181 自分を魅力的にする

聖書箇所 [エペソ人への手紙2章10節]

 私たちの信じる神さまはとても魅力的な方です。したがって、神の子であるあなたも大変魅力的!と言うと、「アーメン!」と応答しつつも、何か心の中にわだかまりがないでも……?そうです。私たちの心の中には100%はうなずけない何かがありそうです。今回はこれを解決して、正直に「はい、私は魅力的な人間です!」と告白できるように学びをしましょう。題して、自分を魅力的にする。でも一つ注意してください。自分を、というからにはあなたの責任分担もあることに。神さまはもちろんしっかりと働いてくださいます。でもあなたにもしなければならないことはあります。

私は良い作品である、と受け入れる

 ここでとても大切なことをお話します。私は神に造られた良い作品である、とは信仰生活の前提です。信仰生活がふらふらしやすい人はこの部分が不十分にしか受け止められていません。もしこれを心のそこから受け入れるならば、それがあなたの中からそのまま魅力となって外に滲み出て来るでしょう。さて、受け入れる、それは信じることですが、「信じなさい」と言うと、「またッ!信じなさいかッ。これだから、キリスト教は非科学的でいやなんだー」という反応が返って来ます。ではこれをどのように考えたらいいのでしょうか。実はそのような応答こそが非科学的です。およそ思想体系と呼ばれるものならば、実証に先立つ前提があります。科学といってもすべてを実証しているわけでもなくいわゆる普遍的な原理と仮説を前提にしています。数学や論理学では実証されない、あるいはできないそれを公理と呼びます。「そんな、証明もされていないものを信じられるか!」とだれも言いません。具体的に話しましょうか。「数概念(1とか2とかの数字の事です)は実在する」と言いますが、ほんとうに実在するのでしょうか。「いや、そんなこと、問うまでもありません。ありますよ。ほらここに鉛筆が一本!」。私が質問したのは、一本ではなく、1です、「1はどこにあるのか?」です。さあ、これに答えるのは大変!でも人々はこれを受け入れているから社会生活は成立しているのです。もし1もなく、したがって1+1=2も成り立たないとしたら、私たちの社会は完全に混乱してしまいますよ。たとえば1000円札で500円の買い物をして「3000円のお釣をください」と言いうるのです、この簡単な算数が成り立たないとしたら……お分かりでしょうか。
 日本人として初のノーベル物理学賞を獲得した湯川秀樹博士の提唱した「中間子理論」は、その発表後三年たって仁科博士研究室でその実在が証明されましたが、それまではただの一仮説でしかありませんでした。でもだれも湯川博士に対して非科学的だとは言いません。さて、話をもとに戻しまして、キリスト教の前提とは何でしょうか。それは「神は実在する」です。これを信じるなら、あなたは信仰生活に入ることができます。そしてその質を高いものにしようとするなら、「私は良い作品である」という前提を受け入れなければなりません。しかし、まだこのことに抵抗のある人もいるかも知れません。そこで二つの補強材料を提供しましょう。あなたはリサイクルショップでお出かけになりますか。目の前にある商品を見て値踏みをしますね。真に価値があると思えば、大枚をはたいて購入するでしょうねえ。あなたは世界のリサイクルショップ(リサイクルとは再生、これは立派な神学用語です。イエスさまを信じて新しくされることを指します)で莫大な金額で購入されました。信じますか?その莫大な金額とはイエスさまの血潮です。もう一つは欠点。「欠点がある、こんな私が良い作品だなんて、信じられない!」という叫び。分からないでもありません。私は学校時代運動会の日が来るのがあまりうれしくありませんでした。なぜって、足が遅かったから。でも今は何も気にしていません。車がありますから。神さまにとってあなたの欠点など欠点ではありません。

