44.重荷を降ろす信仰

●聖書箇所[マタイの福音書7章9−11節]

 グリコ事件は一刻も早く解決してほしいものです。あのときもしもっと長く脅迫が続いていたとしたら、きっと会社はつぶれていたでしょう。社員にとってほんとうにやりきれない重荷を背負わされたものです。
 私たちは自分からでも人からでもいろいろな重荷を負い、笑みを忘れて生きやすいものです。病気があります。人闇関係の破れがあります。未来への思い煩いがあります。しかしたとえ重荷の解決のためとはいえ、正しくない方法は所詮どこかでほころぶものです。今日は神さまの教えて下さる問題解決の仕方を学んでみましょう。そして軽快な歩みをするようにしましょう。

良いお父さまに感謝

 私たちの神さまは良いお父さまです。模範的な良いお父さまです。ある人々はこれとはほど遠いイメージを持っています。同情の余地は随分ありますが、そうであってもひとつの大きな不幸です。帰っても遊んでもくれず、給料も渡さない。妻を愛することもしなければ、こどもの教育についても無関心。ましてこどもに夢を与えることなど思いもよらない父親。ほんとうは父親は偉くなければなりません。家族ひとりひとりの幸福のために犠牲を払い、導かなければなりません。
 今日からお父さまに対して新しい、そして心暖まるイメージを持ちましょう。そのお父さまは天にいらっしゃいます。この方はあなたが生きるに必要なあらゆるものをただで与えてくださいます。この自然界は実に見事にできているものです。太陽が欠けても、水が欠けても生きることはできません。与えられたこのすばらしい自然環境は私たち人間の幸福のためにあります。さらに与えられた環境としては親や兄弟や友人や教会などを挙げることかできます。すべてのものがあなたのために用意された環境です。
 私たち日本人は昔からこれらの恵みの出所を人(親や先生など)や運命と考えて参りました。でもそれは正しい答ではありません。あなたを愛しておられる良いお父さまがあなたのご両親や先生などを通してお与えくださったものです。親や先生などに対してだけでなく、心からこの良いお父さまに感謝を捧げましょう。そしてその意を汲んで与えられたものを楽しみ、そうして人生を豊かにしていかなければなりません。
 最初に覚えなければいけないのが、現在の環境を感謝することです。貪欲が重荷を作り出します。サラ金禍の大部分がこれに原因しています。欲望を垂れ流したままではよくありません。現在の環境に感謝の気持ちを持たない者に祝福はありません。聖霊さまを歓迎しましょう。聖霊さまに満たされると自由が与えられます。お父さまに感謝できるようになります。節度のあるバランスのとれた生活ができるようになります。
 またお父さまは永遠のいのちをくださいました。地上で得られるすべての富を会計しても永遠のいのちにはかないません。永遠にまであなたを喜ばせ、感動させるいのち。当時のエリート中のエリートであるパウロをして、この世のものを「ちりあくた、損なもの」(ピリピ3:7、8)とまで言わせたいのち。父なる神さまはご自身の最愛の御一人子イエス・キリストを十字架に死なせてまであなたに与えようとなさったいのち。永遠のいのちこそあなたの人生を着実に輝かせます。
 もしこれらの恵みを、しかも良いお父さまから出たものであると理解し感謝なさるなら、あなたはご自分の未来に対して希望と確信を持つことができ、平安があなたの心を支配するでしょう。

全能のお父さまに信頼

 今起きていること、起きていないこと。今与えられていること、与えられていないこと。これらは神さまの御手の中で進められています。
 ヨブの場合、神さまとサタンは話し合いをして、それゆえの試練でした。神さまは消極的に賛成なさったのです。神さまとしてはヨブの信仰及びそれを通しての祝福の実例を得たいと思われたのでした。というのはサタンはこう言うからです。「ヨブが神さまを愛しているというが、そう見えるだけにすぎない。どうせすぐにぼろがでるさ」(ヨブ2:1参照)。しかし試練に耐えた彼は今日も私たちに信仰を持ち続けることの幸いをアピールし続けています。
 信仰の強弱、深浅に応じて適切な試練が与えられ、かつまた報酬としての祝福が与えられます。イエス・キリストもその良い例です。彼はあらゆる人々に先立って厳しい苦しみを引き受け、体験なさいました(ヘブル4:15)。苦しみのときは神さまへの従順を学ぶときです。罪人は心が固く、反抗しやすいものです。自我がなせるわざと言うことができるでしょう。試練はこの自我を砕くためにあると言えます。もし今の試練に耐えなさるなら、自我が砕かれるのと同時に大きな祝福があなたに臨みます。全能のお父さまがどうしてあなたを助けないことがあるでしょうか。必要なときに必要なものをくださいます。ただしあるときは全然祈ってなくても突如として恵まれることもあります。兄弟姉妹のとりなしによるのでしょう。ところが熱心な祈りによらなければならないものもあります。これは信仰のテストです。決して失望してはいけません。
 たとえばペテロはイエスさまと寝食を共にして多くのことを学びますが、大きな失敗をしてしまいます。彼のことを考えるときなんとお父さまは心の広い方かと思わされます。この事件は、人がどんな大きな失敗をしても立ち直らせることがおできになる、すなわちお父さまは全能であることを世にあかししました。あなたが全能のお父さまに信類して祈り続ける中、お父さまとイエスさまから遣わされた聖霊さまはいよいよ大きくお働きになって不可能を可能にしてくださいます。試練にびっくりすることなく、一歩一歩着実に祝福の道を登って参りましょう。お父さまは全能の神さまです。これを受け入れてあなたの重荷を降ろしてください。

憐れみ深いお父さまに期待

 旧約聖書でも新約聖書でも共通したものがあるだけですが、神さまに関する正しいイメージについて考えて見ましょう。それは神さまは常に人を赦される方というものです。ただし聖書は神さまのご性質の両面を教えています。きびしい面と優しい面。どちらに重点があるかというなら、後者です。とはいえ、私たちは前者のイメージを強くもちやすいものです。これは生まれもった罪がそうさせます。心の中に罪責感を生じさせ、それゆえにその苦しさから逃れようと誰かを責めたり攻撃する対象を無意識のうちに探してしまいます。罪の上塗りと言ったところでしょうか。これが重荷です。
 正しいお父さまのイメージを持ちましょう。そのために必ず体験しなければならないものがあります。それは「私の罪は赦された」確信です。あなたをどこまでも愛してくださる神さまはどこまでもどこまでもあなたを愛してやまないのです。本当に厳しい神さまならもうとっくに人類の歴史は終わっているはずです。
 御子イエス・キリストは十字架につけられました。それはあなたの罪を代わりに彼が負われたことを教えています。この十字架の真理を受け入れるとき、あなたはどんな失敗も許されたことを喜び、「さあ、もう一度やってみよう」という気になります。イエスさまを信じるあなたにはやりなおしのできないもの、取り返しのつかないものなどひとつもありません。十字架にすべての罪責感や劣等感という重荷を置いて新しく生まれ変わって、軽快な歩みをしましょう。


メッセージ集に戻る