50.聖霊によって歩む

●聖書箇所[ガラテヤ人への手紙5章16−26節]

 人の歩みは2種類、ひとつは肉によるもの、すなわち自分の力によ(り、すべてが可能と思い込んでい)るもの、もう1つは聖霊(以下、人格あるお方として[さま]をつけます)によるものです(参考:第1コリント3:1、2以下)。
 「世界に頼れる者は俺一人」「俺は偉大だ!」「私には何でもできるわ!」このように生きる人、すなわち肉により生きる人は体力と健康にかなりの自信がある人ですが、かえって足枷をつけられたようで、自由がありません。たとえばたぶんに思いやりが欠け、人を裁きがちです。攻撃的でもあり、虚栄的でもあります。劣等感が強く、そのために異常な優越感に浸りやすくなります。
 人にはどれほどの力があるのでしょうか。誕生はおろか、今日一日のいのちさえ思い通りにならないのです。力の根源を知りましょう。神さま以外にあると思うなら虚構の人生になります。力の神さまの名を聖霊さまと言います(天地の創造に関与されている箇所を参考に紹介します。創世記1:2)。試練に出会っても、困難に出会っても、どんなことも克服できるように、また勝利できるように聖霊さまのお力添えをいただくことのできる歩みをしましょう。あなたの努力を超えた(努力プラスアルファの)世界が大きく広がります。
 今回はそのための知恵を学びます。

いつも関心を持って

 聖霊さまにいつも関心を持つようにしましょう。そのためにはまず救い主イエスさまを信じます。あなたの中に聖霊さまが住んでくださいます(これを内住と言います。第1コリント12:3、6:19、エペソ2:21、22)。
 イエスさまは十字架であなたのすべての罪を背負い、死なれましたが、3日目に復活され、昇天なさいました。こうして地上から姿を消されました。けれども言い残されました。「・・・父はもうひとりの助け主を・・・お与えになります。・・・その方はあなた(がた)とともに住み、あなた(がた)のうちにおられる」(ヨハネ14:16ー17)ここで言われる助け主が聖霊さまであり、イエスさまの代わりに、常に身近にあって必要な助けを信じる者にくださいます。これこそ新約時代の恵みです。
 顧みて旧約時代は違いました。特別な人に、特別な所で、特別な時にのみありました(たとえば士師記の記事などを参照)。しかし今は違います。「・・・終わりの日(イエスさまのお誕生以来今日まで)に、わたしの霊を注ぐ」(使徒2:17)
 聖霊さまは信者自身の中に信者の交わりの中に住んでくださっています。ただしこの真理は感情によって証明されるとは言えません。思い出してみてください。あなたが中学校の入学式にのぞんだとき、まだ自分は小学生であるような感じがしたのではないでしょうか。でも事実はもう中学生なのです。あなたがイエスさまを主と告白したときあなたには聖霊さまがお入りくださいました(第1コリント12:3)。この事実を信仰によって受け入れましょう。
 あなたの中に聖霊さまの属性が現われて来るでしょう。それは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。これらを聖霊の実、あるいは御霊の実と呼びます。人格と属性とは切り離すことはできません。これらのものはあなたのものです。しかし使うことができるかどうかは信仰によります。もしあなたが1万円札を持っていてもただの紙片だと思えば、破るか、燃やすか、あるいは棄ててしまうことでしょう。現実に1万円の値うちはありません。何も手に入れることはできません。信仰こそ鍵であることがお分かりでしょう。
 信仰というものは決して無責任なものではありません。共産主義者でさえ「信仰」を持たなければやってはいけません。たとえば「国境は無くなる」「階級無き社会が現われる」などを彼らは信じています。現在はまだ実在しない、けれども必ずやって来ると言っています。これも信仰です。信仰とは人が生きていくために必要な基本的な能力です。信仰によってのみ聖霊さまのお働きも期待することができます。

