155 人とは何者か?

聖書箇所 [詩篇8篇3ー9節]

 最近私のパソコンにつなげているプリンターが故障してしまいました。早速メーカーに電話で状況を説明すると、すぐに助言をしてくれました。するとなんとあっと言う間に直ったのです。ありがたいと思いましたし、感心もしました。しかしこれは当然と言えば当然です。メーカー、すなわち製作者が解答できなくてだれができるのでしょうか。私たち人間を製作した者はだれでしょうか。もちろん神さま。今回は人とは何者か?を神さまに聞きましょう。哲学的なテーマでもあり、難しそうな題でもありますが、分かりやすくお話しましょう。今回選んだ箇所は人間賛歌と呼ばれます。賛歌というと神さまへと考えますが、ここではそうではなくて、あのすばらしい神さまがお造りになった人間は良い作品だ、すばらしいものだとの意味です。
 
社会の中で生きるもの

 人の中に神のかたち(創世記1:26,27)があります。ただし残念ながら故障していて動作不良を起こしています。もちろん罪と言う名のウイルスのためです。さて神のかたちの起源は神にありますが、その神は三位一体で、父、子、御霊は互いに交わりを持っています。愛しあい、信頼しあっています。これはれっきとした一つの社会です。なぜ社会なのか、それはこうです、人格は社会の中でしか生きられない。「人がひとりでいるのは良くない」(創世記2:18)と聖書は言います。良くないと言われる理由は生きるのが不可能だからです。人格は少なくとももう一つの人格との交わりがないと生きることはできません。そこで人(アダム)のあばら骨を取ってもう一人の人(女性)を作りました。前者はイーシュ、後者はイシャー。似ていますね、でも異質です。同類ですね、ともに人間だから、でも異質。これが社会の持つ性質であり、構成している中身です。私たちは良い社会がどのような内容を持ったものかを知らなければなりません。同類だけれども異質、です。ここに大きな一つの祝福があります。それは成長。分かりやすく一つの例を上げましょう。家族です。一人の男性と一人の女性が出会い、つまり同類でありつつも異質な者たちが出会い、互いに弱さを認識し補いながら、また強さを共有しながら、刺激を与えあい、それゆえに成長します。この二人の間に子どもが与えられたとしましょう。子どもは親によって成長がうながされます。成長した子どもは逆に親(同時に男性、女性、夫、妻としても)に刺激を与え成長させます。親と子は人として同類ながら異質です。これが良い社会のモデルです。でもこのような良い社会を築いて行くためには何が必要でしょうか。それは父性の権威の確立。
 「子供の前に謙虚な父親」のお話を紹介しましょう。

 息子の和男が、スピード違反でパトカーにつかまった。運転免許を取ってまだ六か月ほど。たっぷりしぼられ、青い顔をして家に帰ってきた。さっそく父親から怒声を浴びた。「なんてざまだ」 その言葉に和男は、ムッと来た。「だって、お父さんだって、いつもスピードを出し過ぎて運転しているじゃないか」「なにッ。親に向かって」と、言いつつも父親はドキリとした。自分はただつかまらないだけの話。夜になって父親は、和男の部屋に行った。「お父さんが悪かったよ。私が悪い見本をみせていた。お前にあやまるよ」 父親と息子は机のそばで悔い改めの祈りをした。この事件以来、家族の対話は回復した。(「基督教新誌」)

 ここに父性の権威を見ることができます。もちろん人に本来権威があるのではありません。5ー9節をご覧ください。世界の秩序が明白です。神ー人ー動物(人以外の全被造物を代表)。良い社会には神から委任された権威が必要です。それは父なる神から肉の父親へです。聖書は家庭における教育権を父親に与えています。父親が子どもを教育しなければならないのです。しかし父親の権威は父なる神さまから来ているものです。正しい権威の確立はその社会の成員すべてに希望や安心を与え、成長の保証を与えます。

約束事の中で生きるもの

 日常、約束事は無数にあります。ありすぎてありすぎて、当り前になって、私たちはその存在を忘れがちです。まるで空気のありがたみを忘れやすいように。たとえばレストランに入ったとしましょう。メニューを見てトンカツ定食を注文しました。しかし親子丼が届けられた。これは明らかに約束違反。電車には東京行きと書いてあった。でも横浜へ向かった。これも約束違反。約束が果たされない時に私たちは生活することが事実上不可能になります。反対に果たされる場合には祝福がいっぱいになります。聖書は約束の書物です。日本語では契約と表現されます。旧い契約を記したものを旧(契)約聖書と呼びます。その中身は出エジプト記20章にあります、モーセの十戒。これを守れば、すなわち

 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。(出エジプト20:6)

