177 祈る者の心得

聖書箇所 [詩篇37篇4節]

 中米の伝道者ジミー・ヒューズはマフィアの殺し屋でした。やがてアル中になり、薬中毒にもなって行きました。ついに彼は自殺を決意します。その日午前三時、グアテマラにいるクリスチャンのお姉さんが聖霊さまに促され彼のために祈り始めました。するとまもなく、牧師であるお母さんから電話があり、ジミーのために一緒に祈ろうと言うのです。朝、お母さんは教会で説教していました。突然「ジミーのために祈ってください!」と言い出し、教会あげて祈り始めました。後になって分かったことですが、そのときは、ちょうど口に銃口を当て、引き金を引いたときでした。彼は「死んだ!」と思いました。ところが弾丸はそれていました。そのとき、イエスさまの声が聞こえました、「ジミー、私はあなたを愛しています。あなたのすべての罪を赦します」と。この瞬間、彼は悔い改めます。長い間の家族の祈りは聞かれました。

 このお話の中に効果的な祈りのための心得がいくつか見られます。たとえば、次のみことばで示しましょうか。

 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)
 聖霊と私たちは、……ことを決めました。(使徒15:28)

 さて、今回は効果的な祈りをする者の心得を整理してお伝えしましょう。
 
 どこでも主を認める[箴言3章6節]

  あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

 どこでも、とはいつでもです。どんな場合でも、です。クリスマスクリスチャンということばがあります。サンデイクリスチャンということばもあります。前者はクリスマスのときだけ教会に来、後者は日曜日の礼拝にだけ出席し、他の日の生活ぶりにはクリスチャンらしさはないというものです。もしあなたが祈りに力を与えようとお考えなら、いつでもどこでもどんな場合でも主を認めなければなりません。主である神こそ世界で一番偉い方であり、最高の権威と力とを持つ者であることを。それにはすなおさが一番。聖書人物伝作歌である栗栖ひろみが小学校6年生のときのあかしをしています。

 8月に開かれた隣海学校でのことです。荒れた海で水泳の腕を過信して、ついに大きな波に飲まれ、足が立たないところに流されてしまいました。「助けて!」と叫んだところ、ぶくぶくと沈んでしまいました。「あー、これで死ぬんだー」と思う中で、お父さんやお母さんや友だちの顔が次々に浮かんで来ました。「あー、か、み、さ、ま!」思わず叫んだとき、「私はどこにいてもおまえを守ってあげるよ!」という神の声を聞いたような気がしました。その瞬間、水着の紐をつかまれ持ち上げられました。近くを泳いでいた漁師が助けてくれました。

 きっと、このような絶体絶命のときに、私たちは主を認めやすいのです。それなら祈りに効果的な結果を出すべく、いつでもどこでも主は生きて働いておられると認めておいてはいかがでしょうか。

 主を喜ぶ[詩篇37篇4節]

  主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

 これは挑戦的な勧めです。そうお思いになりませんか。普段私たちが喜ぶには、どのような場合でしょうか。おいしい食事をしたとき、親しい友からすてきなプレゼントをもらったときなどなど。確かにうれしい!でも、主を喜ぶ、と詩篇の作者は言います。これはどんな意味でしょうか。分かりやすいたとえは、有名人に会った、とかでしょうか。もっと分かりやすい例は、恋をしているときでしょうね。一緒にいるだけで楽しい、気持ちがわくわくする!ここで質問、あなたは祈る、すなわち主とともにいることだけであなたの心は舞い上がる、のでしょうか?

 イギリスのジョージ・ミューラ牧師(1805-1898)は祈りだけで孤児院を建て続けた、としてとても有名です。彼はこう述懐しています。

 私は祈りの時間になるといろいろな雑念に悩まされて来ました。子どもたちに今度はどのようなメッセージをしようか、今月の食費はどう工面しようか、などなど。あるとき神は私にこう教えてくださいました。「まず、あなたのたましいを喜ばせなさい!」。以来、私の心は慰められ、励まされ、いつでも希望を持てるようになったのです。
 
 そうです。あなたが祈るとき、あなたはあなたのたましいが安らがなければならないのです。主とともにいるというだけでわくわくする体験が必要なのです。私は牧師になると決断したときから、不思議な経験をしています。次々に新しい魅力的なアイディアが私の心の中に生まれ、しかもそれらは一つ一つ確実に実現して行きます。それゆえに私は主と交わる、すなわち祈ることがもっとも魅力的な時間の使い道となっています。

 従う[イザヤ1章19節]

 もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。

 主はあなたが従順であることを望んでおられます。従順であるならあなたは日常の生活がとても祝福されたものになるでしょう。積極思考で有名なノーマン・ビンセント・ピール牧師はこういうあかしをしています。

