59.ゆううつ撃退術

●聖書箇所[詩篇51篇1−19節]

 ゆううつというのは現代人の病だといわれています。専門家はその原因をいくつかあげています。身体的なもの(疲れがたまる、慢性的な病など)、人生や結婚生活への失望など。
 今回はゆううつを撃退するための学びをしましょう。

はじめにゆううつの原因を探り、その後でその対策を考えてみましょう。

 原因は大きく2つ考えられます。それらはとても破壊的な感情でほおっておくとあなたは押つぶされてしまうでしょう。この詩篇の作者であるダビデはこの2つに圧倒されてうめいています。背景は第2サムエル記11章以下を参照してください。

罪責感[1−14節]

 ある人々はこの罪責感のために自殺さえしてしまいます。イスカリオテのユダは長いこと親身になって育てて下さった先生、イエスさまを裏切りました。まもなく激しく後悔が彼を襲います。祭司長の所へ行って売値の銀30枚を返そうとしますが、受け取ってくれないので神殿にほおりなげ、首を釣って死んでしまいます。彼はゆううつの結果として自殺をしてしまいました。そもそもの始まりは何だったのでしょうか。金銭への貪欲です。罪とは飽くことを知らないものです。彼はイエスさまの弟子団の会計係として普段から不正を働いていました。それも少しずつ。しかしこれが命取りになったのです。これくらいならいいだろうという思いが。深く静かにしかし確実に彼の中で罪責感がうめき叫び始めていました。うつうつする時間が長く続き、とうとう爆発するときがやって来ました。罪責感は私たちに対して実に破壊的な働きをします。

自分への同情心[16節]

 ゆううつなときあなたには自分への同情の感情はないでしょうか。ゆううつになっている人はこれを強く持ち、自分はいかにひどい目に会って来たか、あるいは会って来ているかを長々と述べます。そして祈っても平安がありません。私たちはそのような人々に心から同情をしなければなりませんが、その主張に決して賛成することはできません。なぜならば「私には神さまをも含めて他者を憎む権利がある、文句を言う権利がある」と主張しているに等しいからです。自分への同情心から解放されない限りゆううつからは解放されません。

次に解決法を考えてみましょう。

 ダビデを例に考えましょう。彼は大きな罪を2つ犯しました。第1に姦淫、第2に殺人。彼は王としての特権を乱用して忠実な彼の兵士ウリヤの妻バテシバを奪いました。そして隠蔽工作として夫を戦場の最前線に送り戦死させてしまいます。預言者ナタンに指摘される中、だんだんとうつになっていきます。何をしても心は晴れない。いくら多くのささげものをしても平安がやってこない(16)。ここで徹底的な行き詰まりを経験させられ、神さまの憐れみによってはじめて解決を見ます。うつからいやされました。学んで参りましょう。解決のために踏むべき4つの手順があります。

無力を認める[1−16節]

 自分の無力を認めましょう。ゆううつから解放されないのはあなたが強すぎるからです。罪責感も自分への同情も「私の運命における主人は私だ!私が私に命令する。私の思い通りにならなければ承知しない!」という態度にあります。「私は主人ではありません。私には解決できません。神さま、どうか私を助けて下さい」と言うべきです。私たちは決して高慢になってはいけません。自分の力でできることもあればできないこともあると知るのが大人です。ダビデ王は自分の無力を認める祈りをしました。これが解決への第一歩となりました。なぜなら神さまはあなたの救い主として現われあなたを助けようとあなたの病と痛みを自らに負ってくださいました(イザヤ53:4−6)。病は癒されるものです。

自分の責任を受け入れる[3、4節]

