57.勝利者の道

●聖書箇所[各段落ごとに表示]

 道を行くと必ず別れ道があります。目的地を明確に定めている人は積極的にかつ正しく道を選択します。人生の目的や目標が明確な人ほど日常生活を締まりのある、メリハリのある、コントラストのある美しい人生に描くことができます。
 あるときシムノン(フランス現代作家)が「人生に何も期待しなければ、失望しなくてすむよ」と友人に言われたときに笑いながらこう応答しました。「まったくそのとおりだ。もし呼吸しなかったら、ばいきんに侵されることもないわけだ」確かに人生に失敗はありますが、失敗を恐れて選択をしないとか、消極的になってしまうとかすることは愚かです。勝利者の道とは一度や二度の失敗も恐れず、大胆に祝福を勝ち取ろうとする道です。イエスさまを信じる者の道、神さまのあなたに望まれる道はこのような道です。具体的にどのような道なのかを学んで参りましょう。

愛の道[ヨハネの第一の手紙4章19ー21節]

 愛の道は勝利者の道です。反対は憎しみを持つ道であり、ねたみの道です。憎しみを持つ、あるいはねたむ心をもって進むとき神さまへの道、信仰の道は完全に塞がれてしまいます。その道程は真っ暗闇です。暗闇が光と同居できないように、憎しみを持つあるいはねたむ心は愛の心と同居することができません。
 あなたのお祈りが答えられるのは、神さまと波長があう愛の心を持つからです。イエスさまはゴルゴタの丘で、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からないのです」(ルカ23:24)とおっしゃり、この道を歩まれました。
 憎しみを持つことはどうしていけないのでしょうか。それは憎む者自身がまず害を受けるからです。心は平安でなく、あらゆることに確信がありません。なぜなら自分の良心によって悪いことと気付かされており、人を赦しなさいという神さまの視線をすでに感じとっているからです。いつまでも残るもの、最高に価値あるものは愛です(第1コリント13:13)。愛はあなたに信仰と希望とを与え、人と人とを完全に結ぶ帯として機能します(コロサイ3:14)。親子、夫婦、兄弟、上司と部下、師弟などあらゆる人間関係に祝福を約束します。

寛容の道[エペソ人への手紙4章2節]

 寛容の道は勝利者の道です。反対は憤りの道です。怒りは感情的高ぶりであり、正常な判断力を失わせます。もし重大な場面で、正しい判断や決定を下すことができないとすると、人生は悲劇です。まず怒りの種は蒔いた本人が刈り取らねばなりません。人に対して寛容でない態度は神さまによるさばきをわが身に招きます。寛容とは罪を赦すことのみならず、その人の生き方全体、すなわち人格を許容し、受容することです。しかしこのことは決して罪を義とすることではありません。人は常に不本意とは知りながらも罪を犯して生きています。私たちが知らねばならないことは、いかなる人も人の罪を赦したり、裁いたりすることはできないということです。どんな人に対しても、それがたとい自分自身に対してであったとしても。自分に対しても、隣人に対しても、私たちは人として「神のかたち」(創世記1:26、27→エペソ4:24によるとそれは義と聖であり、私たちは胸に手を当てて考えてみれば、私たちの持つ「神のかたち」がすでに傷ついていると分かるでしょう)を持っているのであり、これ以上お互いに傷つけてはいけません。それにはあなたがまずあなたを寛容の対象とすべきではないでしょうか。あなたの親であり、あなたを愛しておられる神さまがあなたに対して寛容なのですから。

罪責感から解放され、赦しを確信する道[ローマ人への手紙7章24節]

