42.喜びの生活

●聖書箇所[ピリピ人への手紙4章4−7節]

 三浦綾子さんがこう感想を述べておられます。あるときの秘書兼お手伝いさんのお母さんは喜びがそのまま人間になったよう。あめ玉ひとつもらっても感謝と喜びをからだで表します。お嬢さんからゲタを贈られても、本当にありがとうと思う。親だからあたりまえとは決して思わない。天にも登るような喜びを表わし、感謝を示す。三浦さんはこの方を見て、反省します。すべてのことにこの程度はあたりまえと思ってはいないだろうか。自分の生活にこのように喜んでいることがどれほどあるだろうかと。今日はどうしたら喜びの生活ができるかをご一緒に学んで参りましょう。

神の子として新しく生まれる

 生まれながらのどの人もネクラです。なぜならこの世界には罪が満ちており、それゆえ人は罰に追いかけられて生活しているからです。神さまは心配し、「あなたは、どこにいるのか」(創世記3:9)と注意を喚起してくださっております。世界最初の人は逃げようとしました。これは全く不可解なことです。罰から逃げられると思うのはあさはかです。逃げられないからこそ罪責感のとりこになって「喜び」の生活が失われているのです。パウロは正直に自分の中に罪があることを認めています(ローマ7:15ー21)。私たちにはこの罪が重荷です。心を重苦しくしています。
 さてここでパリサイ人の対応を見てみましょう(マタイ23:25ー28)。外側を整えてきれいにしようというものです。内側こそ重要です。真実は内側から始まり、外へ出て行くものです。先に述べましたように生まれながらの私たちは罪のためにネクラです。まず内側を変えねばなりません。心の中の不安や葛藤を取り除かなければなりません。指名手配されていた逃亡犯は捕えられると、その夜ぐっすり眠るそうです。体重も滅らし、神経も始終ピリピリさせ、何かにつけ緊張を強いられる生活から解放されたことの安心感がそうさせるのでしょう。罪は罰をとことん追いかけるものです。ですからその苦しさに耐えるよりは、もし赦されるものなら殺された方が断然いいのです。
 生まれながらの私たちは罪の赦しの宣言に出会う必要があります。それには神の子とされる以外に方法はありません。神さまに義と認められる以外にありません。ニコデモに足りないのはこの点でした。外側は整えられていても(良い行いなど)、内側がいけません。随分と手抜きの多い生き方でした。いやそうならざるを得なかったのです。彼の素直な疑問は正しい解答をイエスさまから引き出すことに成功します。「人は新しく生まれなければ・・・」(ヨハネ3:3、5、7)。
 今心を神さまに向け、イエスさまを受け入れましょう。そうすればあなたは神の子となり、あなたの中に喜びの種が蒔かれます。こうして「主にあって喜」ぶことが現実となります。ちなみに「御霊(イエス・キリストを信じさせる人格的霊的力)の実は・・・、喜び、・・・」(ガラテヤ5:22、23)です。

