166 もっと受けよう神の愛

聖書箇所 [ルカの福音書7章30ー50節]

 この世界でもっとも重要なものは何でしょうか。お金でしょうか、それとも?愛こそがその答です。なぜ?愛には良いものを生み出す力があるからです。
  1)命。
 世界の創造がなされた時、人間も造られました。神さまは息を吹き掛け、人は生きるものとなりました(創世記2:7)。つまり人間の命を持ったのです。動物の命は寝ては食べ、食べては寝る命です。このような命を持っていても人間ではありません。心があり、喜びや笑いがある、そういう命こそが命の名に値します。こういう命は愛の神さまが与えます。命は愛が生み出したものです。
  2)良好な人間関係。
 はじめの人間たちはアダムとエバ。二人は愛しあっていました。だから争いなどはありませんでした。私たちが幸福なのは最も身近な間柄において愛しあっている時です。最も身近な間柄、それこそ家族です。家族が互いに愛しあっている時、私たちは幸福です。愛は幸福を生み出してくれます。
  3)夢と希望。
 私たちが生活していて夢と希望がないのはなんとさびしいことでしょう。「ああいうふうになったらいいなあー、これが実現したらいいなあー」と明るい顔で語るのはなんとすばらしいさまでしょうか。愛こそがその源です。でもここで確認しましょう。愛と言っても、人間の愛では心もとない。なぜ?人間の愛は心変わりしやすく、その量も少なく、質も低い。だから私たちは人の愛にがっかりさせられます。神の愛が必要です。
 今回の題は、もっと受けよう神の愛。三つのポイントに分けてお話をしましょう。第三ポイントに登場する香油の女こそが本命で、最高に神の愛を受けました。第一と第二ポイントに登場する人々はいわば彼女の前座です。引き立て役です。さあ、もっともっと神の愛を受けるための学びをしましょう。

パリサイ人と律法学者[30ー35節]

  この両者は聖書、特に福音書ではワンセットでたびたび登場します。彼らはともに聖書に精通していたので、つい高慢になっていて、こういうふうに思いがちでした。「私たちは、他の人たちよりも優れている」。もしあなたがそのように思っている人と顔を会わせたとしたら、あなたはどんな気分でしょうか。きっとうれしくはないでしょう。ところでもっとやっかいなことが彼らにはつきまとっていました。彼らは宗教儀式を厳格に守っていました。今で言えば、日曜礼拝を絶対に休まない、奉仕は熱心にする、十一献金を極めて厳密に実行するなどです。こういう種類の人々が、聖書の個々のことばに照らして、人を批判する時に、批判の対象となった人々はとっても辛い思いをするでしょう。パリサイ人と律法学者たちはこのようなことをするのが得意な人たちでした。イエスさまはそれを見抜いてズバリ指摘されたことがあります。

 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。(マタイ23:23)

 いったい彼らには何が欠けているのでしょうか。そうです、愛が欠けています。ところで教会では聖書を読むことを勧めます。なぜでしょうか。正しい読み方をすれば私たちは聖書からしっかりと神の愛を受取ることができるからです。そのことについて説明しましょう。
 イギリスにターナーという風景画家がいます。作品に『夕焼け』がありますが、あるとき年輩の天文学者がそれを見て、「こんな夕焼け、断言するが、あり得ない。存在するはずがないッ!」と言い放ちました。でもターナーはまったくうろたえず、こう応答しました。「でも、こういう夕焼けがあってもいいのではありませんか!」。
 作品には作者の心があります。聖書は神のことば、すなわち神の作品。神の心があり、それを読み取らねば、読んだとは言えないでしょう。神の心、それはやさしさ、あわれみ、それは愛です。もし聖書をこのことを意識して読むならば、あなたの中に神の愛が伝染します。人格とはそういうものです。よく、似た者夫婦と言いますが、いつも一緒にいるから相互に影響を与えあって、互いに人格を共有するようになるからです。どうか聖書の心を読んでください。あなたの中に愛がどんどん入って行くでしょう。

シモン[36ー47節]

 彼はパリサイ人ですが、金持ちです。当時の金持ちは大きな家を持っていましたが、渡り廊下風に家を作り、真ん中に広い四角い庭を配置しました。噴水もありました。さてユダヤ人の金持ちはラビ(ユダヤ教の教師、キリスト教の牧師に相当)をときどき招待しました。イエスさまも同様にして今回呼ばれました。ラビを招待する時には、一つの規則がありました。一切の差別無しに人々を招待しなければならなかったのです。当時三アンタッチャブルと言われた人々とは、特にシモンのような人は決してつきあわないばかりか、近くに寄ることもしませんでした。彼らは、
 1)罪人。ここで言う意味は、聖書について知識を持っていない人を指します。
 2)取税人。ローマ帝国の下請けで同胞から税金を集める立場の人々です。ただし多めに取り、自分の懐に不当に入れていました。
 3)売春婦。
 さて、香油の女は売春婦と思われます(37)が、彼女もシモンの家にやって来ていました。シモンの態度について観察しましょうか。通常、家の主人は客人に対して次の三つをしました。これらは尊敬のあかしでした。
 1)肩に手を置き、キス。
 2)たらいに水を入れて、足を洗う。
 3)頭に油を塗る。
 なんと彼はイエスさまに対してこれらをしていません(44)。彼は心の中でイエスさまを招待しつつも、慇懃無礼、といいますね、決して尊敬はしてはいません。その辺の心の中身は次のように明らかです。