 少年の頃、一本の葉巻を拾いました。彼は単に好奇心で火をつけ吸ってみました。味は悪かったのですが、なんとなく大人に成ったように感じました。しかし、なんとお父さんが近付いて来るではありません。急いで葉巻を隠し、お父さんの関心をそらすために、サーカスの公告看板を指差し、「見に行きたいなあ」と言いました。するとお父さんはこう言いました。「不従順の煙がくすぶっている間は、願いごとをしてはいけないよ」

 あなたをこよなく愛する神さまはあなたに良いことをしてくださる方です。どうか何も心配しないで従順であってください。決して裏切られることはありません。家庭生活でもそうです。互いにすなおであるとき、その家庭は平和です。そうではありませんか。まず身近な人々とすなおになる練習をしてみてください。

 野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。(箴言15:17)

 重荷を負う[マタイの福音書11章29ー30節]

 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 わたしの、とはもちろんイエスさまの、です。あなたは重い荷物を背負ってはいませんか。背負うべきでない物はあなたにとって重荷になるはずです。教会に来て、礼拝の中で降ろしてください。あなたを愛してくださるイエスさまがそれを十字架の上で消却処分にしてくださいます。ある人たちは毎日毎日多忙で疲れ果てています。そんなに忙しくしなければいけないのですか。もしかすると不要な多忙さではないのですか。降ろしましょう。休みましょう。そうして、次は?イエスさまの下さる、やさしい、軽い重荷を背負いましょう。それはどのようなものでしょうか。黒人解放闘争を戦ったマルチン・ルーサーキング牧師は黒人の街路清掃人にこう言いました。

 「ベートーベンが作曲するように、ミケランジェロが絵を描くように、シェークスピアが詩作するように清掃をしなさい」

 あなたの現在の務めは何ですか。主婦として、会社員として、親として、学生として。神さまはあなたの現在の状況をご存じであって、それにふさわしい仕事をくださっています。それをしてください。それがイエスさまのくださった荷物です。そして軽いはずです。あなたはそれが好きになるはずです。私ははじめ神さまから牧師になるように言われるまで、言われたそのときまで、牧師(という職、立場)が嫌いでした。でも自分に与えられた重荷と理解したときから、とっても軽い、非常に気持ちの良いものになりました。私は今、ほんとうに、主の導きに感謝しています。私は、ほんとうは、こういうことがしたかったのだと、今心から思えるのです。あなたは今、自分に用意されているものが、私には小さすぎると考えですか。もしそうなら、次のみことばを贈ります。

 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』(ルカ19:17)
 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(マタイ17:20)

  十一献金をする[マラキ3章10節]

 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

 お金って何でしょうか。それは表現手段の一つ。たとえば、あなたが今月10万円の給料を得たとしましょう。それをどのように使うかはあなたの自由です。でもその使い方によってあなたの考え方が分かります。たとえば全部をあなた自身のために使ったとすれば、それがあなたの生き方です。他者に対する関心はほとんどあなたの中にはありません。私たちの生きている社会には種々の困っている人々、弱者と言われる人々がおります。私たちはそのような人々とどのように関わって行くか、それは生き方、人生哲学の問題です。もしあなたが神さまにその中からささげるとき、あなたは神さまとのかかわりを持っていことを、あるいは持ちたいと願っていることを示しています。この聖句では十分の一をささげなさいと勧めています。それはあなたの自由意志の問題です。信仰の世界は個人の世界でもあります。ですからあなたの自由な意志で決定するべきです。でも主の約束は天の窓を開いてあなたを祝福すると言います。
 十一献金をすることから得られる恵みはもう一つあります。それは、今月はどのような割り振りでお金を使おうか、と考え祈る中で養われる自制心です。この自制心は愛と極めて近い関係にあります。
 
 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁じる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。(ガラテヤ5:22-24)

 ギリシア語では列挙一番目が文字通り一番の価値で、列挙最後尾が二番目の価値高さです。したがって愛と自制心とは双子のような関係にあります。愛のある人は自制心のある人であり、自制心のある人は愛のある人、と言えます。(ただし、御霊の実は単数形なので、これら9つを互いに切り離すことはできません)

 さて、結論に行きましょう。結局は主を、神を信頼するかどうか、が鍵です。アウグスチヌスは西方最大の教父ですが、若い頃は大変な放蕩をしていました。当然お母さんの悩みは深く、毎日が涙、涙でした。後になり、彼が知ったことはこうでした。

 お母さんは司教のもとに通いつめ、「先生、先生から、私の息子をさとしてください」「先生、あの子に罪を教えてやってください」「先生、お願いだから、お説教してやってください」。さすがに司教もきつくお母さんに言いました。「もう、いい。これほど母親が涙を流し、祈っているのだから、息子が滅びるはずがない!」

 あなたのお祈りが祝福されますように!