157 偉大な教師イエス

聖書箇所 [ヨハネの福音書3章1ー3節]

  あるビジネスマンがいつも通る道で一人の乞食に関心を持ちました。まもなくなにがしかのお金を渡すようになりました。でも他の人とは違ったやり方をしました。かならず代わりに何かをもらうのです。「そのボールペンを私に渡しなさい、その手ぬぐいをください」。そしてこうも言います、「君は商人だよ」と。やがて道ばたに乞食はいなくなり、ビジネスマンも彼のことをすっかり忘れていましたが、仕事の都合で、あるビルに入ったところ、一角に小さなお店があって、なんとオーナーをあの乞食がしているではありませんか。ビジネスマンが乞食に教えたことは「働く」ことでした。八起会という倒産会社の社長さんたちを集めた会があります。野口さんが主宰しています。よく聞かれることはこうだそうです。「倒産する会社の社長さんたちの持っている共通した特徴は何ですか」。経済状況も無関係ではありませんから一言で言うのは難しいのですが、あえて言えば「無知」と彼は答えます。つまり知るべきことを知っていないと言うわけです。今回は偉大な教師イエスから質の良い人生のために知っておくべきことをいくつか学びましょう。ただしその前に一つお願いがあります。ニコデモの態度です。彼はイエスさまのもとを訪ねました。夜訪ねました。彼は指導者ですから、多くの人の相談に乗る立場です。でも今や裃を脱いで謙虚に真に大切なことは何かを聞こうとするのです。何を学ぶにも謙虚さがなければ時間とエネルギーの無駄です。語る者も聞く者もともに浪費します。どうぞ謙虚さを持ってお聞きください。
 
心理学者として

 心理学者は人間の心理を詳しく調査します。心理学者としてイエスさまは私たちの内面をよーく知っていらっしゃいます。私たちは何かをするときに、どのような動機でするのでしょうか、たとえば。礼拝をするときなどはいかがでしょうか。ペテロについて考えてみましょうか。

 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:13-16)

 「あなたは、生ける神の御子キリストです。」とはなんと完璧な解答でしょうか。ではペテロは真にそう信じていた?どうでしょうか?もしそうであると、直後のイエスさまのことばはどう理解したらいいのでしょうか。こうです。

 イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。(23)

 人間の心の中はそう単純ではありません。いくつか彼の告白の動機を想像することができます。
 1)そのように理想的に信じていた。
 2)ライバルを出し抜く最高の機会だと判断して、イエスさまが一番喜びそうなことを発言した。
 3)ただ単に目立ちたかった。かっこ良く振る舞った。
 さあ、いずれが動機としては正しいのでしょうか。きっとどれも少しずつ彼の中には存在するのです。でもイエスさまを純粋に信じて行こうとあなたがするなら彼を反面教師として学ばなければなりません。礼拝するとは主イエスさまに100%心を向かわせることであると。これはしかし、難しいのです。そうですね。この戦いを避けてはいけません。この戦いの中であなたは真の平安、喜びなど決してこの世からは得られないものを経験することができるのですから。もちろん葛藤はあるでしょう。たとえば、友人に会うのが愉しみだ!礼拝後の交わりと食事が愉しみだ!このような動機は悪いものではありません。でもあくまでも二次的なものです。どうか今、目をつぶって、自分自身に向けて質問してみてください。「私は礼拝を何の動機でしているのだろうか?」と。あなたが主イエスさまを信じていらっしゃるなら、あなたの中で聖霊さまのお声が響いて来るはずです。そしてそのお声にうなづかれるでしょう、きっと。「そう、そうなんです、私はそういう動機で礼拝をしてるんです」と納得して。同時にあなたの中に平安と喜びが広がっているのに気がつくはずです。

教育者として

 人生の目的を教えていただくことができます。あなたの人生の目的は何でしょうか。あるいは何をあなたはしたいと、あるいはしようと考えて生活をしていらっしゃいますか。

 ……イエスは群衆と弟子たちに……こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。(マタイ23:1-3)

 イエスさまって、かなりストレートにおっしゃる方ですねえ。言われた人たちは怒るに決まっています、これだけのことを言われれば。なぜ、怒る?それは真実を言われたから。一方、イエスさまの態度はーーー

 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。(ヨハネ13:14-15)

