76.イスラエルの神が崇められるとき

●聖書箇所[マタイの福音書15章29−39節]

 親がほめられる経験を私は持ちました。友人たちのある日の会話。「井上のお父さんは警察で偉いんだぞ(注:警察官僚でした!)」また勤め先である役所へ私が出かけると広い個室で執務していて、「ホントーだ!」と感心したものでした。父は自分の職業に誇りを持っていましたし、私たち子どもたちには「俺のようになれよ」と教えてもいました。自分に自信があるとき親はそうなのです。でもいくら立派な親であっても人であるかぎり間違いや失敗や限界があるものです。もちろん善意でするのですが。
 今日は天のお父さまの私たちへの完壁な願いとみこころとを学びましょう。子どもたちが立派であるとき霊魂(たましい)の父であるイスラエルの神さまが崇められますから。

神さまと深く交わる

 イエスさまはフェニキヤ地方にお出かけになりました。十字架の死を前に同胞のユダヤ人と従来の活動領域とから離れることには大きな意味がありました。人々のあがないとなられるという大事業を前に新しい時代を担う弟子たちを訓練し整える仕事が残されていました。
 学者は、おそらく数ケ月間この地方に滞在されただろうと言っています。というのは5000人の給食のとき、「緑の草の上に」とあり、春であることがわかります。このときにガリラヤ湖を出発なさいました。デカポリスでのできごとは、地面の上で4000人に給食ですから、これは夏に向かう頃です。
 ガリラヤ湖からツロ・シドンのフェニキヤ地方までは数10キロメートルです。そしてガリラヤ湖南岸のデ力ポリス地方へというルートです。この間弟子たちを連れて狭い範囲を遠回りして最期の教育を与えておられます。比較的周囲に気をつかわずに済む、つまりイエスさまと弟子たちだけの残り少ない貴重なときでした。それはそのまま神さまとの親密な交わりの時でした。
 信仰生活で大切なことは神さまとのコミュニケーション・交わり、すなわち祈りです。それも熱心なものである必要があります。福音書においてみうけられる奇蹟は熱心な願いと祈りに対する解答です。「衣のふさにでも触れるなら。こぼれたパンでもいいから。わざわざ来ていただくことはありません、おことばだけでけっこうです」 真実の叫びを真剣に祈るときに神さまは応えてくださいます。
 ところでこのように祈ろうとするときの障害は何でしょうか。ひとつは、正しい神さまのイメージが欠けているときです。聖書を正確に読まないとそうなります。その正しいイメージとは、「罪と呪いの中にうめき苦しんでいる人間の世界に自ら身を投じてそれらあらゆる辛苦をなめ、果ては呪いの極致として十字架の上で死なれた。しかし私たち人間に希望を与えるべく、人間にとっての最大の呪いであり敵でもある死を滅ぼして3日目によみがえられた方」というものです。ここにはひとり子キリストへの愛情と私たちへの愛情のはざまに葛藤なさる父なる神さまの姿があります。神さまは、しかし今あなたを愛しておられます。神さまから生活上必要な、しかも大きな力を引き出すために、神さまに関するこのような正しいイメージとともに大胆に祈って参りましょう。

思いやりを持つ

 イエスさまは人々をその他大勢でお取扱いなさる方ではありません。一人一人を実によく大切にされる方です。従って個々の問題に対しても同様であって細かい配慮をしてくださいます。
 ある注解者によると、イエスさまのご生涯は3つに分けることができるそうです。それぞれ最後の部分に特徴があります。それは食事を与える場面です。公生涯の第1の部分はガリラヤ伝道時代で、5000人の給食で終わっています。第2は今回のテキストの部分ですが、フェニキヤ地方、デカポリス地方など異邦人への伝道時代です。これは4000人の給食で終わっています。第3ではエルサレムへ行かれ最期の晩餐をなさっています。
 この説明の特徴の持つ意味は何でしょうか。思いやりです。人々の心の隅々にまで行き届く配慮です。最大の問題から最小の問題まで何一つ軽く扱わず手抜きをしないことです。人々は3日間もイエスさまと一緒で、しかも遠いところから出かけてきています。疲れてもいるし、おなかもすいているに違いありません。「霊的な食べ物を取っていれば充分だ」、「信仰に熱心なら時間のことなど気にするな!」などという言いかたは正しくありません。人の必要は全人的であり、肉体の欲求もまた大切なものです。イエスさまは「まず食べなさい、そして帰宅して休みなさい」と言っておられます。イエスさまのこの細かく行き届くご性格に似ることが神さまのみこころです。
 しかし罪人はそうはできないのです。利己主義こそ人の本性です。神さまご自身にそうできる者にしていただきましょう。聖霊さまと深く交わり充満していただきましょう。聖霊さまこそ不可能を可能にしてくださいます。イスラエルの神はこうしてご自身の栄光を現そうとされています。

新生の体験を語る(あかしをする)

 ガリラヤ湖南岸にどうして4000人(女、子どもは別にして)もの人が集まったのでしょうか(マルコ8:9)。
 かつてゲラサ人の地でイエスさまによる悪霊追放事件がありました。このときイエスさまは「弟子になりたい」という希望に対してただ一言、「あなたの身に起きたことをあかししなさい」とだけおっしゃいました。ゲラサ人の地とはデカポリス地方の真中です。この事件の実に違いありません。「イスラエルの神を崇めた」とは異邦人の言い方であって、社会や人々の心が大きく動いたことを示しています。
 5000人の給食のときに使ったかごはコフィノスといいユダヤ人のものです。ひょうたん形ですえ広がりになっています。彼らは外出の際、律法に触れる汚れたものを食べなくてもいいように弁当入れにしていました。こうしてユダヤ人への伝道だとわかります。
 ところが今回の場合はスプリダス(いかご、つめかご。マルコ8:8)で異邦人のものです。パウロがダマスコから脱出するとき城壁からつりおろされますが、そのときに使われたものです。目の粗いものです。福音が異邦人に開かれたことを示しています。
 救いはすべての人に解放されています。求める人に神さまは愛をもって現れてくださいます。救われにくい人は神さまから見てもはや特定の人を指すことはありません。男、女、上司、部下、金持ち、貧乏人、年配者、子どもなどだれでも永遠の幸福を手にすることができます。そしてあかしはすべての人に救いを与える、神さまのお定めになった手段です。誤解は自分が救い主になろうとすることです。あかしは説教ではありません。説得ではありません。「私はこのようにすばらしい恵みを受けました」とただ事実を語るだけのことです。「私の中になされた神さまのみわざはこれです」と語ることです。
 ジョン・バンヤン(19世紀イギリス)は日だまりで2、3人のおばあさんが新生(イエスさまを信じること)のあかしをしているのを聞いて回心しました。偉大な人物がこうして一人誕生しました。神さまはこのおばあさんたちを用いてくださいました。
 人にはそれぞれ与えられた分(賜物)があります。あかしはそれにいのちを与えます。その賜物とは神さまのものであり、だから天(神さまの御座)では喜びが湧き上がります(ルカ15:7)。地上ではイスラエルの神が崇められます。あなたのあかしはあなたへの神さまの力を解放します。あなたの肯定的なあかしはあなたの未来を肯定的な明るいものにします。神さまの祝福があなたにありますように。

メッセージ集に戻る