相談し、助言を求めて

 貧しい者(マタイ5:3)とは自分には力が無い、あるいは限界があると正直に認める者のことです。キリスト者とはこの貧しさを自ら認める者です。困難や試練はこの貧しさと深い関係があります。自我は機会あるごとに頭をもたげて−たとえキリスト者であっても−あなたの人生を破壊しようとします。かつて自我は十字架に釘づけられたのに、再び脚光を浴びようとでしゃばり出て来ています。そのとき神さまは軽くあしらわれ、人は高慢になります。こうして試練は臨みます。ですから試練や困難は感謝なことです。聖霊さまに助言を求めてください。きっと応えてくださいます。
 かつてダビデは自分勝手にも気に入った人妻を召し抱えようとしました(第2サムエル記11、12)。彼は立派な人物ではありましたが、それでも失敗してしまいました。預言者は命をかけて諌言し、彼はとうとう罪を認めて真実に悔い改めます。
 私たちでもイエスさまを信じていながら失敗することがあるのです。それは自分自身の中で自我が王座に返り咲き、聖霊さまが隅ッ子の方で寂しくしているときです。試練と困難のときにこそ聖霊さまのいらっしゃる場所を確かめる良い機会です。そのときあなたは、十字架のあがないを理由にあなたに対して宣言された赦しを受け入れなければなりません。そして赦しを確信するときあなたの中に聖霊さまの力がよみがえります。適切な助言をいただく用意がこうしてできあがるのです。
 聖霊の神さまは全知全能のお方であって、必要な助けを与えてくださいます。助け手とはカウンセラーの意味です。それは補助者、助言者です。いつ語ってくださるのでしょうか。多くの場合、あなたが神さまと2人だけになるときです。隠れた神さまと秘密のひとときを活用しましょう(ルカ6:6)。
 聖書を開き、賛美(メロディのある祈りと言えるでしょう)をし、祈り、瞑想をするとき、現出した平安な心が黒板となり、助言は示されるでしょう。心も身体も忙しいとき、一日を無反省で過ごしたとき、まるでマラソン直後のようです。1分や2分で心と身体の興奮を静めることは難しいでしょう。デボーションを1時間は持つようにしましょう(マタイ26:40)。聖霊さまの助言をいただく経験は訓練により与えられるものとも言えるでしょう。場数とも言えるでしょう。しかし理性の働きも忘れないようにしてください。常識的なことについていちいち答を待つのは愚かなことです。センスを養いましょう。神さまを愛することです。あなたの求めに応えてくださいます。

聞こえる御声に従う

 聖霊さまが聖書記者に働いて成立した聖書はことごとく誤りのない神さまのおことばであり、信じて読む者には必要に応じて神さまのお答えが平安な心という黒板に印字されます。決して個々のみことばや聖書全体の思想に反するように語られることはありません。サタンと聖霊さまの声とはこうして見分けることができます。サタンに従うと人生は破滅させられてしまいます。一時的に良くなってもあとが続きません。
 さて聖霊さまの御声を聞いたら率直に従いましょう。とても軽い足取りになります。もし聖霊さまが教えてくださる通りにするなら必ず祝福されるので従いがいもあります。もちろん重荷の重さがゼロになるわけではありません。私たちの霊魂(たましい)には身体がそうであるように適度の重荷が必要です。
 さて親は愛情をもって子どもに助言します。彼が率直であるとき成長します。才能は伸びて行きます。なぜなら親には提案した以上、それを成功に導く責任があります。信仰の創始者であり、信仰の完成者であるイエスさまが模範を示しなさいました。聖霊さまにより(普通の罪人である)マリアの体内に(罪のない者として)宿り、聖霊さまによって公生涯に入られ、だれもまねのできない輝かしい人生を全うされました。聖霊さまの御声に従うとは聖霊さまに満たされた生き方です。あらゆる罪を悔い改めて新しい心に聖霊さまを呼び込みましょう。あなたの心の王座についていただきましょう。聖霊さまはあなたを愛して、あなたの人生に非常に強い関心を持っていらっしゃるので祝福の御声をかけてくださいます。そして安心して従って参りましょう。