自分の最高の状態を想像する

 あなたは勝利しているあなたを、問題の解決に成功しているあなたを、そしてあなた自身が求める最高の状態を想像しなければなりません。ダビデとゴリアテの話はとっても有名ですが、ちょっと思い出してください。ゴリアテは3メートルの大男。鎧の重さが50キログラム、鉄でできた槍の穂先の重さが60キログラム。とうてい少年ダビデの勝てる相手ではありません。ちょうど日本の昔の戦い方と同じで、それぞれの陣営から代表戦士が登場して「やあやあ、我こそは〜〜の何兵衛ーッ」と名乗り、一騎討ち。戦士が負ければ所属する陣営自体が負けというわけです。ゴリアテの前にびびったイスラエル人たちは戦意喪失の状態。唯一の望みがダビデ。でも彼は少年。鎧を着せられましたが、重さのためによろよろ。でも勝ちました(Tサムエル17章参照)!なぜ?「この戦いは主の戦いだ」(17:47)という意識であり、信仰のゆえです。もちろん彼のパチンコの技術もすぐれたものでしたが、それよりもっと重要なのがこの意識であり、信仰です。この時点ですでに彼は勝ったのです。なぜ?って、主が戦って負けるはずはない、から。少なくない人が戦いの前に負けています。自分勝手な戦いをするから、エゴで戦うからです。それゆえに「負けそう」と自らを悲観的にしてしまうのを止めることができません。あなたが魅力的であろうとする戦いはまぎれもなく、主の戦いです。本来の魅力を、本来神さまがあなたに備えてくださった魅力を回復しようとする戦いは主の戦いです。あなたは弱気になってはいけません。ならば、私たちは悔い改めるべきです。何を?自分を否定的に見ていることを。これはれっきとした罪です。神さまのものを否定的に評価することは正真正銘の罪です。悔い改めるとき、あなたは勝利しているあなたを、問題の解決に成功しているあなたを描くことが出来るでしょう。それは聖霊さまとの共同作業です。想像の世界で聖霊さまは非常に豊かな働きをしてくださいます。シュバーツアーの人生においては21才と30才が節目です。いずれの時もアフリカにおいて人々のために働く自分自身を描いています。想像しています。やがて現実になりました。あなたも最高の自分を描いてみてください。悔い改めるとあなたはすべての束縛から解放され、夢を自由に描き、想像することができるようになります。

苦しみから学ぶ

 苦しみは頼みもしないのにやって来るもの。歓迎されざるもの。だれもが避けたいと思っているもの。こういったところでしょうか。確かに辛いことが私たちの人生にはありますね。しかしこの苦しみがあなたを磨き、あなたの魅力を引き出してくれます。今から400年以上も前に日本には非常に多くのクリスチャンがいました。キリシタンです。当時の総人口が1000万人と言われ、クリスチャン人口は数十万人と言われますから、相当の高パーセンテージですね。さてこの頃、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の時代ですが、高山右近の名は有名でした。お父さんがクリスチャンであって、その影響で12才で洗礼を受けました。大阪の高槻城の主になっても信仰に熱心で家来たちに一生懸命に伝道しました。城の中に教会を建て、神学校も建て多くの人が出入りしました。彼自身説教をしたり、福祉事業に取り組み多くの人から慕われました。1577年宣教師オルガンチノを迎え1年に2400人が洗礼を受けました。そんな年があけた頃、大変なことが起きました。彼の主人である荒木村重が信長に謀反を起こしました。信長は怒って右近の城を明け渡すように命令をし、宣教師たちを人質に取りました。しかし右近の妹と息子は荒木に人質に取られています。どのようにしたら良いか、ほんとうに悩みました。右近は祈りました。「父なる神も大切な御子をささげられた。アブラハムもイサクをささげた。では私は妹と息子を神さまお任せしよう」と決断し、城を信長に明け渡しました。信長は大変喜んで宣教師を解放し、荒木も降参したので妹も息子も無事に戻って来ました。彼は神さまに感謝をささげ、彼の名声はさらに高まりました。先に述べましたように、苦しみを私たちは好きません。それは人間であるから。イエスさまも人として「できればこの盃が私の前を通り過ぎるように」と祈られました。ここで大切なことは、あなたを造られた愛の神さまはすばらしいプランナー、プログラマー、そしてデザイナーであることです。それは人生途中にどんなに辛いことがあっても、困難があっても最後は良い結果に終ることを保証しています。いかがでしょうか。あなたは信じますか。

