172 律法のやさしさ

聖書箇所 [創世記24章]

 私は高速道路をよく走りますが、きれいな野山と自然の美しさには感動します。もちろん神のわざ。さて作品には製作者の心があります。神さまの作品の一つである律法について今回は学びましょう。題して律法のやさしさ。

弱者保護

 貧乏な人から利子を取ってはいけない、などの規定があります。

 わたしの民のひとりで、あなたのところにいる貧しい者に金を貸すのなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。彼から利息を取ってはならない。もし、隣人の着る物を質に取るようなことをするのなら、日没までにそれを返さなければならない。なぜなら、それは彼のただ一つのおおい、彼の身に着ける着物であるから。彼はほかに何を着て寝ることができよう。彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いから。(出エジプト22:25-27)

 給料をその日(ユダヤ時間では夕方が一日の終わりとはじめ)のうちに払いなさいなどという規定もあります。

 貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。彼は貧しく、それに期待をかけているから、彼の賃金は、その日のうちに、日没前に、支払わなければならない。……在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。(申命記24:14-18)

 金持ちに対して貧乏人、雇い主に対して使用人、自国民に対して外国人などは弱者です。弱者に対して寛容であるのが人としての、あるいは真の意味での強者としての義務です。この考えはノブレス・オブレッジ(noblesse oblige)と言われます。訳して「高貴な者の義務」。豊かである者、すなわちお金にしろ、物にしろ多くを持っている者にはそれだけで社会的責任があるという考えです。次の規定は自分の畑だからといって、すべてを刈り取ってしまってはいけないと教えます。わざわざ収穫し残しておいて、弱者が持って行けるようにとの配慮です。

 あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを思い出しなさい。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。(同19-22)

 弱者とは本来どういう人たちを言うのでしょうか。一つの説明は周囲のペースについて行くことが難しい人です。
 次はクリスチャン医師柏木哲夫先生がまだ駆け出しで、ある国立病院の精神神経科で研修を受けていた時のお話です。

 40歳の女性が入院していました。カルテには「簡黙症」とあり、医者や看護婦がいかように話しかけても、まったく応答しません。あらゆる治療法が試みられましたが、まったく効果もなく、三年が過ぎていました。彼女はがんとして□を開きません。そんなとき、ぺらぺらめくっていた医学雑誌の中の論文「患者と一緒にいるということ」に目が止まりました。
 「医者にとって、もっとも基本的なことは、診断よりも治療よりも、『患者と一緒にいて、心を交わることである。空間を共有することである」という内容でした。先生は、さっそく自分の机を彼女の部屋に運び込み、毎日数時間彼女のそばで過ごすようにしました。しかし、二ヶ月、三ヶ月と時は経ちますが、彼女からは何の反応もなく、ついに七か月が過ぎました。こうして、この研修期間を終えた先生は、最後に彼女にこう訴えました。「あなたは、とうとう一言も口を開いてはくれなかった。私にとって、今日が最後の日です。もし、間こえているのなら、お願いですから、答えて下さい」。しかし必死の訴えにも、彼女からは何の応答もありません。次の日、関係者らに送られ、病院の玄関でタクシーに乗り込もうとした先生の前に彼女の姿がありました。そしてこう言いました。「先生、ありがとう。さようなら」。三年七か月、一度も口を開かなかった人がついに話したのです。先生はタクシーの中で、涙をとどめることができませんでした。
 神の作品である律法は弱者にやさしいのです。
 
人格の尊重

 モーセが神さまから律法を受取った頃、奴隷制がありました。日本の歴史で世界から見て一つ特異なことは奴隷制がないことです。似たような制度はあっても、奴隷制はありませんでした。それだけやさしい世界と言えます。ちなみに奴隷制において奴隷とは人間ではありません。物、モノです。壊れたら(病気になったり重傷を負ったり、の意)ゴミ箱に捨てても構わないものです。ではなぜイスラエルに奴隷制があったのでしょうか。戦争があり、未亡人も、孤児も生まれました。土地を奪われ、生活の手立てを奪われる者もいました。飢饉も洪水もありました。これが他の人に身を寄せなければならない主な理由です。しかし奴隷だからと言って人格を傷つけるようなことは許されませんでした。

 あなたが彼らの前に立てる定めは次のとおりである。あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。もし彼が独身で来たのなら、独身で去り、もし彼に妻があれば、その妻は彼とともに去ることができる。(出エジプト21:1-3)