 罪責感から解放された、すなわち罪の赦しを確信する道は勝利者の道です。罪責感は生活から力を奪います。悪習慣はからだのみならず、心まで病気にしてしまいます。悪いと自覚しつつ行っているときは生きる確信と喜びとを失わせ、本人も気がつかないうちに心の傷を深くしています。
 ユダはマリアが300デナリ(300万円くらい)もする油でイエスさまの足を濡らしたとき、彼女を激しく非難しました。彼の真の動機は明らかです。イエスさまの弟子団の会計係として横領していました。お金に眼が眩み、新たにこの高価な油に触手を伸ばそうとしていたのです。罪責感を持つ人の一つの特徴は攻撃的であることです。それは心の中の葛藤と罪とを自分自身と他者とから隠すためのあるいはごまかすための努力です。ユダは隠し通すことができずに、つい上のようなあからさまな行動に出てしまいました。そればかりではありません。次にはイエスさまを売った代金の銀30枚を返し、はじめから何もなかったかのような素振りをするのです。盗んだ物を返したとて、罪が消えるわけではありません。心の中にはっきりと傷跡が残っているものです。
 さてイエスさまは十字架であなたの過去、現在、未来のすべての罪を赦してくださいました。たとい人があなたを赦さなくても、天地の造り主であるまことの神さま、罪を赦すことのおできになる唯一のお方があなたの罪を赦してくださいます。「子よ。あなたの罪は赦されました」(マルコ2:5)という宣言を聞いてください。あなたにはこの世では得られない平安が経験されるのです。罪を赦された者こそ真実の勝利者です。

自由の道[ヨハネの福音書8章32節]

 自由の道は勝利者の道です。人は生まれながらに奴隷です。人を奴隷にさせてしまうのが偶像です。これを礼拝すると人はたちまちにして悪霊の支配下に入り、自由を奪われます。自由意思は縛られ、憎む心、妬む心、否定的な心から離れられなくなります。偶像とは決して刻んだものばかりとは言えません。挫折感も偶像です。挫折することは偶像ではありませんが、悲劇のヒーロー意識にいつまでも酔い続けるとき、やがて偶像になって行きます。ところが神さまを信じると驚くべきことに挫折は勝利への入口となります。イエスさまは十字架で死なれましたが、彼自身にとっても私たちにとってもそれは勝利の始まりでした。神さまの御子はご自分の世界(私たちの住んでいる世界のこと)に受け入れられず、弟子たちにも見捨てられましたが、これが人類の救いのきっかけとなりました。挫折が勝利へのスタートであるのは、挫折こそが人々に人生の揺るぎない土台は神さまであることを教えるからです。神さまのくださる人生、望み、そして期待して下さる人生を生きるとき、あなたは偶像の奴隷から解放されて勝利の道を歩みます。その他貪欲も隠れた劣等感もあなたを奴隷にします。でもイエスさまを信じる者はあらゆる良くないものから自由です。真実の勝利者は神さま以外のだれからも支配されません。

人を助ける道[マタイの福音書25章45節]

 人を助ける道は勝利者の道です。現代人は周囲の人々に無関心だと言われています。この表面的な人間関係を親しい間柄に持ち込むのが現代の風潮です。やがて多くの夫婦、親子が一緒に生活しながらも他人になって行きます。事務的口調が広がり、会話は波風が立たず、一見良く見えますが、温かさがありません。人々は本当は切実に助けを求めています。人々がこうして悩みの中にあるとき、それを知り助けてあげることは神さまの望んでおられることです。
 ある人に産婦人科医が答えていました。「私は専門に徹していますから、人生の悩みとかは牧師先生や精神科医などの専門家に任せています」そのとき電話があり、彼はこう語りました。「驚きました。先日ある婦人が妊娠しているかも知れないと言って来たので、診察してあげました。しかしそうでなかったので事実を告げました。彼女は帰宅するや否や自殺しました」婦人にとっては妊娠に関することはいのちに関わることだったのです。このようなことを聞くと私たちは人を助けることに臆病になってしまいます。でも最高の方法があります。イエスさまを個人的に紹介することです。イエスさまは常に希望を与える方であって、あなたは人を助けることができます。勝利者の道、それは人を助ける道です。

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