 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

肯定的に会話をする

 あなたは日々肯定的な会話をしていますか。ある心理学者が人のことばを調査して、一日において平均的に人は80%が否定的なことばを使っていると結論しました。たとえば「そういうことをするから、あなたはダメなのです!」。
 ゴルフの帝王と呼ばれるジャック・ニクラウスを成功に導いたのは奥さんだと言われています。スランプの時、左肩が下がっていました。彼女は「左肩が下がっているからダメなの!」とは言わず、「あなた、左肩を少しお上げになるとすてきよッ!」と言ったそうです。
 19世紀に活躍した、フランスの物理学者、数学者であるアンリ・ポアンカレの名前を冠した「ポアンカレの法則」があります。これは「生きることの感動や新しいアイディアは相異なるものの出会いにより生まれる」というものです。確かにH2+O=H2Oです。水素と酸素、これら全く性質の異なるものを接触させると、全く二者とも異なるもの、すなわち水が生じます。たとえば私たちは果たして日常の生活において異質なものとの出会いにおいてどれほど肯定的な考え方をしているのでしょうか。私たちが日常使うことば、これには人それぞれくせがあります。また心にも人それぞれくせがあります。くせこそ曲者!私たちはつい環境が良ければ、ぶつぶつ言わないし、不満も言わないものと考えがちですが、そうではありません。ぶつぶつ言うくせのある人はどんなに環境が整っていても不満たらたらです。逆にどんなに環境が厳しくても感謝するくせの人は感謝します。つまり、すべてはくせから始まります。私の妻は漬け物が嫌いですが、私は大好物です。その他、相違することが実に多い間柄です。でもこの相違を私はとても喜んでいます。たとえば漬け物を人様からいただいた時には取り合いがありません。相違を否定的に捕らえることもできますし、肯定的に捕らえることもできます。それは心のくせ、ことばのくせ、です。あなたはどちらを好みますか。もしあなたが魅力的な自分になろうと思われるなら肯定的であることをお勧めします。練習をしてください。意識して、「そうだ、肯定的に考えよう!肯定的なことばを口から発するようにしよう!」と。マザー・テレサのことばを紹介しましょう。

 親切で、いつくしみ深くありなさい。あなたに出会う人がだれでも、あなたと会う前よりも気持ち良く明るくなるようにしなさい。親切があなたの表情に、まなざしに、ほほえみに、かけることばに表れるように。子どもにも貧しい人にも、苦しんでいる人にも孤独な人すべてにいつも喜びに溢れた笑顔をあげなさい。世話をするだけでなく、あなたの心をあげなさい。

ユーモアを活用する

 あなたはユーモアをどのくらい生活の中にちりばめていますか。
 悪妻と言えば、ソクラテスの妻があまりにも有名ですが、名前はクサンチッペ。あるとき井戸の傍らで彼は考え事をしていました。それが彼女には気に入らない。「汲んだばかりの水を桶を逆さにして頭からかけてしまいました。このときソクラテスはこう言いました。雷には夕立ちがつきものだ!」。
 滝本明先生がスエーデンに伝道旅行されたときのことです。クリスチャンの先生が自分の学校のクラスに連れて行って紹介してくれました。珍しい日本人、しかも牧師というわけで大変歓迎されました。滝本先生は子どもたちにこう話しかけました。「みなさんの国はとても美しいですね。湖は特にきれいですね。ところでみなさんの国にはどのくらいの数、湖があるか知っていますか」。なんとだれも答えられません。そこで滝本先生「自分の国のことくらい分かっていないといけませんよ。9万5千もあるんです」。すると生徒の一人が手を上げて質問しました。「日本にはいくつあるんですか?」「えーと、琵琶湖に、えーと」。答えられず、「こんなに恥ずかしい思いをしたことはない」と話しておられました。

 以上、おもしろそうな話をしましたが、実はユーモアは自分を題材にできるともっと良いのです。自己開示と言います。自分をさらけだすことです。私の教会にはたくさんの赤ちゃんがいますが、頭を撫でていると、だれかがこう言います。「先生はいつも頭が気になるんですねッ!」。髪の薄い私へのユーモアです。私はそれを隠しません。自分を笑います、他人をではありません。自分を隠しているから、いつばれるかひやひやしていなければなりません。でも自分をばらしてあればそんな心配は無用です。ここに自分の個性、という非常に大きなテーマが登場します。結局あなたの魅力とはあなたの個性のことです。個性を全面に打ち出せるとき、あなたは魅力的です。「これは、私です!」と言えるとき、あなたはもっとも魅力的です。それが本来の、神さまが愛をもって造ってくださったあなた自身です。聖書にはクリスチャンを指すことばとしてハギオスという語が使われています。これは「聖い」という意味ですが、本来「他とは異なっている」という意味です。したがってクリスチャンとは「他の人と私は異なっていると理解した人」の意味です。結局、自分を魅力的にするとは第一ポイントで示した、「私は良い作品である」と受け入れるかどうかにかかっています。あなたはこれを受け入れますか?