神の子として育てていただく

 一度喜びを味わった神の子にどうしてそれが失われるのでしょう。親を親としていないからです。親には親としての子を愛するがゆえの育児計画があります。これをよく理解すると喜びが溢れて参ります。
 なぜ分からないのかと言えば、コミュニケーションが足りないからです。一段高い所から、すなわち神さまの目からあなたはあなたの人生を見るべきです。直前の車だけ見て走るのは危険極まりないものです。急ブレーキ急発進的生活は心に不安や葛藤を与えます。
 まず神さまの育児計画書を概観しましょう。それには聖書をよく読み、研究することから始まります。神さまは信じる者にすべての必要な知識を与えてくださいます。逆に喜びがない、平安がないのは世の知恵を採用しようとするからです。みことばを受け入れましょう。そうすれば必ず多くの祝福を得て、それが栄養となり、喜びの毎日になります。神さまの知恵だけが絶対安全です。最高の利回りです。
 次に兄弟柿妹の交わりに入りましょう。造り主であられる神さまを父と仰ぐ、神さまの家族(つまり教会)の中で互いをすぐれた者とみなし、祈り合い、励まし合い、希望を交換しましょう。人は世のはじめから人々の中でのみ生きるように造られています。神さまは聖霊さまを共有する人々を通して助言をくださいます。聖霊さまに満たされた人々から受ける感化は特別なものがあります。もちろん聞きたくないようなこともあるでしょう。カーッと来るようなこともあるでしょう(使徒13:9−12)。ときには心無い人々から傷つけられることもあるでしょう。それでもあなたは信仰によって冷静に神さまからのメッセージを聞き分けなければなりません。柔軟な心が必要です。謙虚な、聞く耳を持つ者だけが成長させていただくことができます。
 聖霊さまを歓迎し、あなたの中に充満を願いましょう。そして感じをでなく、信仰者に与えられる約束(ルカ11:3、使徒2:38、ヨハネ16:7助け主が聖霊さま)を信じましょう。心をまったく明け渡して、すなわちニュートラルにしているとき、聖霊さまによってどんな環境にも負けないで喜びをもって生活することができるでしょう。

「感謝」を絶やさない

 親の恩に報いること。これを忘れることは人としての大きな欠点です。「感謝」のない心には「喜び」が与えられません。日常のあらゆるものを神さまの賜物、プレゼントと信じて「感謝」しましょう。家庭や職場や教会や友人や健康が与えられていること。数えあげればきりがありません。少ない「感謝」と多い「願いごと」ではすわりが悪いものです。お「祈り」もそのようにして見直してみましょう。最初から最後までお「願い」ばかりになっていないか検査してみましょう。神さまは人のしもべでも奴隷でもありません。
 三浦綾子さんが、「犬がうるさいわねェー」と言ったら、ご主人いわく。「私にはその犬の鳴き声が聞こえる耳が与えられていることがうれしい」。私たちは決して高慢になってはいけません。キリストを恐れ、尊ばなければなりません。
 キリストはあなたに新しいいのちをくださった方です。そして私の名を使いなさいとおっしゃっておられます(マタイ18:20)。これは実印を預けてくださったようなものです。このような神さまの親切を考えるとき感謝の心が欠けているとしたら、人は失敗するでしょう。無作法であるからです。神さまを尊敬しつつ・・・礼を尽くしつつ求めて行かなければなりません。
 神さまはあなたの「願い」を実現することのおできになる方です。神さまには不可能がありません。「もしおできになるものなら・・・」(マルコ9:22)とは言うべきことばではありません。私たちがつい高慢になり、尊大になる理由を少し考えてみましょう。その正体は、「私は私の思い通りにする」というものです。これを罪と言います。これはマイナスです。聖書は私たちが生まれつき持っているこの性質をプラスに変えるよう求めています。なぜかと言えば、それは「あなたがたの信仰の通りになれ」(マタイ9:29)というのが信仰の真実の有り様であるからです。あなたの中の悪い思いがそのまま実現したら困るのはあなたではありませんか。
 では良い思いは?真実に良い思いであるとどのように確認できるでしょうか?信仰とは神さまとあなたとの個人的な関係です。あなたは神さまによって真の良い願いや祈りを示され教えられ、あなたの思いをプラスに転じて行くことができます。そのときあなたの願いはもはや他の人の単なるコピーではありません。あなたは世界にたったひとりのあなたであるからです。神さまはあなただけを喜ばす喜びの材料を用意して下さっておられます。世界にたったひとりのあなたのために。そしてそれはあなたの「感謝」によってのみ生み出すことができます。
 父なる神さまは御子キリストを捨ててまであなたを愛してくださいました。その愛にまず「感謝」をささげましょう。こうして「喜び」はあなたのものです。祝福をお祈り致します。「いつも主にあって喜びなさい」