178 正しく決断するには

聖書箇所 [使徒の働き16章6ー10節]

 密林の聖者と呼ばれ、ノーベル賞を受けたシュバイツアーは近くの公園を散歩するのが楽しみでした。その公園には一つの像があり、それは裸の、肩を落し、うなだれた黒人でした。彼はその前を通るたびに「神さま、私はこの人たちのために何かできないでしょうか?」と祈りました。21才のとき、家の中の壁に架けられているイエスさまの絵に朝日が差し、キラッと輝きました。彼ははっとしました。「そうだ、私は、イエスさまのように他の人たちのために生きる者になろう」。そう決心した時、彼の心の中をさわやかな風が吹き抜けました。シュバイツアーが自分の生き方を決断した瞬間でした。愛の神さまは、私たち一人一人にすばらしい計画を用意していてくださっています。そうです。あなたの人生にはすてきなプランが用意されています。ところで人間の側にすべきことはあるのでしょうか。もちろんあります。そうでなかったら、ロボットです。自由意志を持っている私たち人間の責任はその自由意志をもって正しく決断することです。これがあなたの務め。もちろん、あなたは祈ることをご存じです。一生懸命に祈ります。どうか祈ることをやめないでください。でもその祈りができるだけ効果的なものになるように、との願いを込めて正しく決断するための知恵を学びましょう。

 聖書[詩篇119篇105節]

 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

 もし、あなたに神さまのおことばが与えられるとき、もはや議論の余地はありません。懐中電灯で足下を照らし、ころばないように導くのがみことばの働きです。あなたはその方向へ進むことを決断すればいいのです。さてテキストはパウロの第二回伝道旅行における歴史的な一場面です。歴史的とはキリスト教がヨーロッパに伝わろうというときであるからです。パウロははじめ東の方に行こうと考えていました。しかし、主は西の方へと導きます。マケドニヤ、今のギリシア、つまりヨーロッパです。きっと中にはこのように言う人々もいるでしょう。まだ同胞に十分に福音を伝えてもいないのに、なぜ新しいところへ行こうとするのですか。実は多くの宣教師がこのような質問を受けます。まだ日本では救われていない人々が多いのに、なぜ外国へ行くのですか。パウロの決断の根拠は次のイエスさまのおことばです。

 イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。(マルコ16:15)

 不思議な決断をさせる聖書は、実際、不思議な書物です。イスラム教の『コーラン』はA.D.7世紀、『古事記』や『日本書紀』はA.D.8世紀なのに、聖書の中の一番古いモーセ五書はB.C.16世紀です。以降1600年間にわたり約40人という生まれも育ちも違う人々の書いたものは統一したテーマでまとめられています。聖書は決して科学の教科書ではありませんが、地は丸く、宙に浮いていることを明らかにしています(ヨブ26:7、イザヤ40:22)。当時は地球について人々は次のように考えていた時代です。たとえば、古代インド人は、地球は象の背中に乗っており、象は亀の背に乗っており、亀はコブラの上に乗っていると言うのです。でもコブラが何に乗っているかは分からないのです。理解してほしいことは聖書は他のいかなる書物とも異なり、天地の創造主なる神さまに起源があることです。どうか聖書におおいに親しんでください。あなたの人生の成功に向けて光を与えてくれるでしょう。
 中村謙三さんは強盗に入って捕まり、無期懲役の判決を受け、刑務所に入れられました。野獣のような彼は刑務所の中でもたびたび事件を起こし、独房には何度も入れられました。看守の中に熱心なクリスチャンがいて、彼に次のみことばを教えました。

 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」(Tテモテ1:15)

 なんと彼はこれに大変な感動を覚え、聖書を徹夜しながら二週間で読み終え、イエスさまを信じました。彼の心の中にはことばにできないほどの平安があり、すっかり変わった様子は周囲の囚人たちを驚かしました。復讐だと言って、かつて自分が殴った相手から殴られますが、彼の中に生まれた平安と喜びは消えることがありませんでした。彼の心の中には支えとなるみことばがありました。

 わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

 信仰を持ってから一ヶ月が経った頃、全身入れ墨の男が「ケンちゃん、おれが悪かった。おれもケンちゃんのようにキリストを信じて生まれ変わりたい」と話しかけました。こうして刑務所の中で二人の伝道が始まりました。謙三さんが出所するときには60人がクリスチャンになっていました。その後、牧師になり、また結婚しました。奥さんのお父さんもお兄さんも警察署長でした。すべてはみことばから始まったことでした。

知性[箴言3章21ー26節]

 わが子よ。すぐれた知性と思慮とをよく見張り、これらを見失うな。それらは、あなたフたましいのいのちとなり、あなたの首の麗しさとなる。こうして、あなたは安らかに自分の道を歩み、あなたの足はつまずかない。あなたが横たわるとき、あなたに恐れはない。休むとき、眠りは、ここちよい。にわかに起こる恐怖におびえるな。悪者どもが襲いかかってもおびえるな。主があなたのわきにおられ、あなたの足がわなにかからないように、守ってくださるからだ。

 このテキストの10節にはこうあります。

 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

 注目してほしいのは「私たち」です。これ以前は「パウロとバルナバ」とか「彼ら」と表現されています。このときからルカが一向に加わったのです。なぜ?という質問には学者たちはパウロの持病(一説には、てんかん)のせいだろうといいます。ルカは医者です。十分にうなづける説明です。確かにこうあります。

 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、トロアスに下った。(16:7-8)