と約束されています。詩篇8篇6ー8節では物質的な祝福が約束されています。旧約時代は実物教育の時代でしたから目に見えるものを具体的に指し示しました。そのことによりすべての種類の祝福を神さまは約束しておられます。すなわち目に見えるもの、目に見えないもの両方の祝福です。これは新しい契約の時代に実現しました。と言うのは、人間だれも十戒を遵守することができなかったからです。あわれみ深い神さまは新しい契約を別途用意してくださいました。その新しい契約を収録しているのが新(契)約聖書です。どんなものが実際には用意されているのでしょうか。
 インドの聖者と言われたサンダー・シングが、チベットで聞いたこんな話を記しています。ある13歳になる少女がいました。彼女はイエス・キリストについての話を聞いて、イエス様を愛するようになりました。すると彼女の先生であった仏教の僧侶(ラマ僧)は、彼女を懲らしめるために、三日間、部屋に閉じこめてしまいました。水も食物も与えずにです。これは彼女にとって苦しいことではありましたが、そのためにキリストにある喜びを失うようなことはありませんでした。彼女はその間ずっと祈り続け幸せな気持ちになって、イエス・キリストにいい知れぬ歓びを覚えるようになりました。三日たって、僧侶がその独房の中に足を踏み入れると、その少女はとても幸せそうなので、驚きました。少女は、「私はキリスト信者になりました」と言いました。僧侶は、「お前はキリストについて何を知っているというのか」と聞きました。少女は、「あまり知識はありません。でも一つはっきり言えることがあります。わたしはキリストを知っているのです」と答えました、僧侶は、「愚かな娘だ、おまえは文盲ではないか」と言いました、すると、少女はこう答えたのです。「私は、親よりもよくあの方を知っています。私は親を愛しています。親からも愛されていますが、わたしはあの方をよく知っているのです。イエス・キリストは私の中にいてくださり、この世界が与えることも、取り去ることもできない生命を与えてくださいます」。僧侶は「愚かな娘だ」と繰り返すと、また24時間、少女を飲まず食わずのまま監禁しました。それから、また「居心地はどうか」と声をかけました。すると彼女は疲れるどころか、讃美歌を歌い、歓びでいっぱいでした。それからまた、二日、三日と監禁され三日目に戸を開けると、この読み書きのできない少女は、相変わらず歌い続け、驚くばかりの平安と歓喜に満たされていました。それを見て仏教の僧侶は告白したのです。「あなたこそ、私の師匠だ。私は老いて、あなたはまだ13歳の子どもだが、わたしはあなたの弟子だ。あなたは、わたしの持っていないものを持っている」。(『レムナント』)

 彼女の中に神のかたちが回復されたのです。心が新しくされたのです。かつてそのようなことが起きる日がやって来ると預言がなされました。今、もうその日がすでにやって来ています。

 見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ。――彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ31:31-33)

 この預言の実現は次のように新約聖書では表現されています。

 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(Uコリント3:18)

 そうです。あなたは主と同じかたち(神のかたち)に変えられて(ギリシア語でメタモルフォーシス。変貌、変身の意味)行きます。なんとすばらしい祝福でしょうか。この少女の例で分かるように本物は自らを証明する力を持っています。説得されなくても人々はその真正性(ほんもの性)を認識せざるをえないのです。これはいったい何によるのでしょうか。御霊です。イエスさまをどうか救い主としてあなたの心に受け入れてください。御霊の神さまがあなたを内側から変身させてくれます。

ことばの中で生きるもの

 ことばを大切にしましょう。なぜかと言いますと、無から有を生み出すから。

 初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。(これはことば、ロゴス)」と仰せられた。すると光ができた。(創世記1:
1-3)

 初めに、ことば(ロゴス)があった。ことば(ロゴス)は神とともにあった。ことば(ロゴス)は神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできた
ものは一つもない。(ヨハネ1:1-3)

