58.まことのいのちを得る

●聖書箇所[マタイの福音書16章24、25節]

 人にはいろいろなタイプがありますが、こういう種類の人もいます。暗い表情で生活態度もなげやり、考え方も決して建設的ではありません。同じ生きるなら明るく喜んで、いきいきとしていた方が良いでしょう。情熱、夢、幻、確信を抱き、嬉々としている生活しているさまは、はたから見ていても気持ちの良いものです。こんな生き方には高い価値があるに違いありません。本人のみならず、周囲の人々をも喜ばせているからです。
 今回はどのようにしたらこのようないのちある生活ができるか学んで参りましょう。

自らを神とする自分を捨てる

 イエスさまは十字架の死を目前にして言われました。「わが父よ。できますならばこの杯を私から去らせてください。しかし私の願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」(マタイ26:39)
 イエスさまにとって十字架で死ぬことが苦しいことであるように、私たちにも苦しいことがあるでしょう。その一つは自分の内側で神さまが正しいか私が正しいか、あるいは神さまが偉いか自分が偉いかと戦うことです。イエスさまが示された模範は、私は心の王座に(父なる)神さまを迎えて大事なことであればあるほど神さまに判断していただきますというものです。
 自分を神とする主体を自我と言います。この自我は罪を愛し、欲望を感じたらあらゆる手段を駆使して(多くの場合罪に直結します)充足させようとし、感情が高ぶって来るとそれにまかせて振る舞い、自分自身のみならず周囲の人々をも傷つけて不幸の原因を作り、社会を汚れたものとして行きます。罪を愛する自我によって導かれる自分はほんとうの自己ではないのです。パウロはこれをこのように表現しています。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:24)。
 真に幸せな人、真の自己を見い出した人にはいつも自己の内部にも他の人との間にも平和があります。しかし自我をそのままに働かせる人には平安も平和もありません。欲望にとらわれて飽くことなく求め、得ずして人を憎み、妬み、悪口を言います。まるで天に向かって唾を吐くようなものです。やがてそれにふさわしい刈り取りをしなければならないときがやって来ます。
 では私たちはどうしたらいいのでしょうか。イエス・キリストのあがないを受け入れることです。罪を愛する自我に人生の指標を任せることを止めて、「私はイエスさまの身代わりの死を受け入れます。自我と罪を十字架につけます。そして心の王座に神さまをお迎えします」という決意をしましょう。このような決断こそ神さまに対してあなた自身およびあなたの人生という活躍の場を与えることとなり、あなたはまことのいのちある自己を見い出すのです。というのはイエスさまを受け入れることができるように助けてくださった聖霊さまがあなたを正しくコントロールして、罪の奴隷でなく、かえって罪を支配し環境を改善する者とに変えて下さるからです。
 こうしてあなたは神さまの子どもとしてまた相続人として神さまのくださるすべてのもの−この世界にあるものはすべて私たち人間のために造られました−を楽しむことができます。もし自らを神とするなら、楽しむどころかそれらの奴隷とされてしまいます。実際、多くの人がお金や仕事の奴隷になり不幸に苦しんでいます。イエスさまの下さるいのちをもって元気に生きて参りましょう。

自分の十字架を負う

 まことの神であり、まことの人であるイエス・キリストはあなたにとって神さまとの間の唯一の仲介者であり、あなたが祝福に十分に満たされるように働いてくださいます。
 ところでこのとりなしは決して神さまの必要から来るものではありません。神さまは自立自存自給の方であり、たとえわずかであっても私たち人間に助けてもらう理由はありません。イエスさまはあなたが必要としているから働いてくださいます。ですから十字架はあなたのためです。ご自身の賜物を用いて奉仕をしてくださいました。これこそ模範です。
 もしあなたがこれに倣い、あなたに与えられた賜物を用いて生きなさるならあなただけの人生、決して他者には真似のできない独自の人生を生きることができます。神さまのあなたにくださる賜物は他の人のものとは異なり、それによってあなたの人生の価値や独自性が生まれてきます。このようなことを理解した私たちが働くとき、キリストのからだの各部分として互いに保管関係を持ち、兄弟姉妹や隣人を助けることとなるのです。これは人に与えて行く生き方です。自分の十字架を負うとは、自分に与えられている賜物を神さまと人とのために用いて、世界にたったひとつの個性的で立派な生き方をすることです。

イエスさまを見上げ、従う

 彼の生き方を見る者は計り知れないほどの良い影響を受けます。子どもは親に似ます。子どもは親を見て、良い面も悪い面もともに吸収していきます。ですから良い模範を見せるなら立派になるはずですが、私たちは罪人であり、欠点があるものです。残念なことです。しかしイエスさまを見るならイエスさまの持っておられるいきいきとしたイメージがあなたの中に浸透伝染し、やがて定着して行くでしょう。最高の人生を生きようとしたら、最高の人格に出会うべきです。人の一生は人格との出会いに終始するのであって、現在の有り様は過去に出会って来た人格の総決算にほかなりません。イエス・キリストという最高の人格に出会い、影響を受けるなら、あなたは大きく成長させていただくができるでしょう。
 さてイエスさまはどのようなお方でしょうか。最も印象的なことは苦しみをお受けになったが、よみがえられたということです。
 さて苦しみには報酬があるものです。神さまの世界において無駄なものやことなどあるはずがありません。私たちはイエスさまの生き方を見て、苦しみや試練とは新しい世界への跳躍台であることに気付かされます。ですから苦しみや試練から逃れるのでなく、直視して乗り越えられるよう神さまに助けを求めましょう。神さまはあなたを助けてくださり、その後多くの人々の間で、あなたをなくてはならぬ人物にしてくださるでしょう。なんとすばらしいことでしょう。人々は病んで、苦しみ、傷つき、助けを求めています。しかし真の理解者・解決者がどこにいるかを知らないのです。さらに苦しんだことのない人がどうして人々の苦しみに同情できるでしょうか。似たような体験がなければならないでしょう。
 もしあなたがイエスさまを見上げ、自分の苦しみ・試練から学び、それを信仰と勇気をもって克服するならば、神さまはきっとあなたに他の人には真似のできない奉仕とその場、つまり人々に生きる喜びを教えることを使命として与えてくださり、あなたの人生は人々から歓迎され、期待され、喜ばれるものとなるでしょう。生きることの喜びを分かち合う生き方こそまことのいのちを得た人生です。あなたはイエスさまを見上げ従うことによってそのようにできるようになります。
 神さまの豊かな祝福があなたにありますように。

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