54.ルツ

●聖書箇所[ルツ記]

 ルツは旧約時代に神さまからたくさんの祝福をいただいた女性たちの一人です。彼女の生涯からいくつかの教訓を受けて参りましょう。

 物語は第一章から始まっています。ナオミとエリメレクの夫婦が2人の息子とともにベツレヘムに住んでおりました。ベツレヘムとは「パンの家」の意味で、この一帯は穀倉地帯でした。
 あるとき飢饉に襲われ、彼らはモアブに移住してしまいます。夫婦はそこで息子たちに妻たちルツとオルパを迎えます。いずれも幸せでありましたが、やがて夫エリメレクと息子たちは亡くなります。残されたナオミは郷愁の思い断ち難く、飢饉が終わったとのニュースはさらにその気持ちを強くさせていきます。ついに帰郷の決心をしたナオミは異邦人(外国人)である嫁たちに自分の国に留まるように伝えます。再婚して新しい人生を始めてほしかったのです。しかしオルパと違ってルツは「あなたの神さまは私の神さまです」と言って同行します。このルツを神さまは祝福してくださいました。彼女の生き方、信仰から学んで参りましょう。

誠実な人

 ルツは誠実を愛する人でした(2:11)。お姑さんや夫に対して実に誠実です。オルパはナオミの助言の通りに故郷に留まりますが、ルツには信仰が芽生えていました。夫と息子たちとを失い、かつ年老いたお姑さんの帰郷を前に、「私が微力ながら、新生活の資を生みだします。ご安心ください」と励まします。ナオミにとってはなんとうれしい申し出であったでしょうか。実際ルツはベツレヘムで貧しい者たちなどに許された落ち穂拾いに精を出します。
 誠実とは本来神さまの前におけるものですが、具体的には人への誠実です。もしあなたがまことの神さまへの誠実をお持ちになるなら人への誠実が生まれます。
 ところで生まれながらの私たちにはほんものの誠実があるでしょうか。ローマ人への手紙3章23節によると「すべての人は罪を犯した」とあり、人は生まれながらにして不誠実であると主張しています。誠実とは神さまから与えられる徳にほかなりません。マタイの福音書22章36−40節では神さまを知り信じ愛することと、人(自分と他人)を知り受け入れることとをワンセットに考えています。
 神さまを愛するとは十戒の前半4ヵ条を満足させることであり、まことの神さまのみを礼拝することを指します。そしてまことの神さまへ真の礼拝をささげる(神さまへの誠実を尽くす)者には後半の6ヵ条(人への誠実)を守る力が備えられます。このように礼拝をささげる者に神さまは誠実という一つの徳をお与えになり、それを根拠に神さまは祝福してくださいます。
 神さまを信じ礼拝するルツはベツレヘムにて外国人ことにモアブ人への偏見の中で立派な嫁との評価を受け、有力者であり資産家である高徳の人ボアズと結婚し、幸福な生活へ導かれたのです。彼女の生んだ子は英雄ダビデのおじいさんになりました。これはイスラエル人ならだれもが望んだ家系でした。なぜならメシア(救い主)の家系だからです。誠実な人は確かに神さまから祝福されます。

謙虚な人

 彼女はお姑さんにはいつもすなおでした(3:5)。それも盲従ではなく、内容のある聖いものです。ナオミがルツに対してモアブに残りなさいと勧めたとき、ルツはそのことばに従ってはいません。真実の謙虚さとは神さまに対するものです。そうであってこそ人への謙虚さを貫くことができます。神さまはこのルツの持つ謙虚さを通じてナオミに祝福を与えようとしていらっしゃいます。
 さてベツレヘムでルツは落ち穂拾いを始めています。新生活はスタートしました。ここにも私たちが信じるお方が愛を豊かに持っていらっしゃることがよくわかります(レビ19:9、10)。けれどもルツは律法にあるからと言って、当然の権利を主張したのではなく、畑の持ち主であるボアズに許可を求めています。
 さてナオミはこのとき神さまの導きを直感しています。「ルツは再婚してもう一度幸福な家庭を持つべきだ。ボアズはもしかすると夫になるべき人かも知れない」とこう思いました。ナオミはルツに命令を与えます(3:3、4)。ルツは純潔を愛する、貞淑な女性でしたが、信仰によってナオミに謙虚に従いました。彼女の持つ神さまへの謙虚さはすべての人々への気品ある態度、貞節さ、物腰の柔らかさ、仕事への熱心となってあらわれました。なぜでしょうか。すべて人は神さまのかたちに造られた立派な作品だからです。
 私たちは他の人を尊敬すべきです(ピリピ2:3)。人の不幸の原因はすべて人に、つまり自己と他者とに価値を見い出さないからです。人は自分自身をまず憎み、裁き、傷つけています。謙虚になって、私は神さまのかたちに造られた立派な作品であると受け入れましょう。他の人との単純な比較は無意味です。人はそれぞれ違って造られました。それぞれ与えられているところに従って、神さまから祝福を受け、栄光をあらわすことができます。神さまはあなたを愛しておられます。その事実を受け入れることが真実の謙虚さです。
 放蕩息子が絶望して帰ろうとしたとき、お父さんは条件をつけてはいません。汚れた服装、のび放題のひげ、そのまま受け入れられました。お父さんとは神さまのことです。神さまの元にいよう、ひれふそうという心が大事です(ルカ15:11ー32)。あなたの中にある汚れたものすべては御子キリストの十字架において廃棄処分にされました。神さまご自身があなた自身を受け入れるとき、そしてあなた自身がそのことを受け入れるとき、あなたはどの人をも受け入れることができるようになります。
 実はナオミには感謝が欠けていました(1:19−21)。謙虚さから来る感謝の心を持ったルツはナオミに祝福を運び(4:14−17)、与えるものとなり、そのために神さまに喜ばれる者となりました。ルツへの祝福を見ましょう(2:8、9、14−18)。たくさんの落ち穂を拾い集めることができるよう、また本来女性の仕事であった水汲みの辛い仕事も免除されるよう配慮されています。謙虚な人は周囲の人々に祝福を与えつつ、神さまから報いを受けます。

摂理を信じる人

 彼女は過去と現在を思い巡らし、また未来を探り、確かに神さまの御手の中に自分の豊かな人生はあると確信しました。ナオミが帰郷を決断したとき、彼女もまた、霊魂(たましい)の故郷、愛の神さまのもとに帰ろうと決意しました。自分の心(霊魂たましい)の目があく前から神さまが導いてくださっていたこと(これを摂理と言います)を信じたのです。落ち穂拾いが辛かったのは、外国人という肩身の狭い思いをしたしばらくの間だけでした。やがて破格の待遇をうけることになります。偏見は好意に変わりました。忍耐のある人は勝利します。まもなく2人の生活は安定しました。ルツはお姑さんを通じて神さまのメッセージを受け取ります。信仰の目が開かれ、神さまの姿が見え、御声が聞こえ、霊的交流が深められて行ったのです。
 神さまの導きに生きるとき、人はだれでもすべての試練を乗り越え、確信に満ちた、力強い、祝福された人生を歩むことができます。神さまの摂理を信じて進まれるよう主の御名によってあなたを祝福いたします。

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