170 過越の祭

聖書箇所 [出エジプト記12章14ー15節]

 イスラエルにおいて三大祭ってご存じでしょうか。七週の祭、仮庵の祭、そして今回学びます過越の祭です。三つの中で最も重要なのが過越の祭です。これは出エジプト記の出来事を記念して行われるものですが、いわゆる最後の晩餐は過越の食事でした。イエスさまのご受難とご復活とは過越の祭の期間中に起きたことです。今回は過越の祭について学びますが、これは聖餐式の原型でもありますが、まずは祭りというものはいったい何かを確認しましょう。祭り、それは何かを祭ること。もちろん礼拝の対象です。イスラエル人も私たちも天地の造り主である神さまを祭ります。すなわち、それは神中心の生き方をすることの意志表明、そして信仰告白です。人間にとってまことの神さまを中心にして生きること、これが最も幸せな生き方です。今回、この最も幸せな生き方の特徴を祭りの内容に焦点をあてつつ学びましょう。

男性のリーダーシップ

 聖書では男性のリーダーシップが強調されています。

 すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。(Tコリント11:3)

 下は、イエスさまが12人の弟子たちと座っている絵です。

  (「H BIBLOS」より)

 左端がイエスさまです。ここが家長、父親の席です。通常は金で刺繍した立派な厚めの座ぶとんの上に座ります。イエスさまの右に座っているのはヨハネです。通常、ここは最年少者が座ります。各人の後方にはシーツのようなものが見えますが、クッションが用意されたりして、左ひじを下に、右手で食物を口に運びますが、最年少者は父親の胸に寄り掛かるかっこうになります。これは父親、もちろん男性が、力強い存在でなければならないことを象徴しています。さらにこの祭りを始めるにあたって女性が、つまり母親が家中のパン種(これは罪を象徴)を掃除します。ですが、それが適切になされたかどうかのチェックは最終的に父親がします。つまり父親がゴーサインを出します。父親に求められる資質は家族の成員に対して安心感を与えることです。それだけの指導力がなければいけません。父親、それは父なる神さまを象徴しています。家庭において、私たちの生活する世界においてどのようにしたら男性のリーダーシップは育てられるのでしょうか。一つは男性自身の心構えですが、聖書をよく学ぶことです。子どもは祭りの期間中、このように尋ねます。「なぜ、こんなに食事がまずいの?」、「なぜパン種を掃除しなければならないの?」などなど。これはかつてエジプトで奴隷になっていた時代を思い出すためのものなのですが、それをきちんと説明しなければなりません。教育権は父親にあるのですから。

 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。(申命記6:4-9)

 もう一つは女性も男性を応援しなければなりません。特に、今の時代は男性がリーダーシップを発揮しにくい時代とも言えます。どうか、女性のみなさん、夫を尊敬してください。子どもにお父さんを尊敬するように教育してください(エペソ5:22-24、6:1-3)。

 時々、こういう女性がいます。尊敬に値する人なら、私は尊敬できる。聖書はあなたに夫をチェックしなさいと言っているのではなく、尊敬しなさいと命じています(ピリピ2:3)。リーダーシップは育てられるものでもあります。父親のリーダーシップが確立した家庭に育つ子どもは幸せです。

女性のリーダーシップ

 女性のリーダーシップって、何でしょうか。それは明るさ(ここで、一言。女性が人々を指導するあるいは教育する役割を聖書は否定しておりませんし、実際に多くの女性がそのような意味でリーダーとして活躍しましたので、念のため)。祭りのプログラムは女性が日没とともに点火することで開始されます。 下の写真をご覧ください。

        

(月刊「つのぶえ」2002.3より)(「過越の祭り」L・S・ラセールより)

 どんな社会も、職場にしろ、家庭にしろ、女性が明るいと明るい。だれもがうなづくところでしょう。確かに女性の特技の一つはよく笑うことです。明るさの起源は何でしょうか。メシアを産んだことです。これは名誉挽回に成功したことを意味しています。というのは私たちの世界に罪を引き込んだのはサタンに負けた女性がしたことでした。でもサタンの頭を砕くメシアを産んだのは女性です。これはすでに預言されていたことです。

