164 こんな教会がいいなあ

聖書箇所 [ヨハネの黙示録2ー3章]

 日本は日出づる国。しかし最近はなにやら黒雲が日本列島を覆っているようで、暗い雰囲気です。そのような時にこそ教会は光、希望でなければなりません。今回は光となり希望となれる理想的な教会について、ご一緒に考えてみましょう。題して、こんな教会がいいなあ。

愛のある教会[2章1ー7節]

 これはエペソ教会が叩き台になっています。はじめの頃には愛が溢れていました(4)。愛が漂っている所ってホッとしますね。あなたを歓迎しますよと言われている感じがするとうれしくなりますねえ。いのちの実(7)を楽しむとはこ
のことです。私たちは社会でさまざまに傷付いていますから、いやしの場や時間が必要です。私の住むさいたま市の家庭には『リビング』という名の地域情報誌が無料配付されます。最近(2002年2月9日)配られた号の第一面には「あなたが市長だったらどんな街にしたい?」というアンケートの結果が載せられていました。上から二つはこうでした。
 ◇ホッとする憩いの街 ◇小さな意見も取り入れるみんなにやさしいさいたま市
 なるほどと私もうなづきました。愛のある教会を作るには三つの行程を踏む必要があります。教会とは私たち自身です。あなたのすべきことは・他者からの愛をすなおに受取る。ただより高いものはないなどと構えていてはいけません。すなおに、そうです、幼子のように、「ありがとう!」の心で受取るようにしましょう。私たちには結局は物よりも愛が大切なのですから。・他者を愛しましょう。あなたの持っている時間、金銭、能力を使って親切にしてあげましょう。これがとっても大事です。それは何かと言うとプラスマイナスを計算しないことです。私は受けるよりも与える方が多いかなあーなんて計算しないことです。むしろ与える分が多い方が幸いです。あなたは受けるから。でももし地上で受けなければ、天国で受けます。何の心配もありません。この三つがあなたの教会を愛のある教会にしてくれます。

イエスを一番にする教会[2章8ー11節]

 これはスミルナ教会が叩き台になっています。イエスを一番にする者にこそ、いのちの冠(10)は与えられます。これは天国のような教会だけが楽しめるものです。そうです。イエスを一番にする教会では天国で起きるようなことが起きます。最近『リバイバル新聞』で興味ある論説を目にしました。牧師っていったい何かという問題提起です。滝元順師の見解です。牧師は牧羊犬だと書いています。一部だけをご紹介しましょう。
 エルサレムから死海方面下って荒野に出ると、多くの羊を見かけます。群れの先頭に立っているときもありますが、時には羊飼いが木の下でのんびりとやすんでいたりします。しかし、群れは羊飼いの設定した方向に進んでゆくのです。なぜでしょうか。羊飼いは必ず、「牧羊犬」と呼ばれる犬を数匹持っていて、違った方向に向って行く羊や、落ちこぼれそうな羊を同じ方向に向わせているからです。ある意味ではこれが「牧師」の役目ではないだろうかと思います。(2002.2.10)
 なぜこのような主張をしているかと言いますと、一つには牧師が教会で一番になることがありうるからです。イエスが一番でなければなりません。牧師に限らず、「私が一番!」と主張する人が少なからずいる場合に教会は天国のような雰囲気からは大きく離れてしまいます。
 アルフレッド・ノーベルに関してはこういう逸話が残されています。少年時代、彼はいつもクラスで二番の成績でした。一番はボギーという子でした。あるときボギーが病気のために長期欠席しました。その間ノーベルは彼にせっせせっせと授業のノートを送り続けました。そして次の試験のときに出て来たボギーはまた一番を取りました。
 今の時代、世の中はギスギスしています。私たちの住む世界に、もっとも身近な世界にこのようなことがあってもいいのでは。そして教会こそこういう話が溢れるにふさわしい場所ではないでしょうか。イエスさまは私に対して良いお方です。すべてを良くしてくださると信じてください。そうすれば「私が!私が!」と言って頑張り過ぎる必要もなくなります。

