168 ヘブル人への手紙に見る十字架

聖書箇所 [ヘブル人への手紙全体]

 多くの人がこの手紙には神の愛が示されていないと考えます。それは間違いです。この手紙が一貫して説明していることは十字架の意味です。それは苦しみ、しかも他者のための苦しみ。私たちの人生においては生きているかぎり何かの苦しみはついて来るでしょう。でも十字架の苦しみは他者のためのものです。これを愛と言わずして、何と呼んだらいいのでしょうか。イエスさまが死なれたことは「神の恵み」(2:9、4:16、10:29、12:15、28、13:9、25)、とヘブル人への手紙の記者は表現します。恵みであるなら、それはプレゼント。間違いなく、愛がここにはあります。今回は3つのキーワードで、十字架に示された神の愛を調べて行きましょう。

約束(関連語には、相続と神の子)

 約束と言う語も記者の好きな語です。名詞はエパンゲリアで14回、動詞はエパンゲロマイで4回出て来ます。ちなみに約束とは、あなたに良いものをあげましょうね、というものですから、これは愛です。では何を?種々ありますが、その中で一番のものは天国(9:15、11:6)。あなたには天国が約束されています。さて、この約束は死によって履行されるものですから、遺言(9:15)です。遺言書の効力は死が起きなければ発生しません。記者はヘブル語で契約を表すベリースに対してギリシア語のディアセーケーをあてています。これはギリシア語旧約聖書(セプチュアギンタと言います)で使われている語です。この語は通常の使用でも遺言を表します。遺言の特徴は遺言者とは取り引きができないことです。取り引き可能なものを協定、スンセーケーという語で表します。遺言を日本語では契約という語で置き換えて使用しています。ですから旧約聖書とは旧契約聖書、新約聖書とは新契約聖書の略です。英語でもOLD(NEW)  TESTAMENTと呼びますが、旧(新)遺言書です。受取るなら、それは相続。受取る立場の者はまず子ども。したがって神の子という語が重要です。ここでいわゆる代理人・仲保者が登場します。旧約時代は祭司たちがその役を演じてくれましたが、「さらにすぐれた仲保者(1:4)」が登場したのが、今の時代、すなわち新約時代です。ちなみに「さらにすぐれた云々」という言い回しが好きなのもこの記者です。見てみましょうか。「さらにすぐれたいけにえ(9:23)」、「さらにすぐれた務め(8:6)」、「上位の祭司(7:7)」、「もっとすぐれたいつまでも残る財産(10:34)」、「さらにすぐれた約束(1:4)」、「さらにすぐれた望み(7:19)」、「さらにすぐれたよみがえり(11:35)」、「神が備えてくださるさらにすぐれたもの(11:40)」、「さらにすぐれた故郷(11:16)」です。すべては旧約時代のシステムより優れている、の意味です。ゆえに「さらにすぐれた約束に基づいて制定された」(8:6)と言われます。では旧契約とは何だったのでしょうか。それはモーセの十戒。出エジプト記20章を見てください。第一戒から第十戒までを守れば、あなたは祝福されるという約束です。しかし守ることは不可能。そこで信じるだけでいいですよ、というのが新契約です(8:13)。この新契約の提供する祝福を得るには、「さらにすぐれた仲保者(1:4、8:6)」を私たちは信じなければなりません。信じた者を「神の子」(12:7)と称し、その結果「もっとすぐれたいつまでも残る財産(10:34)」を受けることができます。「神の子」は、「約束のものを相続する」人々(6:12)あるいは「約束の相続者」(6:17)と呼ばれます。ただしこの手紙が書かれた背景があります。十字架で死なれたイエスさまを代理人として仲保者として信じれば、ただで受けられる、しかしそのことに安住しないでくださいというメッセージもしっかりと残されています。

 あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。(10:36)

 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。(4:1)

 当時、だらけた信者がいたようで、この手紙は警告文でもありました。私たちは何が神のみこころか、自分の良心にてらしあわせて分かるはずです。忍耐とともに実践して行きましょう。祝福をしっかりと自分のものにするために。

信仰(の創始と完成、12:2)

 信仰の創始者はイエスさまです。その信仰とは何か、その定義が以下です。

 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(11:1)

 望みつつも、今は手許に持っていないが、それを目に見えるかたちで獲得することだと言っています。なんとすばらしい話でしょうか。これは私たちが忘れてはいけない大事なことです。二つの要素が含まれています。一つは願いごとをしっかりとしていいんですよ、というもの。そのあかしに11章2節以下で実例が紹介されています。たとえばアブラハムもまだ見ぬ地を望み、まだ見ぬ子どもを期待しました。そうしてついに入手しました。あなたにも望みがあるはずです。愛の神さまに大胆に望み、かつアピールしていってください。さらにもう一つは、聖さです。

 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。(12:10)

