77.山上の変貌

●聖書箇所[マタイの福音書17章1−13節]

 とても有名な箇所です。この山はヘルモン山と呼ばれ、中腹での出来事と思われます。なぜイエスさまは人里離れた所へお出かけになったのでしょうか。それは十字架にかけられることが父なる神さまのみこころであることを確認する必要を覚えられたからです(ルカ9:3l)。
 それにはこのようないきさつがあります。はじめの人アダムは神さまとの友情を捨てて自分の力だけで生きて行くことを決めました。以来人と世界は美しい創造の秩序を失いました。神さまの愛から離れることは不幸を招くことでした。そこで愛の神さまは第2のアダム(イエス・キリスト)を地上に送り、私たちを不幸から解放しようと計画なさり、十字架こそその手段であるとの結論に到達されました(ローマ5:19)。
 さてペテロとヤコブとその兄弟ヨハネという弟子たちの前でモーセやエリヤと話し合われた、十字架によって解放され、あなたが入っていく魅力的な世界について学びましょう。

愛の世界

 この世は憎しみに満ちています。報道機関は醜い争いのニュースばかり流しています。ピアノ殺人、通り魔、遺産相続争い、跡目相続争いなど。
 さてモーセは律法(神さまの教え、法律)を私たちの世界にもたらしたことで栄光の座にある者ですが、イエスさまはそれの真の精神をお教えくださいました(マタイ22:35−40)。その精神とは愛。十字架とはその愛の実践以外の何ものでもありません。
 モーセは律法によって私たち人間に罪深さと愛の欠如を従ってそこから来る不幸を教え、イエスさまは私たちに代わって罪の責めを受けてくださることによって律法を成就し完成してくださいました。
 人々はさまざまな価値あるテーマを叫びますが、実質がなければ意味のないことです。イエスさまの愛は実質的、従って本物であって、それはいのちを捨てることです(ヨハネ15:13)。「さあ、今こそイエスさま、おいのちをお捨てください」とモーセは言います。父なる神さまは人を救おうとされています。第一のアダムにより失われた愛を本来神の子たちであるあなたに回復しようとされています。イエスさまはこの願いをお知りになり、これを動機として十字架に進まれました。このようなイエスさまの歩みはご自身のよみがえりによって結実しました。
 イエスさまはあなたに代わって死なれ、よみがえられて、あなたが愛を持ちつつ生きるいのちをあなたに保証してくださいました。イエスさまを受け入れるあなたは愛の世界に生きる特権を得たのです。すなわち、「私は神さまに愛されているし、信仰と祈りによって愛する力をいつでも引き出せる」という信仰です。

神さまのことばの世界

 この世は人のことばの世界です。その特徴は何でしょうか。第1に偏見です。人生は仕事だ、金だ、物だ、墓場へ行くまでだと考えます。そこに希望はありません。一体だれが、またなぜ人生は50年とか80年とか決めたのでしょうか。まことの神さまは永遠だとおっしゃっています。
  • 第2に安易さがあります。インスタント時代が作り出したものです。長い間種を播き続けたからこそ今日の私たちがあります。もしそれを元に戻したいと願っても概ね少なくとも2ー3倍程度の時間、労力、犠牲が必要なはずです。でも魔法のようにパッと変われるというイージーさがうけています。
  • 第3に空しさがあります。プラトンは戒めました、「吟味されない生は生きる価値がない」と。
 「どうせ私はダメだ、自分なんか死ねばいい」というふうに安っぽく自分の人生を考えるとき、空しさがあります。反省もしないで放り出しています。柿の種を蒔いて桃を収穫することはありえません。反省と悔い改めと未来への挑戦を持たずして生きるのは吟味されていない生、良い種を蒔いていない生です。
 エリヤが登場していますが、イエスさまが十字架にお掛かりになるのは正解だと言っています。エリヤは預言者の中の預言者です。神さまからことばを受けて話します。みこころを話します。神さまのことばを生きるときに人生には価値が生まれ「夢と希望」が保証されます。
 人のことばは裏切りますが、神さまのおことばにはそのようなことがありません。あなたを失望させるものは何一つありません。
 人のことばには種々の限界があっても、神さまのおことばはそうではありません。イエスさまは父なる神さまのおことばをいただきたかった。神さまのことばは永遠に有効な保証書です。これさえあれば地上にあって、天上にあって、豊かな祝福を受けることができます。
 イエスさまはあなたを、神さまのおことばによる保証の世界へと解放してくださいました。みことばを学びましょう。よみがえられたイエスさまは今あなたの心の中に聖霊さまをお遣わしになり、神さまのおことばである聖書を解き明してくださいます。あなたに個人的に意味を教えてくださいます。あなたに個人的に約東と夢とをくださいます。

聖霊さまによって判断する世界

 この世はエゴの声の大合唱でやかましいかぎりです。国際会議場は国々のエゴのぶつかりあう、政党は派閥のエゴのぶつかりあう、家庭は親や兄弟たちのエゴのぶつかりあう場です。
 しかし聖霊さまに導かれるとそれらのように肉によって判断することなく、そのためにどんな世界もとても美しいものに変わります。
 さて「光り輝く雲」はかつてのイスラエル人の荒野の生活を思い起こさせます。昼は雲、夜は火の柱でもって主自らイスラエル人を導いてくださいました。この雲こそ神さまのご臨在のしるしです。彼らは全能の神さまが共に歩んでくださると信じて進みました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」(5)との提案は聖霊さまに導かれてはじめて正しく理解されうるものです。
 しかし当時のペテロやヨハネの信仰はまだ弱く「光り輝く雲」に聖霊さまのご臨在を知ることがありませんでした。山上の変貌という事件に出会った驚きと感激とから来るトンチンカンな応答だけが目につきます(4)。もちろんペテロにすれば精一杯のことだったのでしょう。でも聖霊さまに導かれない判断やら応答は劣等感、恐怖感、失望感、誤解などを招きやすいものです。
 デボーションのときに聖霊さまに呼びかける祈りをしましょう。平安とともに心にわきあがる思いに注目しましょう。聖霊さまがあなたに語りかけておられるかもしれません。それこそ栄光のとき、あなたが神さまときわめて親しく交わっているときです。子どもの信仰(肉による判断中心)から脱皮して神さまと2人だけの瞬間を楽しみましょう。すばらしい人生の知恵に導かれます。日常生活の中に、ごくあたりまえの平凡な生活の中にめりはり、確信、喜び、平安などが生まれます。
 私たちは疲れ切っています。疲労の極に達しています。人を愛することができません。人を傷つけ、憎み、妬み、またそのことによってなおいっそう自分を傷つけてしまいます。でも聖霊さまとの交わりという栄光の瞬間を多く持つとき、あなたの人生も日々の生活も輝き出します。あなたに神さまの祝福をお祈りします。

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