みことばを大切にする教会[2章12ー17節]

 これはペルガモ教会が叩き台になっています。みことばとは聖書ですが、多くの人から大事にしていますと返答をもらいます。異端からも。たとえば統一協会、モルモン教、エホバの証人なども「私たちは聖書を信じています」と言います。そうは言っても私たちクリスチャンからすればその意味が異なることは言うまでもありません。バラム(14、注1)、ニコライ派(15、注2)はエゴイズムの代名詞として登場しています。エゴイズムに毒されて聖書を読むと私たちは間違えて読むことになります。読む前に自分でその意味を決定しているとはこのことです。聖書は神さまのお考えであり、それはそれは重要なものです。マナとか剣とここでは呼ばれています。前者は食料であり、後者は善悪の判断です。いずれも人間が人間であるために絶対不可欠なものです。どのようにすれば私たちは聖書を正しく読むことができるでしょう。今回の聖書箇所では何度も言われていることですが、聖霊に導かれることです。

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。(17)

 御霊(あるいは聖霊)があなたに正しいその意味を教え、あなたと生活や行動を共有する人々の間にそれを共有させます。つまり同じ思いが与えられます。コンセンサスが生まれ、教会にはいつも平和が保証され、健全な神学に導かれます。

聖い教会[2章18ー28節]

 これはテアテラ教会が叩き台になっています。つねに教会は聖められ続けねばなりません。敵は不品行です。イゼベル(20、注3)も同じ意味で登場しています。彼女は偶像礼拝を推進した王女です。偶像礼拝は神さまに対する不倫です。さて不品行とはギリシア語でポルネイア。意味は明瞭で、「男性が売春婦と関係すること」。派生する意味に、「不道徳な性関係」があります。もし教会にこのようなものが許容されるとしたら、教会は聖さを持っているとは言えないでしょう。大切なことは夫婦が愛しあうことです。そして子どもたちがそれを目で見ることです。良い模範こそもっとも効果的です。百聞は一見にしかず。

心のある教会[3章1ー6節]

  これはサルデス教会が叩き台になっています。19世紀のイギリスのジョン・ラスキンには次のような逸話が残っています。オックスフォード大学で教えていたときのことです。教壇に立つや否や、こう切り出しました。
 「諸君、諸君は何のために経済学を学ぶのか?」
 学生たちはこう答えました。
 「自他の利益と幸福とを計るためです」
 「よろしい、ならば、考えてもらいたい。現在、近くで道が冠水して人々が通行に難儀している。諸君どうしたらいいだろう」
 「私たちが修理をするのがいいと思います」
 こうして学生たちは教室を後にして修理に出かけました。

 日本では松尾芭蕉の話が有名です。
 まだ大家になる前のこと。「吉野の桜が見たい」と彼は旅立ちました。その途中でとても親孝行な娘がいると評判を聞き、立ち寄ることにしました。見るからに貧乏な家、みすぼらしい服装でした。しかし芭蕉は財布(巾着)をひっくり返し、有り金全部をその娘に押し付けるようにして渡して帰って来てしまいました。お金がなければもうこれ以上は旅は続けられません。帰って来た芭蕉を見た人が言いました。「残念でしたね。せっかく桜を見にでかけたのに」。芭蕉はこう答えました。「いいや、桜よりももっと美しい人の心を見た。満足です」
 イエスさまを惜しげもなくくださった父なる神さまのやさしく思いやりのある心を私たちの心としましょう。そのような心がたくさん集まる教会、だれもが、こんな教会がいいなあと言うでしょう。
 祈りつつ、良い教会を建てあげて参りましょう。