 もし、あなたの同胞、ヘブル人の男あるいは女が、あなたのところに売られてきて六年間あなたに仕えたなら、七年目にはあなたは彼を自由の身にしてやらなければならない。彼を自由の身にしてやるときは、何も持たせずに去らせてはならない。必ず、あなたの羊の群れと打ち場と酒ぶねのうちから取って、彼にあてがってやらなければならない。あなたの神、主があなたに祝福として与えられたものを、彼に与えなければならない。あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖い出されたことを覚えていなさい。それゆえ、私は、きょう、この戒めをあなたに命じる。(申命記15:12-15)

 次は虐待禁止の規定の例です。

 自分の男奴隷の片目、あるいは女奴隷の片目を打ち、これをそこなった場合、その目の代償として、その奴隷を自由の身にしなければならない。また、自分の男奴隷の歯一本、あるいは女奴隷の歯一本を打ち落としたなら、その歯の代償として、その奴隷を自由の身にしなければならない。(出エジプト21:26-27)

 私たちは人を人として待遇しなければなりません、つまり人格を尊重しなければなりません。間違えても人に向ってバカとかアホとか言ってはなりません。これらは人格を傷つける表現です。

 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:22)

 あるいは人に強制してはいけません。強制とは自由意志を否定することです。自由意志のないものをロボットと言います。私たち人間はだれ一人ロボットであってはいけません。神により造られた自由意志を尊重する世界は美しい世界です。

 あなたは画家ミレーをご存じでしょう。いくつも作品は知られていますが、たとえば「晩鐘」は44才の時の作品ですが、遠い地平に見える教会の鐘の音が絵の表面を流れて行くような音楽的な絵ですね。これを描いた頃、ミレーは貧乏でした。友人に向けてこう書いています。「今月の家賃をどうやって払おうか……。それよりも子どもたちに何も食べさせてやっていない」。まもなく友人がお金を持って来てくれますが。彼の家は貧農でした。子どもの頃から彼が働かねば一家の生計は成り立たないので、日の出から日の入りまで毎日一生懸命働いていました。あるとき納屋で絵を描いているところを父親が見つけ、その上手さに感動します。父親は言いました、「絵を勉強しに行きなさい」。ミレーは家計のことを考えて躊躇しますが、父親は画家に弟子入りさせてくれました。けれども父親は急死してしまいます。慌てて帰って来たミレーを祖母はこう言って追い返してしまいます。「あなたは神さまからいただいた賜物をしっかりと磨かなければいけません」。結婚してからは生活のために俗受けする絵ばかりを描いていたのですが、妻がミレーに言いました。「あなたの描きたいものを描いてくださいね」。

 美しい、自由意志尊重の世界を一つ紹介しました。私たちは理想を忘れてはいけません。他者の人格を尊重できるようになるために一つの知恵が必要です。それは自分の人生と自分のしていることに誇りを持つこと。黒人差別撤廃運動の指導者マルチン・ルーサー・キングは黒人道路清掃人にこう言います。「ベートーベンが作曲するように、ミケランジェロが描くように、シェークスピアが詩作するように与えられた場所で神の前に最善の生き方をしなさい」。
 自分に誇りを持てる、すなわち自分を尊敬できる人は、他者を尊敬することもできるのです。

正義とフェアの精神

 偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない。悪を行なう権力者の側に立ってはならない。訴訟にあたっては、権力者にかたよって、不当な証言をしてはならない。また、その訴訟において、貧しい人を特に重んじてもいけない。あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。あなたの貧しい兄弟が訴えられた場合、裁判を曲げてはならない。偽りの告訴から遠ざからなければならない。罪のない者、正しい者を殺してはならない。わたしは悪者を正しいと宣告することはしないからである。わいろを取ってはならない。わいろは聡明な人を、盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。あなたは在留異国人をしいたげてはならない。あなたがたは、かつてエジプトの国で在留異国人であったので、在留異国人の心をあなたがた自身がよく知っているからである。(出エジプト23:1-9)

 どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。もし、ある人に不正な証言をするために悪意のある証人が立ったときには、(申命記19:15-16)

 最近、痴漢の嫌疑をかけられ、嫌疑不十分で釈放された会社員が、訴えた女子高生、警察、そして国を訴えました。女子高生たった一人の証言で21日間も勾留されて、失職の不安との戦いもあったと言っています。心理的に大変な苦痛を受けたと推察します。一人の証言で決することを律法は禁止しています。これこそ正義であり、フェアな精神と言えます。
 私たちは互いに正義とフェアな精神を持つべく心掛けるべきです。イエスさまはなぜ律法学者やパリサイ人たちを批判なさったのか。彼らの何を批判なさったのか。それは、律法を一番よく学んでいるはずの人たちの持つ反正義・反フェアな態度でした。

 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、(マタイ23:23-29)

