160 ホセアより愛を込めて

聖書箇所 [ホセア書2章14ー15節]

 今回はホセア書から学びましょう。預言者ホセアの受けた預言が記されています。彼は北イスラエル王国においてその滅亡の40年前から働いています。紀元前8世紀、ちょうどバブルの頃で人々は高慢で偶像に酔っていました。ホセアは「愛とあわれみの預言者」と呼ばれています。それは彼の言動そして生活そのものが「愛とあわれみ」に満たされていたからです。もちろんそれは愛とあわれみの神さまに起源があるものです。この書物からは神さまからの熱ーいメッセージが、それは「私はあなたを愛していますよー」というメッセージがあなたに向けられています。そのメッセージの中身を見て行きましょう。

人の持つ痛みへの同情の思い

 私たちにはそれぞれ人には言えない心の痛みや傷があるものです。だれか友人にでも話せば少しは癒されようものを、話す事ができないのです。理由はいくつかあります。恥ずかしい、もし話せば自分の評価をさげるかも知れない、これからの仕事などで不利になるかも知れないなどなど。言えないことだけは確かです。でも言えないのは苦しいことです。でもだれかに分かってもらいたい、でもだれが?答=あなたをお造りくださった神さま。そうです。「あなたの中に痛みがありますね、私にはあなたのその痛みが分かりますよーッ」と。いかがでしょうか。心が少し軽くなったような気がしませんか。さてホセアってどんな人なんでしょう。田舎で生まれたようですが、驚くべきは彼の家庭の状況です。妻にこどもが誕生して長男にはイズレエルと命名しています(1:3-5)。ここはエヒウが血なまぐさい残虐行為を行った場所の地名です(「列王記10:1-14)。次に生まれた女の子にはロルハマ(1:6)、「愛されない」の意味。さらに生まれた男の子にはロアミ(1:9)、「私の民でない」「私の子じゃない」の意味です。いったいなんという命名の仕方でしょうか。親が彼らを呼ぶときには、それぞれ「残虐」ちゃん、「愛されない」ちゃん、「私の子でない」ちゃん、と呼んだのです。ここにはいったい何が起きているのでしょうか。妻ゴメルに問題がありました。現在母親などによる児童虐待が報道されています。学者は言います。虐待する母親は自らが親から虐待された、と。同じことをしてしまうのですねえ。考えてみれば当然ではありませんか。受けたものしか、すなわち所有しているものをしか他者には提供できないのは。さらにはこういう問題もあります。彼女は次から次へと男を渡り歩きますね。一般的には特に幼児期に異性の親との関係が悪かった人にこういうことが起きやすいと言えます。彼女は適切な仕方で父親から愛情を受けられなかったので代償の愛を求めて男性を追い掛け、手に入れたかなあーと思う頃には自分の方からふってしまい、他の男性に近付きます。同じ事を何度も繰り返し乍ら最終的にはどの男性からも捨てられます。一生愛を吸収できずに自らを苦しめます。このように考えて来ると、彼女に必要なのはさばきの宣告ではなくて、同情とあわれみであることが分かります。ホセアが妻ゴメルをさばかないのは神さまのこころがそうであるからです。彼女はさばきの対象ではなくて、あわれみと同情の対象です。

