかったのではありませんか。神はあなたがたの手にミデヤン人の首長オレブとゼエブを渡されました。あなたがたに比べたら、私に何ができたのでしょう。」ギデオンがこのことを話すと、そのとき彼らの怒りは和らいだ。

 なんと身内からの反抗でした。彼は命を賭けて戦っているのにです。エフライム人は戦いに参加もしないのにです。エフライム部族は主流派で、聖所シロも彼らの領地内にありました。一方ギデオンはマナセ族のアビエゼルの出で、マイノリティーでした。明らかに苦しい立場です。しかしこの時彼には心の余裕があって、エフライムを賞賛したのです。これは参考になります。彼らの業績を高く評価した、の意味です。こうして彼は試練に勝ちました。イスラエル人の勝利を確実なものにしました。どうか、大きな祝福は試練に耐えたごほうびであると知ってください。試練から逃げたり、見ないふりをしてはいけません。しっかりと向き合わなければなりません。

 ランナーズハイというものがあります。マラソンをなさる方は体験されているでしょう。苦しさを乗り越えると、とても気持ちよく走れるというものです。大脳から脳内麻薬ベータ・エンドルフィンが大量に発出し、大脳を満たすのです。私も日曜日にはいくつもの教会で説教をして回り、自宅に帰るのが午前様になるのは当たり前ですが、帰って来て、もう一回礼拝をしてもいいなあとたびたび思います。相当ハイの状態になります。とても気持ちがいいのです。最高の気分です。疲れを克服すると至福の時がやって来ます。あなたも試してみませんか。

 常に神と良い関係を保つ

 常に神さまと良い関係を保っていたいものですね。神さまは私の一番の友だちーッ、て。ギデオンはそのあかしに偶像を捨てました。友情のしるしでした。6章25ー29節をご覧ください。あなたは偶像を捨てましたか。そして偶像を捨てていますか。二つの質問をしました。前者は目に見えるもので、仏像などです。では後者は。これがなかなかやっかいです。何でしょうか。自我です。これについては理解が難しいという声を耳にしますので分かりやすく説明しましょう。総論賛成、各論反対ってお分かりでしょうか。互いに愛し合いましょうというスローガンに反対する人はいないでしょうね。つまり賛成。では具体的に「○○さんを愛しましょう」と言われると、「いやあの人だけは愛せない」。これを総論賛成、各論反対と言います。各論に反対する主体が自我です。自我を砕く時大きな祝福が来ます。ギデオンは真に純粋な気持ちで同胞を救おうとします。自我はこのとき砕かれています。ただしそのことに気がつくのが周囲の人々です。人々は「私たちの王になってください、指導者になってください」と懇願しました。8章22、23節をご覧ください。

 そのとき、イスラエル人はギデオンに言った。「あなたも、あなたのご子息も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミデヤン人の手から救ったのですから。」しかしギデオンは彼らに言った。「私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます。」

 自我が砕かれる時、人々はそれを証明してくれるものです。逆に自我が砕かれずに、自分の利益のために行動しているなあと気付かれたときには人々は決して応援しても好意を持ってもくれません。悲しいですねえ。信仰に関して、イエスさまを信じるとか、十字架を信じるとか表現しますが、もう一つの言い方は自我を十字架につける、です。あなたは自我を十字架につけていますか。自我を十字架につけて、神さまのおこころを一番にしましょう。あなたは必ず祝福されます。

 失意のときも人生の一部と受けとめる

 イスラエル人はギデオンの指導のもと、ミデヤン人に向けて快進撃を続けます。しかし再び身内から批判が出ました。物事が成功しそうになると突然張り切り出すのがサタンです。めちゃくちゃにしようとします。こちら側も油断があったりします。
 困ったことにサタンは自己紹介をしません。でも心の小さなすきを狙ってやって来ます。健康管理学の権威シドニー・ジュワールはこう言います。「人間の体を病気にしたいと狙っている細菌を考えてみましょう。もし私がこの細菌の親分であり、仲間の繁栄を願うなら、人生を真剣に生き、幸福な人は避ける。希望を失い、否定的な人間を狙うだろう」。ギデオンも普通の人でした。今回はつい否定的になってしまいました。カッとなってしまいました。復讐を考えたのでした。8章7ー9節をご覧ください。

 そこでギデオンは言った。「そういうことなら、主が私の手にゼバフとツァルムナを渡されるとき、私は荒野のいばらやとげで、あなたがたを踏みつけてやる。」ギデオンはそこからペヌエルに上って行き、同じように彼らに言った。すると、ペヌエルの人々もスコテの人々が答えたように彼に答えた。それでギデオンはまたペヌエルの人々に言った。「私が無事に帰って来たら、このやぐらをたたきこわしてやる。」

 ギデオンにも失敗はあったのです。ここで忘れてほしくないのはそういうギデオンを、失敗をしてしまう、かつ失意の中にあるギデオンを神さまは忘れてはおられないことです。愛してくださっていまする。そうです。私たちの人生の一部に失意のときもあります。失敗して自己嫌悪感に悩むこともあります。でもそれが終わりのときではありません。分析心理学の創始者ユングが一人のクリスチャン女性にこういう内容の手紙を書きました。「あなたがたクリスチャンは立派です。飢えている人を見て、渇いている人を見て、そこにイエス・キリストを見ていますね。しかし私が理解に苦しむのはあなたがたの中にある飢えや渇きにどうして気がつかないのか、です。」これはこれは鋭い指摘です。私はクリスチャンだ、と思う者は高慢になってはいけないでしょう。私たち、そしてだれにも弱さがあります。自分の中の弱さが出る時、その弱さのゆえに失敗もし、失望もし、うつになります。でもこれも人生の一部。神さまはあなたを見捨てたりはしません。私が神学校で教えた生徒に鈴木さんがいます。元やくざで刑務所に5年もいたそうです。20年間ばくちで20億円を稼いだそうです。出所してすぐにキャバレーに行き、そこで出会ったのが韓国人女性で妻になる人でした。不思議にも彼女はクリスチャンになり、彼のために祈り始めました。でも彼は他の女性と関係を持ち家に帰って来ないのです。彼女の祈りは続きました。そうしてついに神さまは働かれたのです。彼女が苦しい時、彼が放蕩している時、神さまは決して彼を彼女を見放してはおられませんでした。
 神さまはあなたがどのような状況にあろうと、あなたを愛してくださっています。

神さまの豊かな祝福があなたの上にありますように。



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