 ビテニヤ地方は険しい山地であり、トロアス(トロイの木馬で有名なトロイのこと)という町に向った方が病気のある人には良かったでしょう。しかし、もう一つ重要なことがあります。医者、それは自然科学者。事実を観察することに長けています。ルカの福音書と使徒の働きはともにルカの手になる前編と後編です。淡々と観察された事実を書き連ねています。これは知性の働きです。その知性は神に起源があります。もし正しく決断しようとするなら知性を活用しない手はありません。知性を活用するとは常識的な判断をせよ、という意味です。常識、ほんとうに大切なものです。たとえば、経験豊かな人に聞く、良心に尋ねる、自分には賜物があるかなどなど。
 シュバイツアーはアフリカに医療宣教師として行くことを決意した時には、神学者として、その方面の賜物は十分持ち合わせていましたが、医学については持ち合せていませんでした。ではこの決断は間違いだったかというとそうではありません。彼は午前中大学で神学を講議し、午後には大学の医学部で医学を学んだのです。30才から36才迄学び、資格を得ました。私たちは神さまから立派な知性をいただいているので、それを使い、考えることをしなければなりません。物事を客観的に見るようにし、冷静に観察する、そして判断をしなければなりません。ときに知性は私たちを内省的にします。これも重要なものです。

 ふくろうが東に向って猛スピードで飛んでいました。それを見つけた鳩が尋ねました。「どうした?いつものきみに似合わず、いそがしそうじゃないか!」。ふくろうは肩を落しながら、「もうこちらにはいられない」。「どうして?」「ここの人間たちはぼくの泣き声がきらいなんだ。だから西の方へ行くんだよ」「そうか、それなら、やめた方がいいよ。東に行ったって、同じことさ。嫌われたくなかったら、自分の泣き声を変えることさ!」

 似たような話が『徒然草』にあります。良覚僧正という坊さんがいました。位は高いのですが、腹黒いことが世間にはよく知られていました。そのため人々は決して本名では呼ばずに榎(えのき)僧正と呼んでいました。彼の寺には一本の大きな榎があったからです。しかしそれが僧正にはしゃくに触るのです。そこで榎を切ってしまいました。しかし根と株は残っていたので切株僧正と人々は呼び始めました。よしっというわけで今度はその切株を掘り起こしてしまいました。するとその後に雨がたまり小さな池になったので、人々は堀池僧正と名付けました。

 先の寓話と同じことを教えているでしょう。好かれたいのなら自分を変えること。知性を働かせて、自分の中に不適切な部分、良くない部分、間違っている部分などを冷静に見つけるべきです。完全な人などいるはずがないのですから。反省が悔い改めることへとつながるなら、それは神さまに聖められます。イエスさまの血のあがないで聖められます。、聖い者は神さまに近く、神さまに近い者には正しい判断が期待できます。

 直感[使徒の働き16章6ー7節]

 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。

 パウロたちが聖霊さまから発せられた情報を確かに受信できたことが分かります。直感です。肉の直感もありますが、これはエゴイズムから発し、周囲の人々は煙たい顔をしているのでそれとすぐに分かります。大切なのは霊的な、すなわち正しい直感です。それは聖霊さまから来るもの。それゆえに、大変な祝福ですが、非常に大きなエネルギーが伴います。私は現在も大宮市(正確にはさいたま市)に住み、大宮チャペルにて二回の説教をし、午後には福島県と栃木県にまで説教しに出かけます。帰って来るのは午前さま。なぜ?聖霊さまからの直感が起源です。私には必要なエネルギーが与えられ、同時にそれを使えている自分自身を見て、私は喜びます。それがまた新しいエネルギーを私の中で生産してくれます。神さまのために働いている、働ける喜びがとても大きいのです。もしあなたが聖霊さまに起源のある正しい直感から決断をし、実行に移すなら、あなたには限りなく必要なエネルギーが与えられるでしょう。成功するまでエネルギーは与えられるでしょう。いや、その後でさえも。では肉的か霊的か、すなわち正しくないか、正しいかはどのように見分けることができるでしょうか。それは平安です。

……私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。(16:10)

 確信とは内に生まれた平安です。この確信は、結局、福音を西へ、西へと伝え、ついには日本に到達させました。神さまのご計画でした。あなたも一度決断してみてください。もしあなたの中に平安があるならそれは聖霊さまからの直感でしょう。あなたを祝福するための導きです。

 扉が開かれる[使徒の働き16章26節]

 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。

 テキストをさらに読み進めて行くと、上記の表現に出会います。パウロたちは捕われてしまいました。でも神さまはそこから出て行きなさいとのお考えです。そのためにこうして扉は開かれました。正しい決断をしていると、計画成功に向けて次々に扉は開かれます。田原米子さんは自殺を謀り、助かりましたが、手足が不自由になりました。一つの関門は結婚でした。でも一つ一つ道は開かれ、ゴールイン。その後日本や世界の教会を回り、今は小学校や中学校など思春期の子どもたちに命の大切さや生きることの意義などを話し続けて子どもたちのみならず、すべての人に希望を与え続けています。私は今、いくつものチャペル(教会)を建てて来ていますが、はじめはいろいろと失敗もありました。でもそれにより実に多くの事を学ばせてもらいました。神さまに感謝しています。簡単に言えば、こうすれば失敗すると分かったので、成功するためには、それを逆にすればいいわけです。多くのノウハウを失敗から私は学ばせてもらいました。なかなか成功体験からは学べないものですから、失敗というものはありがたいものです。このようなことを一つ一つ経験しながら私は教会を建てて来ましたが、原則は決断して、そこで扉が開かれるかどうかです。開かれない時に無理をすることは怪我をします。少なくともちょっと待て!の合図かもと理解した方が良いでしょう。

 あなたの日々の小さな決断から、人生上の大きな決断にいたるまで、正しく行い、愛の神さまのすてきなプランがあなたの人生に確実に実現できるようにお祈りしています。