74.祝福を勝ち取る信仰

●聖書箇所[マタイの福音書15章21〜28節]

 天国にはいるための条件とはイエスさまを信じることです。父なる神さまが子なる神さまをこの世につかわして、私たちの罪のすべてを負わせ、勝利のあかしとして3日目によみがえらせて下さったと信じることです。
 しかし信仰とは表に現れるものだと言われています(ヤコブ2:26)。恵みと祝福は信仰によって表に現れます。信仰生活は神さまと人間との協働作業ですから、そのためには私たちの方にもしなければならないことがあります。神さまは人に人格と自由意志とを認めておられます。機械なら全く100%いいなりになります。でも喜びはありません。新しく祝福を勝ち取る喜びこそ神のかたちに造られている人、あなたが持たなければならないものです。
 今日は祝福を勝ち取るためにはどうしたらよいかを学んで参りましょう。テキストにはツロ・フェニキヤの女の話が出て来ます。悪霊につかれた娘がいて、癒されました。彼女の姿勢から学びましょう。

神さまの愛を信じました

 愛は信仰を生み、育て、恵みと奇蹟を起こします。死は私たちの心を萎えさせ、前進する意欲を失わせるほど大きな力を持っていますが、それよりももっと大きな力を愛は持つています(雅8:6)。
 イエスさまは外国の地におられ、すなわち外国人であり、女にとっては異性です。当時は特に異教徒としかも女性と道端で話をすることは不道徳であり実際考えにくいことでした。汚れが伝染するとも信じられていました。ユダヤ人だけが神さまによって聖められているというのです。また女の人が道端で男の人と話をしたというだけで離婚の条件は整いました。イエスさまは環境上の壁、心の壁、つまり人間の持ちやすい先入観、差別などのすべてを乗り越えておられます。神さまの愛はどんな壁をも破ってあなたのもとへやって来ます。イエスさまは疲れておられました。休もうとしてこの地方に来ていらっしゃいました。けれども愛に休みはありません。この女はこのような愛の性質を自分の娘の上に求めています。生まれながらの人にはこのような真の愛はないことを知りましょう。ならば愛を貰わねばなりません。彼女は神さまにそれを期待しました。愛は働き、いやされました。だれでも心を開き、十字架のあがないを受け入れるとき、愛を受け、恵みにあずかることができます。

神さまを礼拝する信仰がありました

 「主よ。ダビデの子よ」(22)。「主」は必ずしもまことの神さまを指すことばとは言えません。ここでは単なる敬称かも知れません。ダビデの子とはメシヤ(救い主)を指しています。ただし当時の一般的メシヤ観は、かつての黄金時代である「ダビデ王朝」の再興者というものですから、奇蹟をなし、不思議をするスーパースター、或いは政治的軍事的メシヤです。力を期待する点から見れば当たらずと言えども遠からず。
 さてやがてはイエスさまがこの女の信仰を褒めておられるのですから、少なくとも25節の「主」は単なる敬称ではないでしょう。それとも初めからそうだったのでしょうか。いずれにしても単に奇蹟を行う者へ、ではなく神さまへの信仰があります。単なる願いではない、真実の祈りがあります。偉い人へお願いすることはときとして偉い人を欲望達成のための道具と考えさせるものです。しかし主への祈りは主への畏敬の念を育てます。これが礼拝です。これが神さまとあなたとの本来の正しい関係です。礼拝から生まれた祈りがこの女の願いをかなえました。ツロ・フェニキヤ地方は本来イスラエル人のものです。少なくともそのはずでした。ヨシュアを先頭に支配を目指しましたが、不従順の罪のために点の支配という不充分な支配しかできませんでした。あいかわらず異邦人の土地でした。ですからこの女が祝福を勝ち取ったことは不信仰の故に祝福を受け損なった「神さまに特別に選ばれたユダヤ人」への皮肉でもあります。正しく礼拝する者に神さまは充分なことをしてくださるという信仰があれば、だれでも祝福は受けられます。

忍耐力がありました

 この女にはなりゆきまかせの無責任さはありません。祈っていないと何かいやなことが起きそうだとかいう消極的な姿勢はありません。イエスさまだけが希望ですと告白し、また行動しています。人生を真剣に生きようとする者に神さまは夢と忍耐力をくださいます。
 さて訴えを聞かれたイエスさまは驚くべきことに、女に向かって「小」が付きはするか「犬」とおっしゃっています。忍耐なくしてはこんな言い方には耐えられないでしょう。カーッとなったら、その時すべてが終わります。かつてスリヤの将軍もその誇り高さの故にカーッとなりかけ、祝福を受け損なうところでした。何しろ「天下の将軍さま」に向かって、預言者は直接合おうともせす、使いの者はよこす、その上「ばかばかしい」指示を与える、それでライ病が直るというのです(第2列王5:1〜14)。
 どうか覚えてください。一度でだめなら2度、2度でだめなら3度やったらいいのです。忍耐が祝福と勝利を運んで来ます。祈りもしかり。単なる儀式でもなく、仕事でもなく、神さまによって定められた、願いを実現するための手段ですから決してあきらめてはいけません。忍耐する人は早合点しないで、冷静に対処します。
 「犬」とは、この女はギリシヤ人ですから、恥知らずのずうずうしい女といった意味です。ユダヤ人の場合も同様に汚れた者の意味です。外国人(異邦人)に対しても使いました。この女の中に何かが起きています。いや神さまによって起されています。
 未完成の橋がフランスのアビニヨンにあるそうです。左側が神聖ローマ帝国(ドイツ)領、右側はフランス領、話し合ってそれぞれ橋を架け始めました。ところが古来犬猿の仲、結局完成しなかったそうです。神さまは祝福を向う岸から橋を架ける形で用意してくださっています。問題は人の側にあります。もう少しの忍耐、もう少しの信仰、もう少しの行動が必要です。神さまは必ず祈りを闇かれます。

陽気でした

 この女は困っています。でも陽気さが標っています。真剣な中にもユーモアを解する知恵があります。神さまを信じ、未来に生きようとするならこれを模範にしましょう。
 さて26節のおことばに注目してみましょう。これを真顔でおっしゃったとは考えにくいのです。これほどきつい表現はないでしょうから。ユーモアはユーモアのセンスのある人によってのみ正しく受け取られます。信仰はこの女に陽気さを与え、イエスさまの陽気さと同調しました。イエスさまのお声の調子、顔の表情を見逃しません。
 まず「子どもたち」(26)に、とは選民イスラエル人にということです。しかし女は反撃?しました。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」
 ギリシヤ人は当意即妙に答える才能があると言われています。チャンスを生かすも投すもあなた次第ですよ、というイエスさまの意図を直観しました。イエスさまは両手を上げて降参です。もはや断る理由はありません。とうとう女は欲しい物を手に人れました。どんなときにも陽気に笑顔で生きる者は最後には大笑いするのです。神さまの祝福を勝ち取られるよう主の御名によってお祈りいたします。

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