 最近講師としてある団体に招かれました。そこで私は勝利教会の理念について紹介をしました。理念、それはギリシア語でイデア。なんと新約聖書にはこの語は見当たりませんでした。でも同類語としてエイドスがありました。これはかたちと訳されます。イデアは心の中にあるもので、それだけでは他の人には見えません。でも私は出席者の方々にイデアが見えるようにとエイドスに、すなわちかたちにしました。すると共感をいただき私としては大変気をよくしました。これはどのようにしてなされたかと言うと、ことば(これはロゴス)によってです。ことばは重要なものです。コミュニケーションの手段であり、それ自身です。よく親が嘆きます。「こんなに愛しているのに、あの子はなぜ私の気持ちが分からないの?!」。子はどのような心境なのでしょう?きっとこうです。「愛なんて届いたためしがない!」。親は10万円を送金したのに、子は届いていないと言っているのです。どうして?パイプが目詰まりを起こしているのです。これをコミュニケーションが悪いと言います。コミュニケーションはことばによってなされます。神はあなたを愛しておられます。神の心の中にはあなたへの暖かい思いがいっぱいです。でも心の中にあるだけでは私たちには何の恵みもありません。そこで神はイエスを地上に送り十字架に付けられました。このイエスはロゴスです。ロゴスは神とあなたとの間をコミュニケートしてくれます。あなたはこうして神の愛に感動して新しい人生を始めることができます。ところでことばは無から有を生み出すと言いましたが、正しい使い方をすれば良いものを、正しくない使い方をすれば良くないものを生み出します。十分にことばの使い方を考えなければなりません。神さまはあなたにいくつもの賜物を与えてくださっています。ことばはそれを発見してくれ、磨いてくれます。逆に言うと正しくことばを、あるいはもし全く使わないことがあるとすると大きな問題が生じます。なんと肉体寿命の圧縮や精神衛生上(つまりひねくれたりとか)の問題が発生します。

 サリバンのお父さんはアル中で、従って働かないので、お母さんが働きました。でもやがて子どもの手を両手に握りながら過労で倒れ死にました。三才の弟は病院でまもなく亡くなり、サリバンも栄養失調のために生涯の弱視を背負います。孤児院で13才のときに牧師の説教を聞きました(つまりロゴスを聞きました)。そして彼女は決心しました。「私は私よりももっと不幸な人のために生きて行きたい」と。そうして出会ったのがヘレン・ケラーでした。しかしはじめて会った時、彼女は獣のごときだったと言われています。なぜでしょうか。次の文章が教えてくれます。

 人間の子どもには、言語運用能力が先天的にそなわっている。……この機能快をはぱまれた子どもは、いちじるしい精紳的発達の障害をうけ、死に至ることもあるのだ。言語の運用ということは、人間の子どもに内在する能力つまり潜在力であり、それを運用するようになること、つまリ機能させるようになることは、自己の可能性の実現なのであり……生後19ケ月にして視力と聴力を奪われ、唖となりながらもりっぱな学者となったヘレン・ケラー女史の例は……普通の人間についてのわれわれの理解を深めてくれる。……へレンがこのまま唖であったとしたなら憤死したであろう。あるいは自分の内なる欲求を圧殺することに成功し(?)、幼児の知能のままの低能に留まり、生きているだけの植物のような人間になったことと思われる。このヘレンもサリバン先生について言葉を習うようになると、こういうかんしゃくの発作はぴたりととまった。……反対の例がいわゆる「狼少女」の例である。一九二〇年、つまり大正九年にカルカッタの南西約一五〇キロの部落で、狼に育てられた二人の少女がイギリス人の宣教師によって発見された。その年長のほうの少女は人間に捕えられたとき約七歳、年下のほうの少女は約一年六力月と椎定された。年上のほうはカマラ、年下のほうはアマラと名づけられて、この宣教師大妻の注意深い看護の下に育てられたが、年下のアマラのほうは約一年たって死に、年上のカマラのほうはこれから約一〇年生きて死んだ。カマラのほうは死んだときに約五〇語くらい使えるようになっていたと、いう。この程度の言語使用能力しかなければ、人間としての精神的な素質はすべて実現されない。カマラの死因はこれと関係があるのではないかと思われる。ここにあげた狼少女のほかにも、狼に育てられた子どもの例は多く報告されているのであるが、長命だった例はない。(渡部昇一『人間らしさの構造』産能大出版部)

 いかにことばが重要かを教えてくれる文章です。しかし私たちには罪があり、正しくことばを使用するにも限界があります。それを克服するにはみことばとの接触が有効です。私は物心がついた頃から自分には何の能力もないなあと悩んでいました。何の能力もなければ生きて行く理由もないなあとまで思いつめていました。やがて教会に出入りするようになりましたが、それはもしかすると打開策が見つかるかも知れないという淡い期待があったからです。そんなある日会社の仲間に呼び掛けて旅行を何度か企画しました。マイクロバスを徹夜で運転し、スキーや海水浴に案内しました。そしてなんと彼らからはとっても感謝されました。私はこのときにみことばを思い出しました。

 ……主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべき……(使徒25:35)

 つい私たちは受けることを優先してしまうのではないでしょうか。そうして「私にください!ください!ください!」と連呼してしまうのではないでしょうか。でも与えると受けます。受ければさらに与えることができます。こうしてみことば(常に正しい)は私たちのことばを正しい方向へと導きます。 人とは何者なのでしょうか?それは、社会の中で生きるもの、約束事の中で生きるもの、ことばの中で生きるものです。