神を無視する者への熱い視線

 神さまって不思議な方です。あたたかい視線を絶やすことなく人に向けます。だれに向かってそうしていらっしゃるのかと言いますと、ご自分を無視する人へです。こんなことってありうるのでしょうか。考えてみてください。あなたはある人に親切にしました。ところが彼はありがとうの一言も言いません。あなたにすれば、多少ともその親切のために犠牲を払っているのにです。さらには恩を仇で返されることもあるでしょう。そうした場合にあなたは彼をいつもいつもあたたかい視線で見ることができるのでしょうか。スマイルを向けることは可能でしょうか。神さまには不可能はありません。さて、ゴメルはどうなった?ついにすべての男性に捨てられて奴隷市場で売られるはめになりました。なんというみじめさ。奴隷はもはや人間ではありません。農耕作業のための道具でしかありません。人格など認められません。彼女の脳裏を横切るものはいったい何であったでしょうか。「やさしい夫の言う事を聞いていれば良かった……」、「あーあ、こんな、裸にされて、恥ずかしいーッ」などなど。夫はこういうゴメルを見てどう思っているのでしょうか。「何度も注意をしたッ!自業自得だ!おれにはもう関係ないッ!」と突き放した、のでしょうか。いいえ、彼は銀15枚で買い戻したのです。自分の妻をです。3章1ー3節をご覧下さい。大麦はおあいきょうです。銀15枚とは定価の半額です。つまりまともな値がつきませんでした。これもまた彼女には大きな侮辱に違いありません。でもこれこそ自業自得。だれを責めることもできません。自分のして来たことの結果でした。ところでイエスさまは銀何十枚で売られましたか?銀30枚ですね。定価です。ホセアはイエスさまを表していますよ。名前も同じです。「主は救い」を意味しています。ヨシュアも同じです。多少発音が異なるだけで本質的には同名です。ちなみにイエスさまはヨシュア・メシアと呼ばれていました。これはヘブル語(あるいはアラム語)です。あの大工の息子ヨシュア(ギリシア語でイエースース)はメシア(同クリストス)だ、という意味です。ここで知っていただきたいことはイエスさまはあなたを値引きしないで定価で評価してくださるということ。ありのまま受け入れてくださるということ。人間関係でも値引きをすると関係がきまずくなりますね。つまりこういうことです。私たちはだれでも自分はこういうものだ、と考えていますが、仮に分かりやすくそれを10点としましょう。しかし他者は10点とは見てくれないで、8点とか6点とかにしか見てくれません。値引きされた分だけ私たちは傷付き辛くなります。でも神さまはこういう値引きをすることはなさらない。あなたをありのまま受け入れてくださいます。ただしこのことも理解しておいてください。人が私たちを値引きするのは私たちには罪を犯し、失敗をすることがあるからです。でもイエスさまは十字架の上でそれらを廃棄処分にしてくださったことも事実です。この事実のゆえにあなたはイエスさまから値引きされません。イエスさまの十字架のあがないを信じる者には神さまの大きな愛が分かります。神さまはあなたを深ーく深ーく愛してくださっています。

出会いの場の設定への情熱

 神さまはプロポーズ好きです。2章14節には「くどく」という語が登場しています。ゴメルを見捨てないでいつもいつもかつての心躍る瞬間に戻ろうとプロポーズし続けます。神さまはあなたとの出会いの場や時をいくつもセットして下さる方です。そういう意味では神さまって強情な方です。ある人がこういうあかしをしてくれました。「神さまってほんとうに強情なお方ですねえ。でも私も強情でした。結局勝ったのは神さまの強情の方でした」と。こういうことです。教会に行くたびに、聖書を読むたびに「私はあなたを愛しているよ」って心に聞こえた。でもそのつど私は断った。でもついに神さまの強情さに負けた。つまり信仰を持った、と言っているのです。なんとほほえましいあかしでしょうか。これが出会いというものです。出会いには種類がいろいろとあります。そのうちの一つはみことばの与える強い印象です。「これは私に向けられたみことばだ!」と自分で分かる体験です。これをギリシア語でレーマと言い、ヘブル語でホークと言います。人の心に刻まれたみことばです。
 ベートーベンは耳が聞こえなくなりました。音楽家としては致命的な打撃であったに違いありません。ついには自殺を考えました。持つべきものは友人です。アマンダ牧師は彼の友人でした。聖書を読みなさいとの助言を聞いて読み始めました。やがて彼の心にはみことばが刻み付けられて行きました。彼は神さまの愛を確信し、再び作曲する勇気が湧いて来ました。これも一つの出会いです。試練の時は一つの出会いのときです。私たちは謙虚になれるのです。2章15節のアコルの谷は「望みの門」のなるというのは試練が主との出会いの場になって新しい祝福を得るようになると教えています。カトリックのシスターである渡辺和子さんがこういうことを書いておられます。

 フランクルという人のことばに「だれしもが、あとでふり返って、あの苦しみを通らないでよかったかと聞きなおされたら、みんな、いや通ってよかったというであろう」とあります。私もいままで、幼いころ二・二六事件で父を目の前で殺されたときから、いろいろな苦しみとか、矛盾を味わってきました。そして、いまになって、その苦しみを通らなくてよかったか?と聞かれたら、あの苦しみを通ったおかげで、いまの私があると思います、と心から言うことができます。それを通って人は成長するのです。また、自分が受けるべき苦しみではないと思っても、現在自分が苦しむことによって、どこかで、もっともっと、苦しんでいる人の苦しみがやわらげられますように、と祈れるのではないかと思います。

 時に苦しみの中で、愛の神さまはあなたに自らをお見せなさいます。あるいはお声をかけてくださいます。神さまは今もあなたを愛してくださっているからです。あなたはあなたを愛することを決してやめないすばらしい神さまをいつも覚えていなければなりません。