169 復活祭 1(あなたの為の)

聖書箇所 [ヨハネの福音書20章26ー29節]

 はじめに一つ質問させてください。キリスト教の歴史で、あるいはキリスト教会の歴史で一番はじめに祝われた日は何でしょうか?実は、クリスマス、ではないんです。復活祭です。次に小咄。

 植村環(たまき)牧師は植村正久牧師のお嬢さんです。彼女の話。

 父は死ぬ直前になってドイツ語を一生懸命におさらいしていました。「なぜ?今になって」と聞くと、「死んだ後、ルター(有名な宗教改革者、プロテスタント産みの親)と話がしたい。文法が間違えているとまずいからね」。

 復活をほんとうに信じているんですね。あなたは信じていますか。死んだ後にも人生は続きます。今回はあなたの為の復活祭、という題です。イエスさまはご復活なさった、だからどうした?の質問に答えましょう。あなたにとってどんな意味があるのかにお答えしましょう。

あなたの人生への干渉

 もちろん神さまが干渉をなさいますが、人生とは何かを確認しましょう。それは一つの歴史。世界には世界史、東洋には東洋史、日本には日本史があるように、あなたにはあなた史、あなたの自分史があります。神さまはあなたの人生という一つの歴史に干渉をなさることを復活祭は教えます。なぜ、干渉を。もちろん、神さまはあなたを愛してくださっているから。神さまはあなたの親です。親なら、自分の子どもに無関心ではいられないでしょう。口を出したくなるでしょう。親であるなら自分の人生経験の方が子どものそれよりも豊かだし、頭もいいし。聖書に登場する事件などは、いかに神さまが愛をもってイスラエル人に干渉なさったかがよーく分かります。出エジプトのことをまず取り上げてみましょうか。イスラエル人たちはエジプトで苦しい奴隷の生活をおくっていました。「神さま、たすけてーッ!」と叫んだので、神さまは助けてくださって、ついに脱出成功。当時の状況を簡単に見てみましょう。奴隷とは賃金を支払わなくてもいい人たち。こういう人たちをみすみす解放してしまうなんて、王がするでしょうか。でもせざるを得なかったのです。神さまが強権を発動なさったからです。次には脱出後、紅海を目の前にした時のことです。後ろには後悔したエジプト王の軍隊が迫ります。当時のエジプトは超超先進国、その装備にはとても太刀打ちできるものではありません。絶対絶命のピンチ。ここでも神さまの干渉、すなわち、ご存じ、紅海の中に向こう岸へ渡る一本の道ができました。さらには、エリコ攻略。この頑丈な城壁で囲まれた町をどのようにして攻略するか、至難のわざ。でも奇跡が起きました。私は一ヶ月間に3000ー4000キロを車で移動します。各チャペルを巡回しています。それだけ危険を感じることは多いのですが、たびたび、「神さまの干渉の御手が働いた、あー、守られた!」と思える時があります。私たちは内に罪を抱えています。その罪を原因として私たちは罰として地獄に行かなければなりません(ここで一言、注意!イエスさまが人を地獄へ入れるのではありません。私たちの罪が原因ですのでお間違えのないように)。その運命を変えるための干渉、それは神さま以外にはできないことです。もし私たちが謙虚になるならば、日常の生活の中で、神さまの干渉の御手を何回もあなたは感じ取ることができるでしょう。

天国の予告編

 はたして天国って、どんなところなのでしょう。この説明がなかなか難しいのです。天国ツアーを企画している会社でもあればぜひとも参加してみたいものですが、それもかないません。次のみことばを見てください。

 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(Tコリント15:44)

 血肉のからだもあれば、御霊のからだもあると教えています。前者は普段、今、毎日使用しているからだ。でも霊のからだ、もある。では霊のからだとは?それを見てみましょう。

 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」[異本に四〇節「イエスはこう言われて、その手と足を彼らにお示しになった」を加えるものもある。]それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。(ルカ24:36-43)

