154 あなたはどう答えますか?

聖書箇所 [マタイの福音書8章26、27節]

 私が自動車の免許を得てからもうかれこれ34年になります。今でも思い出すことがあります。試験には実技、構造、法規という三つがありましたが、教習所の教官が、どうしても答えが分からない場合にはこうしなさいという知恵を授けてくれました。鉛筆を机の上に立てて倒れた方が正解、なんていうことではなくて、もっと科学的なものでした。問いに対して4つの答えが用意されていて、どれかを選べという形式でした。まず3番か4番を選択、その後いずれか文章の長い方が正解!というものでした。この知恵のせいであるのかは定かではありませんが、とにかく合格しました。ただし私も分かっていたことですが、全く勉強もしないで受かろうとするのは邪道でしょう。努力したあとで、という注意書きが必要なのは言うまでもありません。その間、試験はありがたいものです。大切なものを身に付けられるようにしてくれるのが試験の効用です。今回はイエスさまからいくつか試験をしていただきましょう。繰り返しますが、あなたを失格させるためではなくて、ぜひとも適切な正当な答えを持ってほしいという彼の願いです。イエスさまは世界で唯一最高の人生の教師なのですから。
 
 あなたはどこに所属していますか?[ルカの福音書2章41ー51節]

 過越のお祭りが終わり、人々はエルサレムを後にしていました。その、ガリラヤに通じる道はごったがえしていました。マリヤとヨセフは12歳になった息子に神殿を見せようとエルサレムに連れて来ていました。その帰り道ふと気がつくと息子の姿が見えません。慌てた両親はエルサレムまでとってかえし、ついに神殿で律法学者たちと議論しているイエスさまを発見しました。その時です。マリヤはごくごく普通の母親でした。叫びました。

 両親は彼を見て驚き、母は言った。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」(49)

 当り前と言えば、当たり前です。親が行方不明の子どもを探していたのですから。しかしイエスさまのお答えは予想外でした。

 するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。(49-50)

 イエスさまのおっしゃりたいことはこうです。私たちは肉の家族のみでなく、霊の家族にも所属しているのだ。霊の家族、それは神の家族、教会です。両方に所属してこそ私たちの人生はバランスの取れるものになります。「ここが私のいるべきところだ!」「私がここにいることは、人々も受け入れてくれている。私はこの家族の一員なのだ!」「ここにいると私はほっとする!」。子どもが帰宅して「ただいまーッ」「おかえりーッ」の呼吸です。心理学者のアブラハム・マズローは5段階欲求説を唱えたことで有名です。第一に人は生理的欲求をする。食べたい、飲みたい、寝たい、という。その次に安全の欲求をする。安定、保護です。そしてさらにその次に来るのが所属と愛情の欲求です。特定の集団に所属したい、そこで愛情を受けたいというものです。神さまは私たちを肉の家族にだけ所属すれば満足できるようにはお造りになってはおられません。併せて霊の家族に所属しなければならないのです。そうして全人的に満足感に浸ることができます。私たちは神の家族である教会を大切にしたいものです。この家族の一員であることに誇りを持って生きて行きたいものですね。お互いに祈り、関心を持ち合い、愛しあう関係をじっくりと育てて行きたいものですね。

 あなたは正しく聖書を読んでいますか?[マルコの福音書12章18ー27節]

 サドカイ派は当時パリサイ派とともに二大教派でしたが、前者がこの箇所において一方の主役です。ある女性が男性と結婚しましたが、子どもをもうけないで亡くなりました。ユダヤの律法によって彼の弟が彼女と結婚しました。しかしまたまた子どもをもうけないで亡くなりました。こうして7男までが子どもをもうけないで亡くなりました。復活した場合に彼女の正当な夫はだれでしょうか、という質問をイエスさまにぶつけました。あなたはどのような印象をこの質問に対してお持ちになるでしょうか。つまらない、あきれた、でしょうか。これはイエスさまをひっかけるための問いです。イエスさまがそうなさっているように、あなたもひっかけるための質問には正面きって答えないで下さい。罠にはまるからです。サドカイ人は復活を否定していました。奇跡など信じなかったのです。もしまともに答えたら、重婚という不道徳か、律法の自己矛盾かのどちらかでしょう。イエスさまのお答えは次のようです。

 人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。(25)

 つまり結婚制度は天国にはないのです。確かに恋愛も結婚もうるわしいものです。幸せを構成する一要素ではあります。でも暗闇の中のロウソクであって、電灯があれば価値は落ちます。どうように、太陽の光があれば電灯もそれにはかないません。そのように結婚制度はすばらしいものですが、天国の中ではロウソク程度の幸せです。イエスさまは、しかし、もっと重要なことをここで喚起しておられます。