 あなたは童話『ピノキオ』をご存じでしょう。ピノキオはうそをつくたびに鼻が長くなるという変な重荷を背負いつつ操り人形から人間の少年になります。しかし成長し大人の世界に入って行くには敏感な良心が必要であり、与えられます。ただしジミー・クリケットというコオロギとして現れ、彼が良心に反しそうになると大きな声で注意をします。この物語のテーマは人間であるならば、自分の内面に忠実でなければならないというものです。そうでないとただのロボットでしかありません。イエスさまを心に抱くかぎり、あなたには聖霊さまによって機能する(つまり鋭く働く意味)良心が備えられています。もしあなたが内面の声に悩むようなことがあれば、確かに聖霊さまはあなたの中で機能しています。私たちは聖く生きなければなりません。聖く生きるかどうかは人としての価値を表すものです。たとえば友人に良いことをした時に、真に純粋な気持ちでしたいものです。裏心があって、打算があって、なんてしたくないものですね。さて、このような二つのことを考えつつ、信仰とは、その本質はいったい何でしょうか?それは道具です(6:12、10:38、39)。あなたが前向きに生きるための道具、あなたが希望のものを得るための工具です。しっかりと信仰を持ちましょう。しっかりと信仰を機能させるようにしましょう。しかし、しかしです。私たちは弱く、その信仰が低迷してしまうことがあります。まるでトタン屋根のように波を打ってしまうことがあります。これに対する策が必要ではないでしょうか。あなたが一人で戦うには限界があることを認めてください。まず知らなければならないことはイエスさまがサタンを十字架の死によって(ご復活と併せて)撃ち破ったこと(2:14、15)。このサタンこそがあなたの信仰を不安定にさせる張本人です。いつもスキを窺い、あらさがしばかりしています。イエスさまはあなたの弱さをご存じです。アフターサービスは完璧です。天に帰られたイエスさまは父なる神さまと共同作戦で、聖霊さまを送ってくださいました。あなたが聖霊さまとともに信仰を働かせるなら、あなたの信仰はあなたの人生を祝福する強力な武器となるでしょう。

命(の提供)

 あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」(12:26)

 父なる神さまとイエスさまは共同で(聖霊さまもともに)世直しをしようとご計画なさいました。私たちの世界は罪と汚れに満ちています。争い、憎しみ、妬みなどなど、私たちの心は暗くなるばかりです。さて、神さまの手になるご計画です。ゆえに強力なリーダーシップがあります。今の日本も強力なリーダーシップを必要としています。経済的にも道徳的にも退廃低迷しています。強力なリーダーが登場して、こういう国にして行きましょう、と夢を語ってくれなければ希望はありません。父なる神さまはイエスさまを私たちの世界に送り込み、世直しをなさいます。それが十字架のあがないのわざです。それにしても命を提供するとは思いきったものです。いかに本気なのかが分かろうというものです。命の提供、これは儀式としてではありましたが、旧約時代を通して祭司の仕事でした。特に大祭司の働きは注目されました。

 大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです(5:1)。

 しかし年一回至聖所に入ることが許された(数分間)とは言え、人間の大祭司は大きな、かつ決定的な欠陥を、すなわち罪を抱えていました。続けて読みましょう。

 彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われた方が、それをお与えになったのです。(2-5)

 それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。(9:25、26)

 イエスさまはご自身を傷のないささげものとしてささげられました。私たちすべての人間は罪を持っているという意味ですべからく傷ものです。イエスさまだけが無傷で、完璧なささげものです。父なる神さまはこれを受け入れてくださいました。ここに神さまの怒りは終了しました。

 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。(マタイ27:51)

 もはや従来の人間の大祭司は不要になりました。「さらにすぐれた仲保者(1:4)」であり「上位の祭司(7:7)」であるイエスが、ご自身である「さらにすぐれたいけにえ(9:23)」をささげるという、「さらにすぐれた務め(8:6)」を果たされたからです。こうしてすべては祝福に変わりました。その祝福は二つ。一つはこの大祭司はあなたの弱さを理解しますよ、というもの。

 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。(2:18)

 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(4:15)

 私たちは大きな悩みを抱えています。正しいことであると理性で理解しつつも、それを実行できない、悪いことであると理解しつつもおこなってしまうのです。これは私たち人間の弱さです。しかし弱さはさもはやさばきの対象ではなく、あわれみの対象です。イエスさまはあなたをあわれみとやさしさとでいつも見てくださいます。もう一つは、あなたの罪は赦されていますよ、というもの。あなたは罪を犯される者でもありますが、罪を犯す者でもあります。罪の解決策はたった一つ、それは赦されることです。そのためのいけにえが罪のないイエスさまでした。なんとありがたいことでしょう。

 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(7:25)

 イエスさまが自らの命を提供なさったのはあなたのためでした。以前鋳物工場で起きたことです。一人の作業員が溶鉱炉でに腕を挟まれてしまいました。結局腕を切り落としました。命を救うために。イエスさまはあなたを救うために命そのものをお捨てになりました。