87.聖書が教える愛

聖書箇所 [ヨハネの第一の手紙4章15−21節]

 今回は愛について学びましょう。愛、魅力のあることば、響きの良いことばですね。だれの心にも希望や夢が生まれます。「そうか、愛が与えられれば私には希望が生まれる、そうだ!」と多くの人が考え始めます。でもちょっと待ってください。だれがあなたに愛をくれるのでしょうか。あまり人に期待するのは考えものです。こういうおもしろい話がありました。
 実は、知り合いが神奈川県のとある町でクリニックを開業しましてね、それはもうわがことのように喜んで、仲間と一緒にお祝いに行ったんですよ。でも、せっかく来たんだからちょっと身体を診てもらおうじゃないかということになりましてね、血液検査をしてもらったんですな。採血するのはベテランの大変美人の看護婦さんでして、仲問の一人がさっそく腕をまくりあげましたところ、彼女はさっと二の腕をゴム管で縛りまして注射器を手にしました。そこまではよかったんですが、彼女とっさにこう言ったんですね。「採血するのは本当に久しぶりだわ……」。腕を出した方は二の句が継げずビビってましたが、彼女、さらに追い討ちをかけましてね。「あら、肉が邪魔して血管が見えないわ。この人には血管がないのかしら……」。そこで、私、仲問をかばって言いましたよ。「彼は欠陥がないほどのいい人なんですよ」。まあ、それはジョークですが、……(『月刊サイト21 2001年10月号』)
 人に期待するのにも限度があります。だれも欠点を持ち、弱さも持っているも
のです。聖書の愛に期待しましょう。では、その愛とはどのようなものでしょう
か。

共感[16節]

 「うちにいる」という表現に気がつきます。「その人の立場に立つ」といったらいいでしょうか。パウロはこう言いました。

「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ12:15)。 「あーっ、あの人、今、どんな気持ちなのかなあー?」というように、人の気持ちを察する、汲むといったことです。この原稿を用意している頃、米国同時多発テロが世界貿易センタービルを破壊したニュースが耳に目に飛び込んで来ました(2001.9.11火)。とりわけ米国人は傷つきました。そのありさまをCNNで見ていた私にはその傷が非常に深いものであることが分かりました。犠牲者は数千人と予想されています。このような時に共感できる人こそ愛の人と言えるでしょう。わがことのように受け止めることのできる人が。日本は歴史の中で無差別攻撃(民間人を含めての意味)を本土において少なくとも三度受けています。米国による東京大空襲、広島と長崎の原爆です。対馬では元冦のときに朝鮮人により住民は皆殺しにあっています。このような苦しみと悲しみを経験した私たちはこのような場合において共感する能力を持っていると言えるのではないでしょうか。
 共感するには鍵となることが二つあるでしょう。すなわち感受性と想像力の豊かさ。これらのものを互いに私たちは普段から磨いていたいものです。優れた教師は生徒と話をするときに、目線の高さを同じにします。たとえことばをまだ理解できない年齢であっても、こうすることによって気持ちが通じることを知っているからです。
 私は娘を幼稚園に朝夕送り迎えをしました。ある日園長先生を玄関でお見かけし、慌てて、娘のうなじに手をかけて、頭をさげさせ、「おはよう」だけではなく、「ございます」を必ず付けなさいと言おうとしました。でもすぐに恥ずかしくなりました。というのは次々に登園してくる生徒たちに向かって、一人一人にていねいにお辞儀をし、「おはようございます!」と声をかけておられたからです。そこには口によるお説教、実に安直なものですが、はありませんでした。園長先生自らがへりくだって、生徒のようになっておられました。イエス・キリストも罪はないお方であられたのに、私たちと同じように、すなわち罪ある者のようになられました。あなたがこのことをおわかりになるなら、そしてあなたの中にお迎えなさるなら、あなたにとって大きな慰めとなるでしょう。

力[18節]