 わたしは、おまえ(サタン)と女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫(メシア=イエス)との間に、敵意を置く。彼は、おまえ(サタン)の頭を踏み砕き、おまえ(サタン)は、彼(メシア=イエス)のかかとにかみつく。」(創世記3:15)

 サタンはイエスさまを十字架で傷つけはしたが、かえってイエスさまがサタンに勝った、の意味です。このイエスさまは女性が産んだのです。世界に光を持ち込んだ、これは女性の誇りです。

 すべての人を照らすそのまことの光(イエスさま)が世に来ようとしていた。(ヨハネ1:9)

 ちなみに右上の絵、これはメノラーと呼ばれる燭台ですが、真ん中の一本は女性とメシアを表しています。他の六本は罪の世にある光を表しています。たとえ六本すべてが消えても真ん中の一本が明るければ世界にも人生にもなお希望があることを示しています。

 さて女性のリーダーシップ、すなわち明るさが保持されるためには何が必要でしょうか。男性の助けが要ります。こういう記事を目にしました。

 夫から妻への禁句として、

 1 妻が感じていることをくだらないと言ってはならない。 
 2「そんなこと気にするなよ」と言ってはならない。 
 3「一日中何していたの」と言ってはならない。

 ちなみに妻から夫への禁句も紹介されていました。 

 1「男らしくない」と言ってはならない。 
 2 仕事内容に口出しをしてはいけない。 
 3 愛情が疑われるような言葉を使ってはならない。「もうきらい」、「別れた方がいい」、
   「結婚を早まった」などなど。(「リバイバル新聞」2002.3.3)

 一人のゲストが結婚式の披露宴でこうスピーチをしました。「夫婦とは凧と尾の関係に似ています。夫が凧で、妻が尾です。風が吹けば凧は勢いよくあがるが、尾がしっかりしていないとくるくろ回って墜落してしまいます。」

 これを聞いた婦人が隣に座っていた夫に「あなた、私はあなたの良い尾として30年間しっかりと頑張って来ました。なのに、あなた、いっこうに舞い上がらなかったじゃあありませんか」。聞かれたご主人、びっくりして弁明。「確かに君はしっかりとやって来てくれた。でも俺だって怠けていたわけじゃあないよッ。まあまあのところまで来たじゃあないかッ」。そう言いつつ、天を見上げて一言。「うーん、風がなかったからなあ」

 お互いに尊敬と愛情を心がけましょう。

イエスのリーダーシップ

(「過越の祭り」より)

 上の写真は過越の食卓の一モデルです。パン種を入れないパンは乾パンみたいで塩水につけて、西洋からしをつけて食べます。決して美味しくはありません。先に書きましたように。パン種は罪を象徴しています。ぶどう酒は四回に分けて飲みます。一回ずつ、以下の聖句から文章を抜粋し唱えながら口に運びます。

 それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。(出エジプト記6:6-7)

 すなわち、
 1 わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、
 2 労役から救い出す。
 3 伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。
 4 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。

 現代のメシアニックジュー(イエスさまを救い主と信じたユダヤ人クリスチャン)が祝うとき、「救い主はイエスさま」であることと、パンを裂く(下の左の写真)行為は十字架のあがないを意味していることも自明のことです。

(月刊「つのぶえ」2002.3より)    (「過越の祭り」より)

 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。(ルカ22:20)