 この世界で真の模範でありうる人物はイエスさまお一人です。私もこのみことばを読むと胸が痛みます。自分はなんと言行不一致な人間であるのかと。それにしても言行一致させることはなぜ難しいのでしょうか。それはこうです。通常一般的に見て私たち人間が発することの内容は正しく良いものです。従ってそれがその通り実行されたとすれば、相手は愛されることを意味します。すると言行不一致は、愛する、と宣伝をしておきながら、愛さないことを意味します。これが人間社会の中で問題にならないわけがありません。結論を言えば、愛することの難しさです。ところでもし何か、たとえば物を人からもらうとそれは愛されたことになるでしょうか。さあ、いかがでしょうか。その後請求書が来る場合もありますね。それは商売と言うのです。商売が悪いのではありません。悪くないばかりか良いものであり、正当な経済行為です。良くないのははじめから商売ですと言わなかったことです。お返しを求める事は愛ではありません。商売です。さて愛は目に見えないことが分かりました。
 ここで私の愛読書の一つをご紹介しましょう。サン・テグジュペリの『星の王子さま』。以下は星の王子さまときつねの会話です。王子さまとしては気になる存在のばらが話題になっています。

 バラの花たちにこういって、王子さまは、キツネのところにもどってきました。「じゃ、さよなら」と、王子さまはいいました。「さよなら」とキツネがいいました。「さっきの秘密をいおうかね。なに、なんでもないことだよ。心で見なくちゃ、ものごとは見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」「かんじんなことは、目に見えない」と王子さまは、忘れないようにくりかえしました。「あんたがバラの花をとてもたいせつに思ってるのはね、そのバラの花のために、ひまつぶししたからだよ」「ぼくがバラの花を、とてもたいせつに思ってる……」と、王子さまは、忘れないようにいいました。「人間っていうものは、このたいせつなことをわすれてるんだよ。だけど、あんたは、このことを忘れちゃいけない……(内藤濯訳 岩波少年文庫)

 愛するとは人のために時間を消費することであると言っています。イエスさまはついに十字架の上でいのちを終えられました。時間を消費尽くされたのです。あなたはこの一週間でどのくらい他の人のために時間を消費なさったでしょうか。どうかご自分の胸に手を当てて探ってみてください。もしあなたが「そう言われれば、少なかったなあ」とお考えになるのなら、あなたには救いがあります。なぜ?って。あなたの中に聖霊さまがそう教えてくださったからです。逆に「私は十分に愛した」と答えたなら赤信号です。謙虚さが足りません。聖霊さまがあなたの中に住んでいらっしゃるときあなたには希望があります。聖霊さまはいつもあなたを励まして「今週、いっしょに、あの人を、この人を愛して行きましょう」とあなたを誘ってくださるからです。聖霊さまはあなたにとってかけがえのないエネルギー源です。
 ペテロはどのような人であったでしょうか。

 彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ。」と言った。しかし、ペテロは、「いや、違います。」と言った。それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った。しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言
う。」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。(ルカ20:54-62)

 実はこのことはすでにイエスさまによって預言されていました。

 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」(ルカ20:31-34)

 ペテロを立ち直らせたのはイエスさまのやさしいまなざしでした。私たちは善かれと思い実行し、罪を犯すことがありますね。これは私たち人間の持つ弱さです。弱さをイエスさまが責めることはなさらない、これが私たちの信仰であり、確信です。
 木下順二の作品に『あとかくし』があります。
 寒い冬の夕方、旅人は一夜の宿を貧乏な農家に頼みます。旅人は大変感激しています。「ほんとうにありがとうございます。泊めていただいて」。それが主人の心を喜ばせます、しかし、同時に悲しさもあります。なにしろ貧乏で何一つごちそうすることができないのです。ふと思い浮かんだのが隣の家の軒先きにぶら下がっているダイコン。彼はそーっと家を抜け出し、雪をかきわけかきわけそれを取って来ます。そして旅人にごちそうします。するとさらに旅人は感激します。「泊めていただいただけでもありがたいのに……まあ、なんとおいしいものを……」。主人はそれを喜びつつも罪の意識で悩むのです。外では降る雪が主人の足跡を消して行くのです。これこそが神の愛です。
 あなたの罪は神さまが赦してくださいます。