75.信仰生活の動機

●聖書箇所[マタイの福音書15章1〜20節]

 警察が犯人を特定する時には動機があるかどうかを丹念に調べます。人が行動する時には必ず動機があると考えられているからです。
 ある学校で生徒たちが先生に自発的にプレゼントをあげましたが、受け取って良いのかどうかが問題になりました。反対論にも一理あります。やがて強制的になったり、生徒やクラス間で競争になったり、というふうに初めの気持ちが変化して不純になるからというものです。この場合の気持ちも動機です。
 信仰生活にもあります。もし不純なら、神さまに喜ばれず、恵み豊かで美しい生活にはならないでしょう。正しい動機を学んでみましょう。

隣人への愛

 ユダヤ人の間では「律法(神さまの法律)がこう言っている」と言えば、すべての議論は終わってしまいます。この律法は最も狭い意味では十戒を指しますが、さらにはモーセ5書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を指します。ともに原則です。
 しかしユダヤ人はこう考えました。全知全能の神さまが書かれたものだから、これらの文章には日常生活の細部にわたつて必要なものすべてが含まれているに違いない。そこで紀元前5世紀ごろから細かい規則を作り始めました(これが口伝律法、つまりミシュナー。紀元前3世紀に成文化)。したがってイエスさまが地上を歩まれた時には口伝で流布していました。この中に食事の前に手を洗わなければいけないという規則がありました。汚れを除くための一つの儀式です。これが実にややこしい。水をかけるには指の先を上にして、上からかけます。水の量は卵一個半分です。さてかけると、手の汚れが水に移り、この水によって手が汚れます。そこで次に指の先を下にしてもう一度かけます。なんと大仰なことでしょう。でもパリサイ人や律法学者は真剣でした。生活していると汚れが移るからというのです。たとえば汚れた動物(豚や野うさぎなど)や死体に触れた人、出産直後の母親、足の不自由な人などから。外出した時などだれに汚れを移されたかわかりません。帰宅するや否や全身を水で清めました。
 はたしてこんなことが律法の真の意図なのでしょうか。そうではありません。律法は人を裁くためにあるのではなく、罪の赦しを宣言するイエス・キリストへ招くためにあるのです(ガラテヤ3:23ー26)。隣人の罪を糾弾するためにあるのではありません。
 でもパリサイ人や律法学者は自分たちの「清さ」を誇るために人々を責めるという貧しい発想しか持っていませんでした。隣人への愛が欠けています。エゴイズムの信仰生活です。ですから彼らには心の平安がありませんでした。
 ほんとうの信仰生活は「私の罪と汚れはイエスさまの十字架によって取り除かれ、さらには平安が与えられた。あなたも経験できますよ」というあたたかい思いを持って生きるものです。もしあなたがこのようであるなら、神さまは「私の栄光が表されたされた」とお喜びになって、あなたに多くの恵みをくださいます。

神さまへの愛

 供え物をコルバンといいますが(マルコ7:11)、贈り物のことです。一度神さまに向かって、あるものを指して、「これはコルバンです」と言えば、「差し上げますから、どうぞご自由にお使いください」の意味になります。もはや他の目的には使えません。
 パリサイ人や律法学者はこれをどのように運用したかは5節と6節に書いてあります。説明しましょう。十戒には「両親を敬いなさい」とありますから、子どもは貧窮している親に経済的援肋を与えなければなりません。しかし親孝行する子どもばかりとは限りません。小利口に考えられた手が「これはお父さんやお母さんにあげたいものなのですが、実はコルバンなのです」という言い方です。こうして子どもは親への責任を回避しました。しかしこのような態度を見逃せない、良心が許さない人々もおりました。すると口伝律法の「誓いを果たさなければいけない」項を持ち出して、「一度言ったことを変えてはいけない」と反論もしたのです。
 神さまヘの愛はみせかけであって心は貪欲であることをイエスさまは見抜いておられ、「こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました」(6節)とおっしゃっています。
 人の作る規則は結局人を殺すものです(罪人が運用するゆえに)。でも神さまは人を生かしてくださいます。神さまを愛する心を持って真実に「コルバンです」とすべてのものについて言うとき、神さまはあなたを愛しておられますから、あなたの必要なものを取り上げたりなさらないばかりか、それらを正しくかつ最大限有効にしかもあなた自身のしあわせのために用いることを許してくださいます。

自分への真実な愛

 「私は本当に清いのか」と問うてみましょう。もちろん刑務所にはいったこともはないでしょう。裁判所で被告の席に着いたこともないでしょう。でも心の中はどうでしょうか。
 パリサイ人や律法学者たちは外面的には清さの条件は十分に備えていました。施し、祈り、断食という三大義務といわれるものを立派に果たしていました。ところが彼らはイエスさまを憎みます。汚れた内面を指摘されたからです。人は弱い部分や隠している部分に触れられると内心穏やかではありません。というより激しく動揺し、その動揺をおさえるために攻撃に出たりするものです。
 イエスさまは提案なさいます。「神さまの力に依り頼めば心の奥まできれいになりますよ」でも彼らのプライドが許しません。「自分たちこそ神さまを知っている、自分たちこそが神さまに選ばれている」はずであったからです。イエスさまのおっしゃることが正しければ正しいほど憎しみはつのります。なんとか一矢報いたい。
 さあチャンスがやってきました。「パンを食べるときにあなたの弟子たちは手を洗っていないじゃないですか」とアピールします。心の中身では勝負できず表面上のことで勝ち誇ろうというのです。
 私たちの心の中はどのようなものでしょうか。他人を利用しようという思い、エゴイズム、肉欲、憎しみ、ののしり、裁きなどの思いで満ちてはいないでしょうか。目に見える部分が整っていても、目に見えない部分が整っていなければ一人の人として決して健全ではありません。しかし希望があります。「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです」(コロサイ3:3)このみことばは、今のあなたは実は本当のあなたではないと教えています。
 ではどうしたら清い本当のあなたを見出すことができるのでしょうか。それはただ一つ、十字架のあがないです。イエスさまは十字架であなたの過去、現在、未来を通じてのすべてのみにくいものを負ってくださったのです。これを受け入れるならあなたは真のあなた自身に出会うことができます。清くて美しいあなた自身の姿を見ることができます。このようなことを、「自分を真実に愛する」というのです。これこそ大事な信仰生活の動機です。努力することも立派です。でも限界があるでしょう。イエスさまを受け入れるなら聖霊の神さまがあなたの中に住み、清め続けてくださり、あなたの大切ないのちを真に生かします。やがてあなたの周囲の人々は気付くでしょう。どうしてそんなに喜んでいられるの、何がそんなに嬉しいの。

 神さまはあなたを心から愛しておられます。その神さまとともに歩む生活に正しい動機を持ち込み、更なる祝福を受けて参りましょう。


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