 ちなみに食卓の上に用意されたもの、一つ一つに意味があります。パセリは命と人生を、卵は神殿を、塩水は人生の辛さを、苦菜はエジプト時代の苦しさを、ハロセットはりんごやはちみつなどおいしいものが含まれていますが、出エジプトの希望を考えれば、辛さも甘い、という意味です。すべての物と行為には意味がありますが、すべての焦点はイエスさまにあてられています。イエスさまこそ罪からの唯一の救い主、私たちの、そして全世界の希望です。食卓(上の右の図)にはパン(マッツア。裂いて食べる。左上の写真)とともに小羊のすねの骨が用意されています。もちろんいけにえとなられたイエスさまを表しています。今、私たちは過越を覚えて、あるいは聖餐式に臨むにあたり何を思うべきでしょうか。ある人が健全な家庭を築くために三つのセリフを提案しています。

 1 ごめんなさい。 
 2 あなたを赦します。
 3 あなたを愛しています。

 これを使いましょう。イエスさまに向けて、
 1 私の罪を赦してください。
 2 私の代わりに苦しんでくださってありがとうございます。 
 3 あなたをいつまでも愛します。

 神さまのお考えにそって私たちは健全な家庭を築くことができますし、かつ健全な家庭が多く集まってこそ健全な社会を作り上げることができます。どうかこのことを覚えてください。神さまのお考えに基づいて生きるとき、私たちにはいつも平安と希望があります。


 参考:以下は[聖書辞典](いのちのことば社)からの説明です。

■すぎこしのまつり 過越の祭り
 「過越」と訳されている〈ヘ〉ペサフの語源の持つさまざまな意味(たとえば「足を引きずって歩く」「過ぎ越す」「飛び回る」「立ち止る」等)から,この祭は,もともとは悲しみ嘆くことを職業にしている人々によって演じられた異教徒の踊りからきているのではないかと推測する学者もいる.しかしそれはあくまでも推測の域を出ず,そのことばの持つ意味としては「過ぎ越す」というのが最も妥当なものであろう.この祭は春にユダヤ人が偉大な歴史的出来事である出エジプトを記念して守った祭であり,3大祭の一つである.元来は牧畜の祭であり,種を入れないパンの祭(農耕祭)とは区別されていたが,後に併合され,歴史的意味合いを持つようになった.旧約聖書においてはしばしば過越の子羊と種を入れないパンが同じ祭に用いられている(出34:25,民28:16‐17,エゼ45:21等)ところからもそのことを知ることができよう.アビブの月(後にバビロニヤ暦でニサンの月と呼ばれる.ネヘ2:1,エス3:7)の10日に祭の準備が始められ,家族の人数に応じて,傷のない1歳の雄の子羊が選ばれ,14日の夕暮にほふられた(出12:6,レビ23:5).その血は家の門柱とかもいに塗られた(後には祭壇にふりかけられ,その土台に注がれるようになった.・歴35:11).子羊の肉はその頭も足も内臓も火で焼かれ(出12:9),その骨を折ってはならなかった(出12:46).その肉は種を入れないパン,苦菜と共に(出12:8)儀式にのっとって食され,それを翌朝まで残しておいてはならず,朝まで残ったものは火で焼かれた(出12:10,34:25).旧約聖書には至る所に神の全能の御手によってなされた奇蹟的な出エジプトのわざが記されている(・サム8:8,・列8:53,詩135‐136篇,イザ10:26,エレ16:14,エゼ20:6,ダニ9:15,ホセ2:15,アモ2:10等).出エジプトの出来事は,イスラエル民族の存在を左右する出来事であり,過越の祭とは神が自分の民のためになしたその偉大なわざを想起させるものである.奴隷からの解放,そして約束の地での定住,これらは契約の神の忠実さのあかしである(ミカ6:4‐5).過越の祭はこれを記念するものであった.そして新約聖書において,この過越の子羊,種を入れないパンは,全人類を汚れと罪から救い出し,罪の拘束と永遠の滅びから解放する,つまり真の自由を与えてくださるイエス・キリストの型としてとらえられているのである(ヨハ6:31‐35,气Rリ5:7).過越の祭,それは神の祝福への感謝の祭(農耕牧畜祭)であると共に,それにもまして神の御手による救いを記念する重要な祭であった.