180 祈り、それは何?

聖書箇所 [使徒の働き2章2節]

 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。(使徒2:1-3)

 響き、とはギリシア語でエーコス。何を連想しますか。山びこ、こだまであるエコーの語源ですね。山に向って「ヤッホー!」って叫ぶと、返って来ます。それが、弟子たちがイエスさまの昇天後、心を一つにして祈っていると(使徒1:14)起きたのです。聖霊さまがこだまのごとく、天から降りて来られました。こだまは小さい声には小さく、大きい声には大きく響きます。今回はお祈りについて学びましょう。大きな声で祈れるように、もちろん霊的な意味で、ですが。祈り、それは何?

必要を満たす装置[ルカの福音書11章5ー10節]

 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

 あなたには、これはどうしても必要なんだというものがあるでしょう。そのような時に、ぜひ祈りを活用してください。愛の神さまはあなたの祈りに応えてくださいます。そのためにはしつこく祈らなければなりません。一、二度祈って、「やっぱりダメかあ」と簡単に引き下がったとするなら、その程度の必要性であることのあかしです。神さまも忙しいのです。全世界の人々から同時一斉に祈りが殺到します。ほんとうの必要性を優先してくださいます。

絶望の叫び[詩篇107篇章6、13、19、28節]

 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。(6)

 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。(13、19)

 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。(28)

 ほんとうに辛い時ってありますねえ。ことばにならないような絶望の時が。もうにっちもさっちも行かない、前進も後退もできない、そんな時。そのような時に、あなたは叫ばなければなりません。それが祈りです。魂の奥深いところからの真実の叫び、それが祈りです。最近は不景気のせいでリストラ関係のテレビ番組が多くあります。リストラされた人たちの苦悩が描き出されています。再就職支援会社の見解ではプライドが高い人は再就職が難しいと言います。私は一流会社の部長だった、という経歴にこだわっていると、いつまで経っても就職ができないと言うのです。逆に言えば、プライドを捨てることができないのはまだそれほど切迫してはいないとも言えます。ほんとうに困ったら、人はプライドを捨てて前進する、でしょう、真の、魂の奥深いところからの叫びとともに。あなたは、今、叫ぶような祈りをしていますか。すまして、かっこつけて、「ちょっと、苦しいんです」程度ですか。もしほんとうに苦しかったら、思いきって叫んでみてください。神さまはあなたの真の叫びを聞いてくださる方です。でも電車の中で突如叫び出すことはしないでください、他の人がいないところでしてください。叫びは他の人に向けるものではなくてあなたが神さまにだけ向けるべきものです。

天の倉庫の鍵[使徒の働き4章31、32節]

 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。

 わざわざ共産主義を唱えなくても、初代教会には事実として共産社会が実現していました。通常、罪の世ではこう考えるでしょうねえ。「オレのものはオレのもの、お前のものもオレのもの!」。でも互いに分かち合う美しい世界がここにはありました。祈っているとなぜか不思議に「与えたいなあー、愛したいなあー」という気持ちにさせられます。私はあちらこちらへとでかけますが、その直前に祈ります。すると「何をプレゼントに持って行って、あげようか」という気持ちにさせられます。やさしくなります。仕えたい気持ちでいっぱいになります。これは天に宝を積む行為です。天には銀行があると言います。銀行があればATMもあるはず。暗証番号を打って、アクセスしたところ、残高0、だったら困りますねえ。私たちの地上人生は天国預金を増やすためにあります。それにはお返しを期待しないこと。逆に、親切にしてくれた人にお返しをしないと、その人が天国預金を増やすので、それはあなたのその人への愛。愛したくなければ、一生懸命にお返しをすること。もちろんあなたはそんなことはなさらないでしょう。私たちは互いに天国預金を増加させるために協力しあうべきです。神さまに尋ねてください。「私はあの人のために何ができるでしょうか?」と。そのように祈るあなたの心はやさしさに満ち、顔は輝いているはずです。

危険防止装置[ネヘミヤ記6章9節]

 事実、これらのことはみな、「あの者たちが気力を失って工事をやめ、中止するだろう。」と考えて、私たちをおどすためであった。ああ、今、私を力づけてください。

 ネヘミヤは紀元前444年、捕囚先のバビロンから帰還し、総督としてエルサレムの城壁再建の任務にあたっていました。しかし世の常、いつの時代にも、どこにも足を引っ張る人がいるものです。彼はここで祈ります。いかがでしょうか。あなたの人生にもどうようなことがあったのではないでしょうか、いや、もしかすると今?一生懸命にやっていると邪魔をする人が出て来るのです。「なぜ?」「どうして?」と叫びたくなりますね。いや、そんなすましたことなんか言っていられない、憎たらしくなると言っていいでしょうか。思いっきりひっぱたきたくなると言ったらいいでしょうか。でもあなたはそうはしないでください。そういうことは止めてください。こういうときこそ祈るのです。決して彼らと同レベルの人間になってはいけません。彼らは人の足を引っ張るのが趣味であり、人生の生き甲斐なのです。それ以外にすることがありません。そのような人たちとやりあったりするのは時間とエネルギーの浪費と言うものです。できるだけ関わらないようにしましょう。私たちはひたすら神さまからいただいた人生を質の良いものへと研鑽を怠らないことを第一にすべきです。ではどう祈るのが良いのでしょうか。それは、「私のしている、あるいはしようとしていることは正しいことでしょうか?」と尋ねるのです。正しければ、あなたのしていることは「主の戦い」です。私は勝利教会を大宮駅前で路傍伝道することから始めましたが、いざ、始めようというときに、ある人が私に向って「あなたはきっと失敗するよ!」と言いました。余計なことを言うなあと思いましたが、それ以上の感想はありませんでした。私にとっては「主の戦い」であったから。「主の戦い」が負けるはずはありません。祈ってください。「主の戦い」であれば、あなたの心の中には平安があります。さあ、前進してください。