バラム(注1)
■バラム (〈ヘ〉bilam,〈ギ〉Balaam)
  カルケミシュの南にあるメソポタミヤの町ペトルの人.占い師で父はベオル.……
(1)物語.バラムはイスラエルの民が約束の地に入ってから,モアブ人との対抗にからんで登場する.モアブの王バラクは,ヨルダンの谷に宿営したイスラエルの民を恐れた.そこで,はるか北のペトルにいる有名な占い師バラムを礼物で雇ってイスラエルをのろわせようとした.主はその招きに応じることを初めは禁じ,後には許した.しかし主の使いがバラムが道を進むことを妨害する.さらに,バラムと彼の乗るろばと主の使いの間の対決を経て,彼は再びバラクのところに行くことを許される.しかし結局バラムはのろうことができず,かえって3度にもわたってイスラエルを祝福したので,ついにバラクの約束した礼物を受けることができずに彼は家に帰った.
(2)……
(3)バラムの性格.民22‐24章は一見バラムを主のみことばに忠実な聖徒として描いているように思われる.しかしバラムに言及する他の聖書箇所は,一貫して彼を神に仕えるより金銭を愛したのろわれるべき俗物として描いている.新約聖書において彼の名は,貪欲(「ペテ2:15,ユダ11節)と異教の祭儀と不道徳にかかわること(黙2:14)の象徴とされている.ある批評家たちのように,これらの背後にバラムに関する異なった2種類の伝承を認めるのはあまりに皮相すぎる.民22‐24章は彼を真に主を信じる聖者としては描いていない.彼が主のことばしか語れないのは,彼の人格のきよさのしるしではなく,彼の俗的欲望に反して働く主の霊感を強調している.民31:8のバラムの最後も彼の真の性格を示すものである.彼はミデヤン人の娘たちをそそのかしてイスラエルを誘惑し,バアル・ペオルを拝むようにさせた(民31:16.参照民25章).このことで彼はイスラエル人に殺されたのである.ヨルダン峡谷のテル・ディル・アラ(スコテ)から発掘されたおよそ前700年のアラム語の断片的なテキストで,バラムは何人かの男神や女神の意志を,不服従な聴衆に伝えている.これは,この先見者の評判が広く知れ渡っていたことを明らかにしている.

ニコライ派(注2)
■ニコライは 〜派 ヨハネの黙示録に出てくる異端の一派(黙2:6,15).特に,アジヤの7つの教会に対して悪い影響を与えた.この派に関する記録は,新約聖書の中では,黙2:6,15に限られる.彼らの教えは,使15:29にある規定を無視し,偶像に供えた物を飲食し,不品行の勧めをする「バラムの教え」に似たものと思われる(黙2:14).旧約聖書で,バラムは神を試みる占い師で,利欲に走り,偶像にささげ物をする者とかかわった者として出てくる(民22‐25章)ことから,ニコライ派は信仰と行為において,自由奔放な,無律法主義的な集団であったようである.使6:5にニコラオという人物が出てくるので,彼が背教してニコライ派を創立したという伝説があるが,この説を裏づける歴史的確証はない.

イゼベル(注3)
■イゼベル
1.(〈ヘ〉izebel) この名はおそらく,バアルの栄誉を表すフェニキヤ名をヘブル化したものと思われる.アグネスのように「貞淑な」という意味とする見方もある.ツロとシドンの祭司である王エテバアルの娘で,政治的同盟のため,アハブと結婚した(。列16:31).彼女はバアルの信奉者として,450人のバアルの預言者と,400人のアシェラの預言者を抱えており(。列18:19),主の預言者たちを迫害して殺した(。列18:4).カルメル山で主が栄光を表され,バアルのむなしさを明らかにした時にも,イゼベルのバアルへの熱心は変らなかった.さらに,彼女は異邦の絶対王権の考え方でナボテを謀殺し,そのぶどう畑を取り上げた(。列21:1‐16).主はエフーの手により,イゼベルに血の報復をした(「列9:7,30‐37).
2.(〈ギ〉Iezabel) テアテラの教会で人々を誤った道に導いていた女(黙2:20).この名は,背教のシンボルとも考えられる.(『新聖書辞典』)