38.クリスチャンは何を考えているか

●聖書箇所[各段落ごとに表示]

 生まれながらのクリスチャンはいません。洗礼を受けたから、私はクリスチャン、とは言えません(たまに意味も分からず洗礼を受けるという例がありますので)。親がクリスチャンだから私もクリスチャン、とも言えません。ただ神さまのあわれみによって、あるときまことの神さまと出会った、そういう経験をした、これがクリスチャンです。このような出会いはだれにもできます。ですからクリスチャンになるのはとても簡単です。
 でもクリスチャンをクリスチャンでない人が見るといろいろと疑問を持ちます。たとえば、「どうしてキリスト教の神さまを信じるの?日本には日本の神さまがいるでしょ!よりによって外国の神さまなんか?!・・・」とか。ところで仏教は538年に日本に伝来し、ということは外国からということですね。
 さて信仰を持つというのは恋愛をし、結婚をしたようなものです。第三者にはなかなか伺い知れないものがあります。「なぜあんな人を選んだのかしら?!」好きあっている者たち同士、そんなこと我関せず。そうです。本人たちには納得、そして落ち着きがあります。ある種のインスピレーションとでも言いましょうか。あるときに「このお方だ!」そして、「この神さまだ!この世界と私を造ってくださった神さまが私を愛してくださっている」、このような思いへと変換される、これを改心(回心とも)と言います。ぐるっと180度回った結果、新しい考え方になったと言う訳です。もちろん新しい考え方のすべてを瞬時に身につけたという意味ではありません。でもマスターしようとして、出発した!とは言えます。なぜ?それだけ魅力的だから。さてクリスチャンは何を考えているのかを聞いてください。

無から有を造り出す者こそ真の神さまである[創世記1:1、ヨハネ1:1−3]

 日本において通常神と呼ばれる存在は一言で言うと、作られたもの(物)です。たとえば仏像のように。あるいは自然界すべてが神であるとも言えます。太陽、木、山、動物など。はては人間も神になります。日光の東照宮に祭られている神は豊臣秀吉と徳川家康と言う具合いに。これは人は死んだ後に神になるという考えです。これを祖先神と言います。ちなみに成り損なった場合は水子や幽霊や妖怪になります。
 日本の神は作られたもの、というのを表したのが古事記です。あるとき神が生まれ、最初に存在したのが一番偉い、とします。このような考え方は世界と宇宙全体に対して何かを計画し実行し作り出してしまう、それだけの頭脳と力とがそれ自身に内在している、という考えです。とすると進化論などとは大変相性がいいと言えます。あるとき自然に生命がポンと生まれた。もちろんどのようにしてかは分からない。あるとき猿が人間になった。これも分からない。
 でもこのような進化論、そして進化論的発想は間違っています。エントロピーの法則というものがあります。今存在しているものはやがて時間とともにその秩序は壊れて行く、というものです。たとえば車を考えてください。古くなることはあっても新しくなるなんて事はあり得ません。(個人的な希望としては中古車が、使っているうちに新車になってほしいとは思いますが)宇宙に内在する力があってそれが秩序を組み立てて行くなんて科学的にもありえないことを進化論は真顔で言います。
 でもクリスチャンは科学的な考え方を受け入れます(科学と信仰とは互いに受け入れ合うことができます)。また現実に照らして、持ち合わせていないものは取り入れて行こうとします。ここにクリスチャンがいつも希望を持つ根拠があります。私たち人間の内部にではなく、外部にその力があり、それによって世界は支えられていると考えているからです。必要に応じてどんな問題に関しても、まことの神さまの力を受け取ればいいのです。そしてそのためにお祈りがあります。ここに救いがあります。

生まれながらに人は罪を持っている[ローマ3:10−18、マルコの福音書7章20−23節]

 古事記の考え方に変更を加えた人がいます。平田と言う学者、本居宣長の弟子で18−19世紀にかけての人です。当時は外国の書物は禁制でしたが、彼は内緒で聖書を読みました。そして聖書の神さまは日本古来の神と呼ばれている存在と比較してすばらしいと感心し、ついに神概念が変わってしまいました。また天国についての考え方も採用して復古神道を作り上げました。しかし彼はクリスチャンにはなれませんでした。人間観を変えなかったからです。
 人間の性質は何か。神道では次のようです。善であり、清い。外側は汚れるが、みそぎとかお払いで十分。内側はきれいだから外側だけをきれいにすればいい。
 果たして人の心はきれいなのでしょうか。胸に手を当ててみればだれにでも分かるはずです。マルコの福音書7章20−23節にあるイエスさまのおっしゃったことばをお読みください。真理は好きか嫌いかの世界ではありません。真理は真理。事実は事実。神さまは人の心は汚れているという考え方をしておられます。
 もしこの考えを私たちが受け入れるなら、神さまは真実である、と認めることになります。そうしたら私たちは幸せです。真実の神さまは罪を認める者に恵みをくださるからです。罪は人間の人格に巣くっているガンです。でも不治の病ではありません。父なる神さまはあなたを愛して御子イエスさまを十字架の上で死なせなさい、あがないとなさいました。これであなたのガンは治りました。いまからはさあ、大いに人生を楽しんでください、あらゆる問題は解決されました。こうクリスチャンは信じます。

迷信は心を縛る[コロサイ人への手紙2:8]

 実に多くの迷信があります。厄年、方角、字画、手相、人相占いなど。迷信は不幸の原因を他に押し付ける考えであるだけでなく、また私たちを悪霊の影響下にはいり込ませ、良いことをさせなくさせたり、たとえば赦すことは良いことだと分かっていながら赦せないで憎み続けるとか、というふうに悪い結果を招きます。
 聖書では不幸の原因を罪であるとしています。その罪とはまことのただ一人の生ける愛の神さまから離れていることであり、これを原罪と呼びます。クリスチャンは真実と事実を直視し、神さまの愛情あふれる助言に従って、心を解放しようとします。あらゆる縛りから自分自身を解放して行こう、神さまからいただく祝福を精一杯楽しもうと考えます。しかもこれは自由意志による納得の上でのことです。自由意志による、だから聖霊さまがよく働きます。あなたは迷信によってではなく、神さまの助言によって祝福されます。

死とは忌むべきものではなく、祝福である[ヨハネの黙示録21:1−5]

 イエスさまは復活されました。私たちも復活します。だからもはや私たちは死を恐れません。地獄への入り口ではなく、天国への入り口だから。天国においてあなたのあらゆる誠実が完璧に報われます。あなたは誤解されたことがありますか。恩を仇で返されたことがありますか。安心してください。神さまは常にあなたを見ておられ、報われないことはありません天国はあなたを祝福するためにあります。