 今日、このみことばをクリスチャンたちこそが心して聞かなければならないでしょう。イエスさまは他者を責める方ではなく、自らに責めを引き受けられた方です。私たちはまず自らが襟を正さなければいけません。

やり直しの勧め

 イスラエルには逃れの町というものが三つありました。間違って殺人を犯した者たちが逃れる場です。

 あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられるその地に、三つの町を取り分けなければならない。あなたは距離を測定し、あなたの神、主があなたに受け継がせる地域を三つに区分しなければならない。殺人者はだれでも、そこにのがれることができる。殺人者がそこにのがれて生きることができる場合は次のとおり。知らずに隣人を殺し、以前からその人を憎んでいなかった場合である。たとえば、木を切るため隣人といっしょに森にはいり、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、その頭が柄から抜け、それが隣人に当たってその人が死んだ場合、その者はこれらの町の一つにのがれて生きることができる。(申命記19:2-5)

 ここには人間は間違いをするものだという考えがあります。しかし間違いによってその人の人生が決定的にダメージを受けることを避けようという考えがあります。これはイエスさまのあがないの思想と軌を一にしています。すなわち「あなたは罪を犯した。でもイエスさまの十字架のあがないによって、復活しなさい、やり直しなさい」というメッセージです。

 次は私が読んで感動した文章です。著者である精神科医・工藤信夫先生先生自身の「感動」の経験談です。 

 その大学を去る前、私は一時帰国した宣教師に代わって「キリスト教人間理解」の講座を一年間担当した。テキストはP・トゥルニエの『暴力と人間』『女性であること』『生の冒険』……などであったが、まず一人の神学生は、『生の冒険』に関して次のようなレポートを提出した。(以下、そのレポート。井上注)
 本書を読んで、最も面白いというか印象に残った言葉は「神の冒険」という概念であり、「神はもっとも高度に冒険精神を持った方」(九〇頁)であるという表現であった。私はこれまで聖書の神を「冒険好きな神さま」だなんて思ったこともなかったので、これは大きな発見であった。……このような神によって造られた人間もまた高度な冒険精神を持っていて当然であろう。人聞の創造そのものが神にとっても大いなる冒険であつたはずだから。このような背景で聖書を読むと聖書の物語が様々な冒険で彩られており、登場人物たちの人生もまた鮮やかな冒険に満ちているのがわかる。(中略)この神が同じように私にも「生きよ、冒険せよ!!」と声をかけて下さる。それで「聖なる働き」に参与する思いを持って、私でも「神とともなる人生という冒険」にあずからせでいだだけるとは、これまで考えたこともなかった視点であり、名誉なことであり、改めて「私の神」を誇りに思う。(『いのちのことば』2002.5)

 いかがでしょうか。あなたも賛成しますか。もし賛成なら少し冒険しましょう。失敗があってもいいではありませんか。やり直しの精神こそ、神の子が持つにふさわしいものです。
 
安息の勧め

 律法には休みことの勧めがあります。安息日や安息年があります。

 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。(出エジプト20:8-11)

 六年間は、地に種を蒔き、収穫をしなければならない。七年目には、その土地をそのままにしておき、休ませなければならない。民の貧しい人々に、食べさせ、その残りを野の獣に食べさせなければならない。ぶどう畑も、オリーブ畑も、同様にしなければならない。
六日間は自分の仕事をし、七日目は休まなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や在留異国人に息をつかせるためである。(同23:10-12)

 キリスト教あるいは聖書の影響を受けた文化環境では安息年(安息日、あるいは一週間に一日休みという制度はすでに一般化していますが)制度がかなり普及しています。たとえば大学などでは、六年働くと翌年は一年間あるいは半年間は休めます。充電期間として用意されています。土地も休耕しなければやがては衰えてしまいます。つまり何も収穫できなくなります。それゆえ休みにはそれ自体価値があります。あなたはいかがですか。休みの本質は何でしょうか。それは通常とは異なるペースにすること。旅行などは良いでしょう。仕事に対して趣味など。どうか休んで下さい。働くだけが人生ではありません。特に心身共に日曜日は休んで下さい。そのためには礼拝をすることと、そして日曜日には会議の類いはできるだけ避けること。

 さて、以上のような律法のやさしさを今日体現した方がわれらがイエスさまです。ザアカイは金もうけでは成功していました。実業家としても。でも心は空しかった。「本当の私はこんなんじゃあない!」という思いも日ごろ持っていました。そうしてついにイエスさまのうわさを聞き付けます。しかしなんと彼が知る以前にイエスさまが彼をご存じでした。イエスさまはおっしゃいます。

 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:5-10)

 あなたが心の王座にイエスさまを迎えなさるなら、あなたの中に律法のやさしさはいつもあります。