 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。(37-39)

 シモンにはある一つの決定的なものが欠けています。それは、愛!
 ユニセフの大使である黒柳徹子がハイチを訪問した時のことです。一人の売春婦に会いました。なんと12才。6グールド(約42円)で売春していました。思わず彼女は聞きました。「エイズは恐くないの?」と。すると「エイズにかかっても何年かは生きられるでしょ。私の家には明日のパンがないのッ!」と答えました。
 生きるために売春をするしかない、という現実を私たちはどう考えたらいいのでしょうか。おそらくこの子の稼ぎが家族全体を養っているのです。この子をだれが責める事ができるでしょうか。パレスチナにおいても当時女性が一人で生きるすべはほとんどありません。香油の女が不道徳な生活をしていることにどういう事情であったかは分かりません。でも生きるための唯一の選択であった可能性は高いのです。シモンはただ責めるのみ、イエスさまはあわれみと愛を持って接してくださいます。愛、やさしさ、あわれみは良い、あたたかい人間関係を生み出し、かつ育みます。
 ある夫婦の会話。「おーい、お茶!」「お茶は歩いては来ませんよッ!」。
 どちらが悪いのだろうかと詮索するのは止めましょう。ただ両者の間に愛が必要ですね。私たちは傷付いています。幼児期に受けたトラウマだけでなく、毎日毎日人々のことばや状況からあなたは傷つけられているのではありませんか。いやしは愛によるしか方法はありません。私は目をつぶるといつもイエスさまのご臨在を感じます。そしてまるでオロナイン軟膏を一回一回塗るように私の小さな傷に塗ってくれているような感じがします。そうして私はとっても元気になるのです。あなたも試してみませんか。これが愛を受けることです。あなたの心はうきうきし、顔はほころびますよ。緒方貞子も難民キャンプをこまめに歩いた人ですが、私たちの救い主イエスさまは天にいらっしゃったのですが、地上に降りて来てくださいました。そうです。現場を歩く者としてはパイオニアです。私たち人間が罪のゆえに互いに憎み合い、傷つけあっている、病気で苦しんでいるさまを座視してはいられない、そうして自らにその災いを背負い、あなたはそれらから解放されるべきですよとメッセージをくださいます。このメッセージが今あなたに向けられています。このメッセージがあなたをいやします。

香油の女[36ー50節]

 さあ、本命の登場です。彼女が一番愛を受けましたね。なぜでしょうか。彼女は自分の中にある罪を知っているから。しかもそれが無条件でたくさんたくさん赦されたと知っているから。シモンには分からなかった、そのことを、イエスさまは40節以下で教えようとしていらっしゃいます。簡単に説明しましょうか。あなたが100円を友人から借りたとしましょう。彼は後に「その100円、もう要らないよ!君にあげるよ」とあなたに言ったとします。うれしいですか。それほどでも……。では1億円だったら?うれしいでしょう。罪が赦されるとはこれに相当します。シモンはこれを理解せず、女は理解しました。ここにもっと多くの愛を受けられるかの境目、鍵があります。どうかあなたも罪の赦しをもう一度経験してみてください。イエスさまはあなたを責めないで、やさしく受けとめてくださいます。「あなたは罪はもうすでに赦されていますよ」と語りかけてくださいます。弱い私たちは羊に例えられます。イエスさまは羊をあらゆる
危険から守る羊飼い。
 「羊飼いが見た詩篇23篇」をご紹介しましょう。

      羊はひっくり返ると、自分では起き上がることができない。
      そのままにしておくと、猛獣の餌食になってしまう。
      私の毎日は羊が倒れていないかを見ることだ。
      重い肥えた長い毛の羊は一番倒れやすい。
      寝返りをうっているうちに戻れなくなる。
      あわててもがくが、もっと体が回転してしまう。
      さらに横になっている間にガスがお腹にたまる。
      それが膨張すると血に巡りが悪くなる。
      暑い日なら2〜3時間で死んでしまう。
      私は倒れた羊を見つけるとやさしく起こす。
      手足をさすり、血の巡りを良くして立たせる。
      毛が多い羊は、泥やふんやゴミをとり、毛を刈る。
      羊は私がいないと生きていけないのだ。
                                     (フィリップ・ケラー)

 イエスさまからもっともっと愛を受けてください。これが信仰です。

 イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(50)