152 赦しについて


聖書箇所 [ルカの福音書7章36ー50節]

 精神病院から男性の患者さんが逃げ出しました。職員たちが探し回り、ついに閉鎖された鉱山で見つけました。彼は深い穴を覗き込みながら、「○○が笑ってる……○○が笑ってる……」とつぶやいていました。職員のだれも病気だからと気にもとめなかったのですが、やがてその穴から人骨が見つかりました。彼が殺したのです。
 夏目漱石の作品に『こころ』があります。下宿先の娘さんをめぐって友人同士が葛藤します。失恋した友人は自殺をしますが、奪った彼も妻の顔を見るたびに友人を思い出し、ついに自殺します。
 もし否定的な過去を全くの白紙にすることができたらいいなあー、犯した罪が犯さなかったことにされればいいなあーとあなたは思うことはないでしょうか。少し前に印刷済みの紙が真っ白になるという機械がお目見えしました。なんとありがたい。でもこれはイミテーション。何の?イエスさまのあがないの。

 「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ1:18)
 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(同43:25)
 わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。(同44:22)

 教会では、キリスト教では救いということばをよーく使います。救いとはギリシア語でソーテーリア、かなり広い意味を有しています。病気が直ること、問題が解決することなど、もちろんもっとも重要な意味は罪が赦されて天国の恵みにあずかれること。さて、救いは何から始まるかと言いますと、それは赦し。今回は赦しについて学びましょう。

すべての人に赦しは必要

 人間であるならどの人にも必要とされるのが赦しです。たとえ偉大と言われる人でも。ノアをあなたはご存じでしょう。創世記9章20節から29節をお読みください。あるとき酒に酔って醜態を曝しました。息子セムとヤペテは後ろ向きに進み、着物をかけました。ある説教者は『愛のマント』と題して説教しました。内容もすばらしいが題名も、うーんとうならせるものがありますね。今の時代、いや、いつの時代でもなのでしょう。他人の欠点ばかり突くような風潮があります。ノアの醜態を言いふらした、もう一人の息子ハムは呪われてしまいます。どんな人にも落ち度はあります。自分を義としているパリサイ人シモンも例外ではありません。もちろんここに登場する不道徳な女性もそうなのですが、シモンだって罪を持ち、赦しは必要です。でも彼に対しては問題点を指摘されなければなりません。というのは赦しには二種類ありますが、彼の場合、両者のバランスが悪い。二種類とは赦すことと赦されること。彼は前者については意識しているのでしょうが、後者については希薄のようです。この宴会ではいかに自分は立派な人間であるか、それを示すちょうど良い機会であると知って張り切っています。そのことのためにこの女性の存在は役に立つと彼は思いました。正しくない比較の世界を活用しています。正しくない比較の世界は、私はあの人ほど悪い人間ではない、と思ったりして優越感に浸ることもあれば、あの人ほど私は優れてはいないと劣等感に悩む世界です。このブランコが私たちを疲れさせます。強いストレスになります。シモンはこういう世界に生きている人です。一方、彼女は赦されることの重みを知って感謝しています。それは彼女を非常に魅力的にしてくれています。彼女に愛をもたらしました。47、48節を見てください。44ー46節とは対照的です。私たちはもっと神さまの近くにいるようにすべきです。それは正しい比較であり、それゆえ正しいコントラストが生まれます。人の近くにいるから、私の方がましだという正しくない比較の世界に捕われ、赦しのありがたみが分からなくなります。多く赦された者が、正確には、多く赦されているという意識を持った者だけが多く愛することができます。なぜなら彼女の行為を見て分かるように、愛することには犠牲が伴うものだから。ちなみに私たちになじみのパウロは自分を「罪人のかしら」(。テモテ1:15)と呼び、ヨハネは「栄光のキリストを見た時死んだように」(黙示録1:17)なりました。神さまを見るとき、私たちにはひれ伏して赦しを求める以外に道はありません。

赦しは神からのプレゼント

 赦しは神による最高の奇跡です。それと同時にプレゼント。プレゼントとは恵みであり、特にこれは他の場所では決して入手できないものです。お店には売っていません。この重大さがシモンをはじめとする、多くのパリサイ人には分かっていませんでした。いや、ペーパーテストでは100点を取れるのです。つまり観念的には、抽象的には分かってはいるのです。でも心のレベルでは十分に理解していません。それを象徴する事件?が聖書に収録されています。

 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(ルカ18:9-13)

 当時は三アンタッチャブルと言われ、それは罪人(ユダヤの世界で聖書に関する基本的な知識持たない人を指します)、売春婦、そして取税人(支配者ローマの犬、同胞からかすめ取る人)。それにしてもパリサイ人の祈り、このような祈りをするなんて普通の神経じゃない!と思いますか。さてテキストに戻りましょう。シモンの宴会の前にイエスさまによりすばらしいことばが語られています。