 私たちは自分の犯した罪とその結果に対して自分の責任を引き受けなければなりません(2−4)。はじめ彼は正当化することに一生懸命でした。「彼女は美しすぎた、どの王もやっていることだ、あんなところにいたからだ、いや神さまがそこにおいたから神さまが悪い」などなど。彼の弁明を聞くときに私たちはダビデの子孫であること、そしてさかのぼってアダムの子孫であることに気がつかされます(創世記3:11、12)。でもついに彼は砕かれました。自分の責任から逃れることはできないと悟りました。私たちは罪人です。しかも神さまに対して罪人です。人への罪は同時に神さまへの罪です。神さまはこうおっしゃっています、「私に対して悪いことをしただろう」と。そんな罪の結果は恐ろしいものでした。自分がうつになるだけでは終わりませんでした。家族の中に問題が次々と生まれました。彼はそれを認めざるをえませんでした。彼はこうして少しずつ変えられて行きます。自分の真実の姿を見るようになって行ったのです。

罪を赦される[7−19節]

 罪を赦していただきましょう。こうして私たちは神さまのもとに帰ります。私たちは神さまに造られました。神さまのもとに帰らないかぎり平安も喜びも本当のものはありません。自分を見れば見るほど絶望感のとりこになるでしょう。内側は汚れと罪とでいっぱいなのですから。しかしこんな絶望こそ祝福です。神さまは愛の神さまです。あなたは愛されています。あなたは裁かれるべきではありません。神さまの怒りは罪に向かうのであって、あなたに対してではありません。あの放蕩息子のように今のままで神さまの前に出ましょう。あなたを変えるのはあなたの仕事ではなく、神さまのお仕事です。あなたは神さまに歓迎されています。イエスさまはあなたの罪を背負って十字架に死なれ、あなたが受けるべき罰を受け滅ぼし復活してくださいました。イエスさまを受け入れるとき即座にあなたは神さまの子どもとなって永遠の命、永遠の祝福を受け取って新しいあなたとして歩き始めることができます。あなたが罪の赦しを受けるとき、それはあなたが聖霊さまの温かいお取扱を受けるときです。ダビデはちょうど逆のことを恐れていることを知ってください(11)。

日々聖められる[1−14節]

 罪から日々聖められましょう。特に一日を振りかえって思い出す罪を告白し悔い改めましょう。罪は十字架と復活によって確かに赦されていますが、その感じがない人がいるのです。悔い改めをする者にこそ神さまは赦されたことの確信と喜びとを与えてくださいます(第1ヨハネ1:9)。ある人はこれを「クリスチャンのための石鹸」と言いました。あなたの罪は即座に聖められます。平安が来ます。

 さてゆううつに陥っている人にはもうひとつの告白すべき罪があります。さきほど述べました自分への同情の罪です。これは信仰と両立しません。信仰とは何でしょうか。「すべては益となる」ことを受け入れることです(ローマ8:28)。「こんなひどい目にあった!」といつまでも言い続けることは信仰にふさわしくありません。あなたの目と頭で判断しても必ずしも正しい判断とは言えません。神さまを愛する者には悪いことは起きません。もし一日を振りかえって自分に同情心を持っていたとしたなら正直にそれを告白して赦していただきましょう。こうしてダビデは心の中に真実の喜びを経験して行きました。彼は賛美を始めました。

賛美する[8、12、14、15節]

 結局ゆううつを撃退する方法はここにたどり着きます。それは賛美です。でも顔をしかめての賛美では賛美にはならないでしょう。心の中に本当の平安、神さまに受け入れられたと言う納得があるならそれは沸き上がるでしょう。すでに述べた順番を試してみてください。賛美を続けることによってあなたはゆううつから解放されます。ダビデの神さまはあなたの神さまです。「イエス・キリストはきのうもきょうもいつまでも変わることはありません」(ヘブル13:8、11:6)。ダビデの神さまは今もあなたを助けたいと願っていらっしゃいます。あなたはゆううつから解放されます。元気はつらつは神さまのみこころです。世の人々はどう反応するでしょう。「あなたの平安と喜びはどこから来るの?」と、きっとこのようにあなたは聞かれるでしょう。あなたの生活に真の喜びがあるならあなたの真の親である神さまは喜んでいらっしゃいます。どこに自分の子どもが悲しんでいていいという親がいるでしょうか(マタイ7:7ー11)。あなたに神さまの豊かな祝福をお祈りします。


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