 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。(24)
 つまり聖書を正しく読んでいないとおっしゃっています。正しい読み方とは?人を励ます、勇気と希望を与えるものです。サドカイ人はさばくために聖書を使用しています。これは邪道です。正しく使わなければなりません。人に、と言う時、それにはあなたという人も含まれています。あなたにも励ましが必要ではありませんか。聖書には励ましが満ちています。それはあなたへの神さまからの期待です。1960年代にはすでに心理学者はこのことを知っていました。すなわち期待された者は期待に答えようと良い結果を残すと。学校のクラス全員に試験をしました。その後20%の生徒を無作為に選び、彼らに教師はこう言います。「あなたがたはこれからもっともっと成績が伸びます」。やがて試験をして見ると残りの80%の生徒たちよりも良かった、という報告がなされています。20%は成績順に選んだのではなくて、無作為だったことを思い出してください。私たちは互いに期待をすべきです。「あなたはもっともっと成長する、私ももっともっと成長する」、互いにそう言うべきです。そしてもっと重要なことは神さまがそう期待しておられることです。昨年よりも今年、今年よりも来年というふうに。なんと楽しいことではありませんか。考えるだけでも。これからは聖書を読む時に神さまからのあなたへの期待を探すようにしてください。

 あなたはなぜ恐れるのですか?[マタイの福音書8章23ー27節]

 イエスさまはカペナウムの周辺で教えたり、いやしたりと大忙しでした。ますます人の数は増え、疲労は蓄積されて行きました。そこでガリラヤ湖の東岸へ渡ろうと弟子たちとともに漁船に乗り、沖へ出ました。ところが突然突風が吹き、船が沈みそうになりました。そこで弟子たちが叫びました。

 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」(25)

 プロの漁師でありながら、こんなに取り乱すとは相当暴風は激しかったのでしょう。ところで弟子たちはなぜ恐怖心を持ったのでしょうか。それは暴風を凝視したから。私たちはじっと見つめるもののコントロールを受けることと知らなければなりません。感情や意志も大きな影響を受けるのです。はっきりと言いますが、悪習慣に浸かっている者を友人にすべきではありません。悪いことばを自分の耳に聞かせるべきではありません。私は思うのですが、あまりにも多くの人が否定的な粗悪な内容の情報を自分の耳にいとも簡単に入れます。なんと無防備なのでしょう。自分を大切にしようとするならそれは避けるべきです。自分が神さまの大切な作品、そして神さまは私のオーナーであると信じるなら気をつけるべきです。ところで恐怖心はあなたが目標に到達できないようにします。失敗するかもしれないなあーと思えばつい踏み出すことに迷うものです。何が恐怖心を追放してくれるでしょうか。それは愛。愛と言っても愛することです。私は結婚式に出席するのが大好きです。たびたび司式を依頼されますが、うれしいことです。式の中では誓約が注目されます。
 「あなたは、この男子と結婚し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。あなたは真実にこの男子をあなたの夫とすることを願いますか。あなたは、この男子を愛し、これを敬い、これに従い、その健やかな時も、その病む時も、命の限り、この男子に対し堅く節操を守ることを誓いますか」
 これに対して例外なく、きっぱりと「はい、誓います」と答えます。何がそうさせるのでしょうか。愛です。完全には知らない男子であっても愛しているから。愛は恐れを消します。恐れが消えるときあなたは大胆に目標に向かうことができます。そうだ、この問題を解決しよう、この祈りはきっと答えられる!と確信するのです。神さまはそういうあなたを祝福してくださるでしょう。

 神は今どこにいるのですか?[マルコの福音書15章34節]

  そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。(34)

 神は今どこにいるのですか?というイエスさまの叫びです。あなたにもそういう時があるのではありませんか。とても苦しい時、辛い時、悲しい時などなど。イエスさまはまさにそういう経験をしておられます。もちろん十字架はイエスさまがみなさんと私の罪、呪い、さばき、罰を引き受けられたものです。しかしもう1つ意味があります。それは実際にあなたの苦しみを経験するというものです。経験してこそ真に慰めを人に与えることができるのではないでしょうか。イエスさまの慰めには根拠と保証があります。決して口先だけではありません。真に理解することがおできになるのです。今の時代、慰めを求めている人が多いのではありませんか。あなたもそうですか。どこを見ても慰めてほしい人ばかり!!そこで提案。あなたが慰めてはいかがですか。
 妻が夫にこう言いました。「ねえ、あなた。もし私が死んだら私のお墓に高価なお花を持って来てくださるわよね」「もちろんだよ。でもどうしてそんなこと考えるの?」「私、そのことをずうーっと考えていたんだけれだ、私にとっては死んでからもらっても意味がないのよ。だから今少しずつでいいから毎日もらえないかしら?!」
 そうです。慰めてほしい人がたくさんいるのです。そういう人は、神は今どこにいるのですか?と叫んでいます。あなたがあ慰めてあげたら、その人はあなたの中に神さまを見つけるでしょう。そうしてあなた自身も自分の中に神さまがいらっしゃることに気付くでしょう。神さまはあなたの中に今いらっしゃるのです。きょろきょろしないで、あなたの中ですよ。

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