85.史上最悪の刑務所

聖書箇所[マタイの福音書18章21−35節]

 画家が額に汗を滲ませ、一枚の大作に挑戦していました。これが最後、と思う中いよいよ完成に近付いていました。しかし筆を持った手が硬直してしまいました。そうです。こういう経験をもう何度も何度もくり返しているのでした。「あー、だめだ!描けないーー」。画家の名はレオナルド・ダ・ビンチ、『最後の晩餐』を描こうとしていた時のことでした。彼は11人の弟子たちの顔はスムーズに描けたのです。いつも筆が止まるのはユダの顔とイエスさまの顔を描くときでした。ユダのモデルは今喧嘩中の友人、憎しみを込めて描いていました。でも続けてはイエスさまの顔を描くことはできなかったのです。ついに彼は決心して友人のところで出向き、和解をしました。こうしてあの名作は完成しました。
 あなたには「あー、私には力がない!」という経験がありでしょうか。頭の中ではこうすればいいと分かっていながらそうできない状態です。前進できない、克服できない、まるでどこかに閉じ込められたような不自由さです。それではまるで刑務所の中にいるようではありませんか。今回の題は史上最悪の刑務所。34節から連想できる名称です。その刑務所とは「赦さない」というものです。実際は赦す「力」がない、と言った方がいいのでしょう。「無慈悲なしもべ」と言い習わされている箇所から、赦すことについて学びましょう。

問題は何か

 このたとえにおいて何が問題になっているのでしょうか。それは冒頭のイエス・キリストとペテロとの会話にそのヒントがあるでしょう。当時ラビたちから「3度まで赦すべき」と聞いてきたペテロは得意満面で、「7度までではいかが?」(21)と尋ねました。3度を2倍して、さらにボーナスとしてプラス1という数字でした。
 ところがイエスさまからは意外な答。22節をご覧ください。これはもちろん、491回目からは赦さなくてもいいという意味ではありません。ペテロの考え方が適切さを欠いていることを暗示したものでした。彼は「兄弟が私に対して」と言いました。そうではなく、「私が兄弟に対して」と考えて欲しかったのでした。私たちは赦さない罪を犯しているのです。

たとえの意味

 王が自分の財産を預けてあったしもべたちに検査の手を伸したのは当然のことでしょう。王とは神さまを指しています。すべては神さまのものなのですから。これがキリスト教の信仰です。私たちの持ち物はすべて神さまから預かったものです。
 ところで1万タラントの債務をそのままにしていたしもべに目が留りました。でも返済する力がないことを知った王はかわいそうに思って免除してやりました。なんとおうような王でしょうか。でも免除された後のしもべの態度がいけなかった。彼は仲間から100デナリを厳しく取り立てようとするのです。なんとこの差は60万円対1円(注参照)です。
 人はちょっとした拍子にボロを出すことがあります。本性を自ら暴露してしまいます。彼は自分が多額の負債を免除してもらったのにたった1円を免除してやることさえできないのです。負債とは罪を意味しています。

赦すための3段階

1.赦しを受取る。

 免除の申し出を感謝して受け取ることです。ちょうどレストランで、目の前に料理が運ばれてきたようなものでしょうか。神さまはおうようなお方で無料で提供してくださいました。でもあなたにとっては無料であっても、それ自体は無料ではありません。1万タラントは多くの人々にとって余りにも大きすぎる金額ではないでしょうか。あなたはマクドナルドにお出かけになることがおありでしょうか。全国津々浦々までお店を出して1996年度の売り上げが2930億円。その2倍です。支払うことの非常に難しい金額、それが1万タラントの持つ意味です。これは父なる神さまの一人子イエス・キリストを指しています。彼の十字架における尊い犠牲はあなたの負債を代わりに支払うものであったのです。どうか感謝して受け取ってください。

2.赦しを経験し、味わう。

 1の段階では、頭で分かる、理性的に了解できた、レベルで止まるかもしれません。十字架の話は人によって受け留め方が違うものです。「くれるんだったら、もらっておこうか」レベルもあれば、「実にありがたい!」と感動する人もあります。ここが分岐点です。
 あなたは「赦されること」に飢え渇いていますか。もしそうであるならこの1万タラント免除の話は実に感動的なものになるでしょう。あなたはほんとうに変わりたいですか。もしそうなら十字架は変身の転機になるでしょう。赦しを味わうことが大切です。教会でなされる礼拝はとっておきの、それを経験できる場です。
 神さまは世界と人間のリズムを七日間と定めておられます。したがってこのリズムを崩さない方が利口です。6日間(以内)働いて、もう一日は休みます。休みとは忙しく遊ぶことではなく、心身ともに休養することです。その中心が霊魂(たましい)の休養です。霊魂はその人の実体です。そして真にへりくだって礼拝をささげるとき、あなたの中に悔い改めも起こり、人を赦す力も備わり、新しくされます。6日間にはこの世を支配するサタンの影響を受けて私たちは霊的に多少の狂いを得ているはずです。一週間に少なくとも一度の礼拝はそれを微調整するために必要です。礼拝の中には聖餐式(通常はバプテスマを受けた者、すなわちイエスさまを救い主と公に告白した者が受けられます)というプログラムがあります。聖霊さまが特に充満する礼拝や聖餐式の中であなたは赦しを喜びの中で経験なさるでしょう。

3.赦しを分かち合う。

 しもべは与えられた恵みを他の人と分かち合うことをしませんでした。コップの中の清水もそのままにしておけば、やがてぼうふらの住みかになるでしょう。それで34節の表現の意味が分かります。人にあげればいつでも清水です。清水はいつでも湧いているものです。イエス・キリストは言われました。「受けるよりは与える方が幸いです」(使徒20:35)。
 ところでここでクイズ。このしもべはなぜ分かち合わなかったのでしょうか?次の中から選んで下さい。自分に罪があるとは思っていなかった。
  • 自分で負債を処理できると考えていた。
  • 愛ではない、さばきの世界で相変わらず生き、自分を裁判官や警官としての立場に置いていた。
 きっとあなたはいずれの立場でもないと私は思います。赦されたことを感謝し、喜び、他の人とも分かち合う、真に自由な人であると信じます。
 あなたが常に力ある生活を、そして自由な解放された生活をおくられるよう主の御名によって祝福いたします。

[注]
 デナリはローマの貨幣単位で1日分の労賃と言われます。これを仮に現代日本に換算して10,000円と計算しますと、1タラントは6,000デナリですから、1万タラント(18:24)は60,000,000デナリ、邦貨では×10,000して600,000,000,000円。100デナリ(18:28)は1,000,000円。
 1万タラント:100デナリ=6000億円:100万円=600,000(60万)円:1円。
 ただし絶対金額ではなく、差の大きさが注目されるべきです。


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