 ルカの福音書24章はご復活なさったイエスさまが現れなさった場面を収録しています。なかなか信じない弟子たちにデモンストレーションです。新しい世界には魚があることが分かります。魚があれば、お米もあるでしょう。ならばお寿司もあるに違いありません。うれしいですねえー、お寿司のお好きな方々。ところで血肉と霊とはどんな関係なのか、です。たとえて云えば、こういったところでしょうか。以前、物理学と言えばニュートン物理学。しかしアインシュタインが登場して廃れてしまいました。しかしお払い箱という意味ではありません。ただ飲み込まれてしまっただけで、今も一定の狭い範囲において有効な理論です。アインシュタインの相対性理論が包含してしまっただけの話です。でもこの話も分かりにくいかも。簡単に言いましょう。私たちが欲しいなあと思うものはすべてあるという世界です。では今の地上の生き方と何が違うか。地上の人生においては満たされることによって不満が消えることはありません。欲望は限りなく、常に不満を抱えて生きなければならないのが今の私たちの姿です。理由は二つ。一つは血肉の弱さ。もちろん罪に起因します。ちょっと風邪をひいただけで気分(心は)は沈み、信仰にまで影響があったりします。心も同様に弱いものです。最近(2002年3ー4月)、一人の議員が辞職しました。秘書の給料をピンはねしていたこと(これは詐欺罪の嫌疑)、および政治資金規制法違反(これは本人も認めた罪)でした。でも彼女(辻元清美・社民党)は少し前まで、他の議員をきびしく追求していました。しかし自分のことになるとなんとかごまかして逃げようとしています。私はここで彼女を裁こうとしているのではありません。これが罪人の現実、真実の姿であると言いたいのです。くしくもイエスさまはこう言われました。

 さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。(マタイ7:1-5)

 作家のドストエフスキーは、人がもし神さまを認めなかったらどれほど悪いことをするだろうか、を生涯のテーマとしました。『悪霊』という小説のなかには「神さまがいなければ何をしても大丈夫だ」とあります。

 私たちは、罪を持ったままで生きなければならない、この地上の人生には真の希望はないと知るべきです。新しい世界が必要です。それを天国と呼びます。イエスさまが命を賭けなさったのは天国を作るためでした。ご復活なさって、弟子たちにそのすばらしさをかいま見せてくださいました。ハレルヤ!

信仰の実力養成

 ご復活を信じた弟子たちの変わり様はなんともすさまじいものがあります。それを象徴する話が、ノーベル賞作家シェンキビッチ(ポーランド人)の書いた小説『クオ・ヴァディス』の中にあります。ご覧になったでしょうか(映画になっています)、それともお読みになったでしょうか。舞台は紀元64年夏、ローマ。クリスチャンたちが激しい迫害の中にありました、ローマの大火の責任の濡れ衣を着せられて。実は時の皇帝ネロが放火したのです、区画整理をしようとして。そのような中でペテロはローマからの逃亡を信者たちから勧められ、退散します。その途中、出会ったのがご復活なさったイエスさまでした。ペテロは思わず、「クオ・ヴァディス・ドミネ(主よ、どちらへ行かれますか?)」と尋ねます。「あなたが私の民を捨てるのなら、私はローマへ行ってもう一度十字架にかかろう」。このことばに彼は圧倒され、ローマへと戻り、最後は逆さはりつけの刑にあうのです。イエスさまが十字架にかけられる前後、弟子たちは進退に悩み始め、ついには裏切って行きます。かつて漁師だった者たちは漁師へと戻って行きます。人間と言うのは、自分に火の粉が降って来そうになると逃げるものです。例にもれず次々に弟子たちは去って行きます。そういう状況が一変したのはご復活のイエスさまを弟子たちが信じたからです。でもそうは言っても信じるのは難しい。

 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:19-29)

 有名な、「目で見ないと信じないトマス」の話です。でもイエスさまって、やさしい。決して責めない。信じられない人の気持ちを理解しようとするお方。この場面は信じるためのレッスン。信仰とは何か、それは「見ずして信じること」。
 今、あなたは三つのことを信じなければなりません。復活祭、それはあなたが信仰の実力を養う良い機会です。三つとは、まず、イエスさまのご復活。二つ目は天国。そうして最後は?新しいあなた。そうです。もっともっとすばらしく変えられたあなた!信じますか。未だ、見ていませんね。だから信じるのです。信じる時、復活祭、あなたにとって意味のある祝日となります。
 神さまの祝福を祈ります。