 力は実に魅力的なものです。というのは物を移動させたり、事態や環境を変更させたりできるからです。昔ギリシアにスパルタという都市国家がありました。招かれた隣の王さまがこう聞きました。どの国にも城壁があるのに、なぜあなたの国にはそれがないのですか。王宮の窓へ案内した王はこう答えました。「見て下さい。私は彼ら国民を愛しています。彼らも私を愛してくれています。彼らが城壁です」。いざというときに真の友人は助けてくれるものです。物だって運んで来てくれるでしょう。愛は物をさえ動かします。このような話もあります。
 ソビエト軍に修道院が包囲されました。院長と将校との間にはこのような緊張感のある会話が交わされました。
「今、ここには我々二人しかいない。だから話が漏れる心配はない。正直に言ってみなさい。神だの、イエス・キリストだの、と言うが本当は信じてはいないんだろう、えっ!」
「私は信じています」
と、はっきりとしかも穏やかな顔つきで答える院長に将校は銃口を突き付けて言い続けます。
「うそを言っているぞ。本当は信じてはいないんだ。信じていないと言えッ!言わないと撃つぞ」
しかし何の動揺も見せない院長を前にして、彼は思わず叫び声をあげてこう言いました。
「これだ、これこそ私の求めていたものだ!私もイエス・キリストを信じる!」。
彼はその場にひれ伏しました。
 雅歌8章6節には「愛は死のように強く」とあります。その意味は愛は死の恐れにも負けないくらいの力を持っているということです。私たちはテロに怯えます。なぜ?死への恐怖です。肉親を失う恐怖も死への恐怖です。恐怖に捕われると体も心も萎え、あるいは凍ってしまいます。この聖句は事実上、愛は死の与える恐怖の力を上回っていると言っています。愛があなたの中にあるとき、同時にあなたには勇気があります。どんな場合にも神の知恵とともに前進することができます。今の時代は不況です。経営コンサルタントがこう言います。「仲の良い社長夫婦が経営する会社は不況に強い」。愛はあなたをして新しいことに、難しいことに挑戦させま。

いやし[16、19、20節]

 愛を持っている人は他者を愛する人です。兄弟を愛することができます。愛は目に見えるものです。なぜ愛せるのですか。その理由はすでに受け取った愛がその人をいやしてくれているからです。どうか自分をいやすことを考えてください。そのためには実に簡単かつ難しいことが方法として用意されています。それは、神さまがあなたを愛してくださっています、その愛をすなおに受け取ることです。いかがですか。簡単そう、でも難しいでしょう。これが自分を愛することの実際です。神さまの愛はあなたが思いつかないくらいたくさん、たくさんあなたに注がれています。あなたが神さまの愛で自分を愛しているとき、あなたの中には愛が大量に蓄積され、それがあなたが何をするにも余裕となります。それは生きる余裕であり、人と接する時の余裕です。「金持ち、けんかせず!」と言うではありませんか。ことばづかいや態度、それは心の中味の反映です。余裕があるとき、愛を人に与えることができるときです。

 前橋少年鑑別所に勤務されている今村洋子さんはこう語っておられます。「子どもたちは、会って話をして見ると意外に素直で、『おれが悪かった』とか『人に迷惑をかけた』とすぐに言います。しかしこのようなことは人にとって案外簡単なことであって、次の段階に来て始めて立ち直る入り口に立ちます。すなわち『こんなことをしていたら、自分がダメになる!』という言い方、自覚。ではいつそのような思いになるかというと、雨の時に入り口で傘をさして待っていてくれたとか、『気分はどう?』と気づかうことばをかけてくれたとか、といったことなのです」。彼らは自分の親からそのようなことをしてもらった経験がなかったのです。愛された経験がなかったのです。愛されて人はいやされます。いやされている人は愛するのです。

存在自体を歓迎すること[15、16節]

 上記の節には「ある、いる」という語があります。愛の性質は他者の存在そのものを歓迎することです。罪に支配された考えによると、人間の価値は働きの量の多さいかんによって決定するというものです。