命の血液[ピリピ人への手紙4章6、7節]

 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 このみことばを実践している人ってどのような人なんでしょうねえ。一言で、とっても健康そう!そうです。からだも心も、人生までも健康そう。健康の鍵は血液!!あなたの血液はさらさらですか、それともどろどろ?テレビの健康番組ではしょっちゅうこんなセリフが聞こえて来るのではありませんか。コレステロ−ル値はいかがでしょうか。ある人がお医者さんから「卵をたくさん食べなさい」と言われました。何ごとかと思ったら、コレステロール値が低い、のですって。思わず、私は「私の分、あげる!」って叫んでしまいました。お互いに気をつけましょう。善玉、悪玉の違いもあるそうです。おっとっと、あなたの方が詳しそう。祈りが命の血液である、というのはもちろん精神的、霊的な意味において、です。聖い血が求められています。どこにありますか、それは?世界で一ケ所。ゴルゴタの丘にあります。十字架の上にあります。それはイエスさまの血。それをいただくためには悔い改めること。
 600人の、男性だけが集まる集会がありました。ここの指導者宛に一人の妻から手紙が届きました。「私の夫は最近、冷たいのです。私への愛情を失ったかのようです。どうか、夫のために祈ってください」。聖霊に導かれた指導者はもしかするとこの手紙の夫がこの集会に来ているかも知れないと思い、この手紙を読み上げ、「もし自分がこの手紙にある夫だと思うなら、手を上げてください!」と言いました。するとなんと300人が手を上げました。神の霊が働く場所、時というのはなんと不思議な世界でしょうか。手を上げる、それは行動です。ある人たちは悔い改めについて誤解をしています。「神さま、あのことは罪でした。ごめんなさい」って言えば、それで済むというふうに。それはケースの半分。残りの半分はそれでは悔い改めにはなりません。たとえば、あなたが道路を車で走っていて、前の車に追突したとしましょう。「これは私が悪かった!神さま、ごめんなさい!」と言ってそのまま走り去ったら、いったいその後に何が起きるでしょうか。更に問題は大きくなるはずです。その場で行動を伴わなければならない悔い改めというものがあります。真の祈りは行動を伴う悔い改めへとあなたを導きます。あなたの中には平安、喜びなどなどあらゆるすばらしいものが生まれます。生活がいままでとは全く違ったものになります。

元気の素[ヨハネの福音書15章7、8節]

 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

 イエス・キリストと私は一つ。これは神秘的な世界の出来事です。神秘的ですから、ことばでは説明が不可能です。イエス・キリストは神であり、大きいものが小さいものに入る、含まれるなんて、とうていあり得ないことです。でも説明を求める人には二つの例を用意しました。一つは恋愛。一緒にいるだけで楽しい。そうですね!あなたは恋愛をしたことがありますか、あるいは現在進行中ですか。もしそうだとして、一つ質問があります。なぜあなたはその人がいいと思うのですか。答えは「身長170センチ、目が二つ、耳が二つ……」。そのような人ってたくさんいるじゃあありませんか。そうです。「あの人がいい!」のですね。そんなものです。理屈は不要。ただ、「好き!」それだけ。イエスさまと一つ、それだけでもう何のことばも要りません。と言いながらも約束に従ってもう一つの説明。溶鉱炉の中の真っ赤に燃える鉄の玉。「火の中に鉄がある、鉄の中に火がある。分からなければ触って見ろ!」。まさに体験の世界です。祈っているとこういうすばらしい神秘的なことが経験できます。なんとすばらしい!そういう祈りをするためには感謝の気持ちを忘れないようにしてください。ぶつぶつ言ってはいけません。「だってこんな状況じゃあー、言いたくなりますよ!」。そうでしょうか。実は感謝するか、ぶつぶつ言うかはその人の心のくせによります。環境がすべて良好な状態に整えられたら、もはやぶつぶつ言わなくなるかと言うと、そんなことはありません。相変わらず、ぶつぶつ言う人はぶつぶつ言います。悔い改めるとは何でしょうか。考え方の向きを変えることです。ぶつぶつ言う習慣を止めて、感謝する習慣へと心の向きを変えましょう。すべてが変わって行きますよ。祈るとき、たくさん感謝をしてください。

賛美の友[使徒の働き16章25、26節]

 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。

 賛美とワンセットにすると祈りは最高の効果を見せますよ。

 神は喜びの叫びの中を、主は角笛の音の中を、上って行かれた。(詩篇47:5)

 賛美の中に主は歩まれ、祈りの中に主はご臨在されます。まさに相乗効果です。1+1=2ではなくて、3にも4にもなります。礼拝のときも個人の祈りの時も同様です。祈りと賛美を組み合わせるのが利口です。それはあなたに大きな霊的なエネルギーを供給します。「よし、やるぞ!」という思いにさせてくれます。

 あなたの祈りの生活に主の祝福がありますように。