 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)

 疲れとか、重荷って何でしょう。残業の疲れではありません。律法主義の疲れです。彼女は自分の生活が正しいものであるとは決して思ってはいません。でもそこから抜け出ることができません。正しいと思っていることを行うことができません。そういう時にこのおことばを聞いて彼女は救いを経験しました。そのあかしは48節です。救われていなければ彼女のような態度はあり得ません。つまり救いの恵みのもう一つのすばらしさは思いとことばと行動との一致です。シモンはイエスさまに「どうぞ宴会においでください」とことばをかけ、実際に招き入れる行動をしました。これらは正しい、美しいものではありますが、では彼の心の中の思いは?もうあなたにはお分かりです。決してきれいなものではありません。では彼女の場合は?直接彼女のことばは記録されてはいませんが、38節は彼女の感謝と感動と歓喜とを表現した、良いことばであったでしょう。行動はもうすでに見ました。高価な油を惜し気もなく使う姿には感動を覚えます。そして彼女のこころはもちろん聖められたものです。私たちにとってことばと行動の一致だけでも難しいのですが、思いまで一致させる力が赦しにはあるのです。それには彼女のようにイエスさまのことばをすなおに受け入れることです。ことばとともに聖霊さまが働き、あなたの思いと行動とをコントロールしてくれます。

もう一つのプレゼントは人生の一変

 彼女の人生は一変しました。赦しを受け取る者にはすばらしい人生が待っています。第一に愛の人生。こんなに高価なものを差し出すことができるなんて!私たちは不要になった物から順に手放すものです。最後まで大事な物、高価な物はしっかりと手許に置いておきます。それが生まれながらの私たちの真実の姿。でも愛は犠牲を払い、我慢をし、損をすること。これらを行うことができる者を愛の人と呼びます。第二に自由。今まで彼女を縛っていたものがありました。思いもことばも行動も縛られていました。自分の人生でありながら、自分の思い通りにならないもどかしさ。でももう自由。第三に平和。50節を見てください。私たちにはだれでも平和、そして平安が必要です。平安は環境に関わりなく入手できるものです。ですが、多くの人はこのことについて理解していません。周囲が悪いと言います。平安も幸せもあなた自身のものです。多くの人が自分を守らないでいることに無頓着です。否定的なことばや話を平気で自分の中に入れます。ガードもプロテクターも何にもないのです。これでは平安は得られません。

 さて、自分を一変させる秘訣は何でしょうか。こういう記事がありました。

 敵を愛するー大手商社マンのKさんは、アメリカ駐在中に、軽微な交通事故だったにもかかわらず、被害者から五百万ドルという巨額の賠償を請求された。加入していた保険は最高五十万ドルしかカバーしない。訴訟はすでに六年に及ぴ、その間Kさんは絶えず裁判におびえ、法外な請求をしている原告を絶対にゆるせないと思ってきた。いよいよ陪審審理が行われることになった。『かわいそうなアメリカ人に損害を与えていながら、金持ちの日本人が十分な賠償を拒否しているのはけしからん」という偏見にもとづく陪審員の判定がでるかもしれない。極限の苦しみの中でKさんは、毎日、神に祈り、助けを求めた。ある時、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈リなさい」というキリストのことば(マタイの福音書五・四四)に心を打たれた。これまで自分のために祈ってきたが、相手のためには一度も祈ったことがなかったことに気がついた。自分が相手をゆるせない以上に、相手も自分をゆるせないのではないかと思った。そして「相手をゆるしますのでどうか自分もゆるされますように」と祈るようになった。数週間後、弁護士から驚くぺき連絡が入った。「突然原告から提案があり、たった五万ドルで和解することになった」というのである。Kさんの相手をゆるした気持ちが伝わったとしか思えない。 心の次元を高めるー「ゆるす」ことは、平面的な合理主義から心の次元を高めて自由になることだ。交差点で車が渋滞すると、交通の遅れや騒音、排気ガスなど複雑な問題が出てくる。平面交差の次元でしか考えなけれぱ、問題は解決できない。だが、心の次元を高めて、立体交差にすることを考えれば、一挙に解決してしまう。……「心の次元を高めれぱ、どんな問題も簡単に解決できる」と信じることである。(『月刊サイト』4月号いのちのことば社)

 著者が言う、心の次元を高めるとは、私なりに解釈させてもらえれば、自意識過剰にならないことではないでしょうか。私は赦さなければならない、私は赦します。どうか私が赦すことができるように力をください。私のために祈ってください、どうか私に力をください、と言ったような、私、私、私のオンパレード。もっと高いレベルとは神さまを意識することであり、神さまの思いを意識すること。今、変えられる必要を覚えるあなたに必要なのはあなたの力なのではなく、神さまの力なのだから。


神さまの豊かな祝福があなたの上にありますように。



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