 ドイツに福祉のモデル都市と言われるベーテルがあります。一人の日本人牧師が視察に赴きました。一つの施設に案内され、両側にベッドが並んでいる中を進んで行きました。ベッドの上には寝たきりの人だとか、障害者が横たわっていました。一番奥まで来ると何か棒状のものがベッドの上に見えました。それは丸太ん棒に見えましたが、身長が53cmしかない、50才の人でした。話せず、立てず、排せつなどすべて自分では出来ない人でした。案内者はこう説明しました。「この人は私たちの施設の宝です。戦争中、ヒトラーが寝たきりの人間にお金を費やすのは不経済だから殺しなさい、ただ転がっているだけの人間は無駄遣いだから処分しなさい、と命令して来ました。でも私たちは、もしどうしてもそうするなら、その前に私たちを殺してくださいと抵抗しました。命を賭けてまでも守らなければならないもの、だから、宝です」。
 人間の価値を能力とか国の役に立つからといったことで判断してもいいのでしょうか。存在に、生きていること自体に、「そこにいる!」こと自体に価値があるのではないでしょうか。神さまはあなたの存在を心から歓迎します。あなたが「今そこにいる」、それだけで充分に歓迎されています。そればかりではありません。あなたがこの世で生まれ、働きを始める前から、いやもっと前の世界の基の置かれる前からあなたは愛されていました、あなたの存在は歓迎されていました(エペソ1:4、5)。

 ではどのようにしたら聖書の愛を私たちは経験できるのでしょうか。
 ここでもう一度注意してほしいことがあります。それは人への依存。中国奥地宣教協会を主宰したハドソン・テーラーは派遣される宣教師たちに決して定額の給料を支払いませんでした。神に信頼することを望んだから。そうして彼らは立派な働きをして行きました。定家都志男牧師がこう言っています。

 教会の中に、いわゆる正しい人が多くなると、それはキリストのからだではなく、悪魔のからだにだらくし、対立と抗争と分裂の一途をたどるほかはない。「私は罪人だ」と自覚する人が多ければ多いほど、教会は一致できるのではないか。

 いわゆる正しい人というのは他者を裁く人です。あの人には愛がないとか。

 ダミアン神父をご存じでしょうか。彼はあるとき心に感じることがあって、社会から見捨てられ哀しい思いをしているライ病者に自分の人生のすべてをささげる決心をし、ハワイのモロカイ島へと渡りました。でも彼は歓迎はされませんでした。「あんたにおれたちの気持ちが分かるか?」と言う彼らの突き刺すような敵対するかのような目に彼は苦しい思いをしました。彼は祈りました。「どうか神さま、私をあの人たちと同じようにしてください。私にライ病をください」。

 ある冬の夜、薪のそばで本を読んでいましたが、薪が彼の足の上に崩れて来たのです。でも不思議にも痛みを何にも感じないのです。彼は喜びました。「神さま、ありがとうございます」。ライ病になったのでした。以来人々の態度は全く違ったものになりました。多くの患者さんを看病し、彼らの為に家を建て、見取りました。彼の生涯は愛に満ちた輝いたものでした。
 立派な愛です。しかしだれもがこのようなことができるわけではありません。さきに書いたような程度、赤ちゃんとは四つん這いになって目と目とを合わせ、にこっとする、これなら私にも……。そうです。愛には階段がレベルがあります。一つずつ上がって行くのです。互いに励ましあいながら。そのために、礼拝があります。個人でする礼拝はデボーションと言います。神の家族でする礼拝も大切です。そこで何をするのかと言えばみことばとの交わり。ことばはそれを発する人格そのもの。みことばに親しむ人には神さまの愛のご人格が伝染します。少しずつ少しずつ私に伝染して来てくださいと、願いつつ、祈りつつ、読むのです。神さまのあなたへの熱い愛があなたを愛の人に変えて行ってくれます。


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