81.荒野の誘惑

●聖書箇所[マタイの福音書4章1−11節]

 私が時折通る道ぞいの、武蔵野の面影を残す大きな林があるとき突然きれいな住宅地に変身しました。土地の所有者が賭博に手を出し、大きく負け取り上げられたためでした。彼はすべてを失いました。
 私たちの住んでいる世界にはさまざまな誘惑があります。お金、性、地位、名誉、出世などいずれも私たちの心を引き付けるのには充分な強い力を持ち、一歩間違えれば人生は破滅させられます。今回はこれらの誘惑に勝利する方法をご一緒に学んで参りましょう。
 ところでなぜこの箇所が参考になるのでしょう。つまり神の子イエスさまなら勝利なさるのは当然ではないでしょうか。「あなたが神の子なら〜」(3、4)の「ならei(ギリシア語)」に注目しましょう。これは「もしかしたら〜かもしれない」ではなく、「〜であるから」の意味です。eiとは仮定が事実である場合のみ使われる語です。従って「イエスさま、あなたは神の子なのだからその力を使ってみなさい」となります。しかし拒否なさいました。イエスさまはあなたと同じ人間性において、しかもあらゆる試み(ル力4:13)をお受けになって勝利なさったのです。ここにこそあなたの希望があります。

第1の誘惑及びそれに対する答は3、4節

 これは世界を2元的に見せる誘惑です。断食の後のことですから、激しい空腹がイエスさまを襲っています。サタンはこう言っています、「神は確かにいる。でもこの分野では何の力もない。もしあるとするなら石をパンにしてみたらどうか。人は心と体でできている。神は心を慰めはするが、体の要求には答えることができない。精神的な助けや気休めはくれるが、実際的な助けはくれない。でも私ならできますよ」と。これは2元的人生の提案です。日曜日は神さまを信じ、月〜土曜日は他のものを信じるというような。神さまへの信頼を試しています。
 イエスさまのお答、「人はパンだけで〜」の意味は、「神さまはあらゆる分野で神さまであり、すべての必要を満たして下さる方です」というものです。このような誘惑は、祈り続けてはいるけれども、まだ与えられていないときに受けます。「神さまにもできないことがある(みたい)、全能なんてどうやら怪しいぞ。神さまなんていないんじゃないだろうか」というふうに、だんだんエス力レートしてきます。これはサタンが起こしています。
 このとき最も有効な対応策はみことばを使うことです。「人はパンだけで〜」(4、申命記8:3)と書いてある、という言い方です。ちなみにイエスさまは他の箇所で私(神)としては真実にいのちを活かすパンとして人生上の、人間の持つあらゆる必要を満たすことができる、とおっしゃっています(ヨハネ6:35)。
 また第1の誘惑では次のことも言えます。サタンは人間の持つ正常な欲求を利用するということです。40日の断食後ですから激しい食欲が襲っています。でも正常なものです。神さまのお考えは私たちが与えられた正常な欲求に基づいて、またそれぞれを互いに上手に組み合わせて生活を豊かにしてゆくことです。サタンの誘惑の目的はこれを妨害することにあります。彼は巧妙に自らのメシヤとしてのテビユー時を狙っています。あなたの人生のある時点における大きな飛躍を心を萎えさせることによって失敗させようとしています。このときに使うのが正常な欲求を異常に高めていくというやり方です(ヤコブ1:14、15)。ここに彼のメシアとしての出番があります。
 現代は欲求が激しく刺激される時代です。あなたはそれを神さまに導かれてのみ正しくかつ適切に使うことができます。みことばを用いましょう。信じるものにはみことばとともに御霊の力が働きます。「御霊の実は、〜自制です」(ガラテヤ5:22、23)。

第2の誘惑及びそれに対する答は6、7節

 サタンはイエスさまを聖なる都エルサレム(シオン)に連れて来て、神殿の頂に立たせます。神殿の全体と全市とを見渡すことができ、夕方多くの人々が犠牲をささげるために集まってくるのが見えます。また群衆もイエスさまを認めることができます。
 「身を投げてみなさい」これは、人から注目されたい、カッコ良く見せたい欲求への刺激です。あなたも信仰を理解しない人たちから「全能の神ならやってもらえよ」と言われることがあるかも知れません。しかし奇蹟が起きるT.P.O.は天地の造り主、まことの神さまに依存しています。これ(つまりみこころ)を教えるのがみことばです。
 でもサタンが巧妙なのはみことばにあるじゃないかというセリフです(6b)。あなたはサタンの都合の良い、勝手な引用を見破らなければいけません。「すべての道で」を省き(詩91:11、12)、聖書全体のメッセージと文脈とを無視しています。しかも偉い者を試すことによって不信仰を暴露しています。サタンの使うにせのみことばを見破り、神さまの変わることのない愛を確信して参りましょう。
 日常生活は平凡なものです。力ッコいいこと、衆目を集めることばかり求めて生きるべきではありません。与えられている小さな義務と責任を一つ一つ丁寧に果たしていくこと。これが結果的にすばらしい人生に導きますし、神さまの望んでおられることでもあります(マタイ25:21)。

第3の誘惑及びそれに対する答えは9、10節

 サタンは人を失敗させるきっかけを作るのが上手です。しかしこの誘惑のときにはもはや勝利は得られないと悟ったに違いありません。最後に言うのは「私を拝むなら」。なぜ大胆に「私に仕えよ」と言わないのでしょうか。
 実は彼は自分の敗北の運命を知っています。しかしここでなおチャンスをうかがいます。仕えることは全面的な敗北を意味し、大きな抵抗があります。そこでサタンはその抵抗力を弱めるためにこう言っているのです、「一度でいいからやってみなさい。少しでいいからやってみなさい」と。一度できることは2度できるし、2度できることは3度できるものです。良心を麻痺させるのにそれほど時間はかかりません。
 サタンにしっぽをつかまれないようにしなければなりません。そのためには試練との区別を知りましょう。イエスさまは「御霊(の神さま)に導かれて」(1)荒野におられます。若しみはある方向から見ると試練であり、他の方向から見ると誘惑です。神さまはあなたを愛しておられますので、耐えられるだけの試練をサタンの誘惑を利用してさえお与えになります。ですからとても良い結果を生みます(ローマ5:3〜5)。
 わたしたちは苦しみに合うと瞬時に解放されることを望むものです。しかし勝利の味を味わえるのは戦った者だけであると知りましょう。イエスさまは勝利なさいました。あなたもイエスさまにあってすでに勝利しています。信仰はこの事実を証しし、試練はしばらく後に感情(勝利感、達成感、喜びなど)を与えます。「スカッとさわやか」な実感こそ幸福の重要な要素です。試練を感謝して参りましょう。

 最後に、聖霊さまによってのみ勝利できることを確認しましょう。みことばに力があるのは聖霊さまの保証があるからです。肉的勝利は時間的にも、広がりにおいてもわずかです。しかも高慢にさせます。これ自体大きな危険です。真の勝利者は聖霊さまが証しなさいます。御霊を受け取った人々(クリスチャン)に分かります。サタンはみじめな思いを持って去っていくのが分かります(11)。みことばが強いのは御霊がともに働くときです。イエスさまを信じましょう。あなたに聖霊さまが宿ります。強く信じましょう。強く働いてくださいます。


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