39.祈りは未来の扉を開く

●聖書箇所[マルコの福音書5章36節など]

 だれでも自分の未来が明るいものであることを望んでいます。ただし率直に表現するかは人によるでしょう。「このままでいいや」と言う人もあれば、「もうあきらめているよ」と言う人もいます。でも本心はだれでも同じです。率直に言えないのは、明るくするための方法が分からないからです。
 私たちを造って下さった、まことのただおひとりの神さまはあなたを愛しておられ、未来に希望を持って生きるように願っていらっしゃいます。そして方法について教えてくださいました。それが祈りです。祈りによるならばだれひとり例外なく、明るい未来を自分のものとすることかできます。あなたもその例外ではありません。今日はこの祈りについてご一緒に学んで参りましょう。

みことばをあなた個人のものにする

 神さまは私たちに聖書をくださいましたが、その内容は一言で言って祝福のお約束です。ですから英語ではテスタメント(Testament 遺言書)と言います。遺言とは「これをだれだれにあげます」というものです。
 聖書のお約束をいくつか見てみましょう。「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)。これはすべてを包含する祝福の約束のおことばです。
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)。神さまを第一にするなら、日常生活を豊かにするに必要なあらゆるものが与えられると約束してくれています。
 しかしあなたがこれらの約束をあなたのものとするにはこれらのみことばをあなたへの個人的な約束にしなければいけません。一般的に与えられているだけなら、絵に書いた餅です。ケーキはいくらおいしくても食べてみなくては味わえません。
 1956年、デイビッド・リビングストンはイギリスの宣教師でした。はじめは中国大陸を目指しましたが道は開かれず、当時暗黒大陸と呼ばれていたアフリカにむかいました。大変な苦労でしたが、少しずつ報われて行きます。しかし16年目に最大の危機に直面します。彼は更に奥地に進もうとしていますが、白人が大嫌いという酋長がたちはだかります。従者たちはおびえて一緒に行きたがりません。襲われることは確実でした。彼もまた強い恐怖感に襲われます。彼は一生懸命に祈ります。そして与えられたのがマタイの福音書28章19、20節のみことばでした。彼は確信します。「今、私は命を失うことはない」と。彼は従者たちを尻目に、ゆうゆうとその酋長の目前で大河を渡ります。その時酋長はなぜかまったく手出しをしなかったのです。みことばをいただく時、だれをも恐れることなく、何事でも堂々と行動することができます。

ではどうしたらみことばを個人的にいただくことできるでしょうか。

  • 第1にすべての罪を悔い改め、聖くなることです(詩篇24:4〜5)
  • 第2に神さまを第一にすること(マタイ6:33)。この聖句は特に物質的祝福の約束です。
  • 第3にいつでもどこでも主を認めること(箴言3:6)。たとえば給料を社長から受け取っていたとしても神さまにその起源があることを認めることです。

以上の3つの信仰をもって祈りましょう。聖霊さまはあなたに向かって個人的にみことばをくださるでしょう。

神さまの意見を変える

 2つのみことばに注目しましょう。エペソ人への手紙1章4節とルカの福音書1章37節。両者を併せて読むとあなたはすべての時すべての場所において神さまの御手の中にあり、安心であることがお分かりになるでしょう。今イエスさまを愛しているあなたは地上に誕生するはるか以前に全能の神さまのみ思いの中ですでに選ばれていました。
 ところでこのことを考えるときに「一体祈りは何のためにあるのだろうか」と考えるのは私だけでしょうか。「すべてが決定しているのなら何も祈ることはないじゃないか」と言えそうです。しかし聖書は同時に、神さまは「思い直される」とも言っています。いつそのようなことが起きるのでしょうか。それはあなたが強く望むときです。
 いくつかの例を見てみましょう。最初はサウル王が選ばれたときです(第1サムエル8章)。先住民族のいるパレスチナを攻め進むとき、彼らはいつも逆襲を恐れています。周囲の国々はみな王をもっています。「私たちにも王をください!」とイスラエル人は叫び求めます。神さまの本来のお考えは、「私があなたがたの王だ、それで十分」というものです。しかし彼らは納得しません。あくまで求め続けます。そして神さまが折れるのです(8:22)。
 もちろん、ことの顛末は神さまの預言通りとなり、イスラエル人はさんざんな苦労をし、自らのわがままの責任をとるかたちとなります。でも神さまはいつもイスラエル人を顧みて、すばらしい王のダビデやソロモンを与えてくださったりしました。
 次の例はヨナがニネベに行ったときのことです。ニネベの町は不道徳と淫乱に満ちていました。ヨナは神さまから警告するように言われます。一度は逃げますが、結局は行くことになり、「あと40日したら町は滅びる」と宣言します。でもあとでヨナは神さまに文句を言います。というのは人々が悔い改めたためにその通りにはならなかったからです。そうです、神さまは「思い直された」のです(ヨナ3:10、4:2)。神さまの決定はニネベの人々の態度により変更されたのです。
 更にルカの福音書18章1−8節では不正な裁判官がしつような訴えに負けてついには耳を傾けるという話があります。まして私たちを愛してくださっている神さまにおいてなら、なおさらです(18:8)。
 もしあなたが熱心に求めるなら神さまはあなたの願いに必ずや耳を傾けてくださいます。熱心に祈り求めることが大切です。なぜなら生まれながらのすべての人は、持っている罪のために未来が暗いのですから。強く熱心に求めて参りましょう。こうしてあなたはあなたの未来をあなた自身で選択することができます。

あなたの本心を表現

 真の願い、本心というものはいずれは実現するものです。「もしこういうことがあったらいいなぁー」と思うことはその通りになります。ただしできないものや望んではいけないものはあります。明らかにみ心に反する場合と不正の場合です。これら聖められていない願いはエゴイズムそのものです。神さまはこのようなものには絶対に耳を傾けなさいません。逆にいえば祈りが答えられるためには聖められなければならないということです。
 聖められているかどうかのテストはこうです。「もしこの願っているものが与えられたら、神さまに差し上げます」という態度です。エゴイズムは、願いがかなうと同時に神さまと神さまを愛する仲間とに別離を宣言します。願いを聖めていただきましょう(ヤコブ4:3)。
 もう一つ聖められるべきものがあります。祈りの態度です。「恐れないで、ただ信じてい」(マルコ5:36)ることです。決して恐れてはいけません。
 私たちはある種のことは長くかつ流暢に祈り続けることができます。それは抽象的なテーマの場合です。生涯自分の生活と直接関係を持ちそうもない、たとえばアフリカや南米の宣教などです。実に大胆に祈れるものです。しかし自分にとって切実な、つまり具体的な問題に関しては難しいのです。「答えられなかったらどうしよう。神さまへの不信感が生まれそう」私たちは恐れているのです。でも「悪い結果を予想して祈りなさい」とは聖書には書いてありません。結果は全部神さまのものです。悪い結果を予想して祈ったら悪魔が忍び込みます。「恐れないで信じ」(マルコ5:36)続けることが勝利の鍵です。あなたのお祈りに祝福をお祈りいたします。